まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

人種と知能(1)

知能の勉強を細々と続けているが、この分野でいつも大きな議論になるのが、人種と知能の関係だ。このテーマはきちんとしたリサーチに基づかないことをうっかり述べてしまうと影響がきわめて大きいので、現在の研究でどういうことがわかっているのか(わかっていないのか)を簡単にまとめる目的で、サーヴェイ的論文を二篇紹介する。ひとつは

The Cambridge Handbook of Intelligence (Cambridge Handbooks in Psychology)

The Cambridge Handbook of Intelligence (Cambridge Handbooks in Psychology)

に収録されているDaleyとOnwuegbuzie(発音できない)の論文だ*1。この本は知能論の大家であるSternberg先生が編者の一人であるハンドブックなので、おそらくまったくでたらめということはないだろうと踏んでいる*2

この章は「人種と知能」と題されているが、基本的には米英における白人と黒人のIQテストの成績の差について議論している。現在米英在住の白人と黒人がIQテストを受けると15ポイントほどの差が見られる。IQテストの成績では15ポイントの差が一標準偏差となるように得点をつけるので、白人黒人の差は非常に大きな差である。もう少しなじみ深い偏差値を使ってたとえると、白人の偏差値の平均が50なのに黒人の平均が40になるようなものである。このIQテストの成績の差は昔に比べると縮まってきているが、それでもまだこれだけ大きな差があり、また最近は差が縮まるペースが鈍化・あるいはストップしている。

ここまではこの論争の参加者が共通して認める事実だ。論争点はこうした差が何を意味して何に由来するかということである。Herrnstein and Murray(1994)はこのトピックにおいて大きな話題になった本だが、DaleyとOnwuegbuzieがまとめるところでの、Herrnstein and Murray(H&M)の主張は次の三点である*3

  1. IQテストで測られる能力は一般に知能と呼ばれる能力である。
  2. それはかなりのところ遺伝的である。
  3. したがって、黒人白人の成績の差の多くは両者の遺伝的な違いによるものである。

人種と知能の関係についての論争の多くは、これらの主張が正しいか、もっともな証拠があるかということに費やされている。

IQテストの成績=知能の程度?

この論文の著者はH&Mの議論に否定的である。(1)については、著者は「人種」や「知能」という概念が(社会的)構築物であることを主張する。人種については、それが人工的構築物であって実在するわけではないという一般的な議論を引用する。

「知能」に関しては、IQテストで測られる能力が本当に「知能」と言えるものを測っているのかということが問題になる。肯定的な証拠としては、IQテストの成績が学校の成績や(より少ない程度であるが)職業的成功と相関していることが挙げられる。つまりIQテストの成績は単なる数字ではなく、実際にその人の人生にとって関係のある何かの能力を表しているのだというのである。

著者はこれに対してこうした議論は「循環論法」に陥っている可能性があると批判する(296)。というのは、上で述べたような学校の成績やそれによってもたらされる職業的成功(およびそれと密接な関係にある社会経済的階級)は、子弟の教育を通じてIQスコアに影響を与える可能性があるからだ。もしこの可能性を受け入れるならば「IQテストの成績→学校の成績→職業的成功→社会経済的階級→IQテストの成績」という循環的流れができるというのである。

(ただし、わたしにとってはこの議論はあまり説得的ではない。上の議論は、IQテストと学校の成績あるいは職業的成功のあいだに因果的フィードバックループがあるので定義上別のものを測定しているのではないと主張したいのだろう。例えば定期試験や入学試験にレイブンマトリックス(IQテストでよく使われる問題形式の一つ)を使っているならば、試験の成績がIQテストの成績と相関するのは明らかであり、そうした相関は大きな意味を持たない。しかし実際はそうではない。特に職業的成功については、IQテストが測定する能力とは表面的には異なる能力に部分的にであれ基づいているように思われる(会社員は営業先でレイブンマトリックスの問題を解くわけではない)。そうすると、両者の相関は単なる定義を超えるものであることになる。)

一方否定的なサポートとしては、著者はIQテスト以外の認知能力を測るテストがない場合、本当にIQが知能を測定できているのかわからないことを指摘する。またIQテストは文化的な影響を受けているので、欧米の中産階級の白人文化以外の出身の人々には不利になっている可能性もある。例えば上のレイブンマトリックスは文化中立的であるとされることがあるが、行同士・列同士に成り立つ順序関係やマトリックスにどういう心的操作をすればよいかについての知識が問題を解くのに関わっていることが指摘されている。

知能の遺伝性

(2)に関して言うと、H&Mは、社会経済階級がIQテストの成績に影響があることに否定的であること、IQテストで測られる能力はかなりの程度遺伝的であることを主張する。
それに対して著者はいくつかの証拠を挙げて教育はIQテストの成績の向上に効果があると反論する。

例えばH&Mが自説の根拠としてあげるのに幼児教育の効果がある。ここで挙げられているのはおそらくペリープリスクールプログラムのような幼児に特別な教育を施すプログラムのことであろうが、少なくともIQテストの成績の点から見ると、その効果は長続きしないことがわかっている(プログラムが終わるとその効果も見られなくなる;Nisbett 2009)。しかし著者は別の研究を引用して、言語・推論能力向上へのサポートはプログラム終了2年後でも見られることがわかっているとする。

また貧困家庭のIQの遺伝率は、より裕福な家庭の遺伝率よりもずっと低く、一卵性双生児でも一緒に暮らした者の間のIQの相関係数はそうでないものよりも高くなっている。さらにマイノリティに関していうと学習によってIQスコアへの大きな正の影響を与えるできることがわかっている。そうしたことから著者は、知能はH&Mが示唆するほどには遺伝的ではないと結論する。

*1:Daley CE, Onwuegbuzie AJ: Race and intelligence. In: The Cambridge Handbook of Intelligence. Cambridge University Press, 2011, pp. 293-306.

*2:ちなみにSternberg先生は中学生の時に科学の教科のプロジェクトでIQテストを自作し、好きなクラスメイトにお近づきになるためにその子に受けさせたという経歴をもっている。ソース

*3:なおわたしはHerrnstein and Murrayの本を読んでいません。

Krashenの議論

第二言語習得論の勉強を続けている関係で、Stephen Krashenの"Principles and Practice in Second Language Acquisition"(pdf)を読んでいるが、第二章で自分の仮説をサポートする仕方が雑すぎる。

Krashenはこの章で第二言語学習に関するいくつかの有名な仮説を提出している。一つは言語学習を意識的な学習(これをクラッシェンは「学習 learning」と呼ぶ)と無意識的な学習(習得 acquisition)とにわけ、言語能力の向上はほぼ後者のプロセスを通じてのみ生じると主張する。

(これはわたしにはにわかには信じられない。これは車の運転にたとえれば、ずっと運転練習をしていれば自然に運転できるようになると言っているようなものだ。)

これをサポートする仮説が、モニター仮説とインプット仮説になる。

モニター仮説では、Learningの唯一の機能は自分の第二言語によるアウトプットをモニターすることにあると主張される。たとえば外国語で文章を書いているときに、三単現のsが抜けていることを気づくことがあるが、このような時にlearningで獲得した知識が役に立つ。

インプット仮説

では言語習得における進歩はいかにして成し遂げられるのか。これを説明するのがインプット仮説で、おおざっぱに言うと自分のレベルよりも少し高いレベルのマテリアルをインプットすることによってのみ、進歩は成し遂げられると主張する。

しかしこれにはいろいろと問題があるように思われる。まずプレゼンテーションの仕方が明瞭ではない。21ページで著者は

「iの段階からi+1の段階に進むための必要条件(しかし十分条件ではない)は、言語習得者がi+1を含むインプットを理解することである。ここで「理解」というのは習得者がメッセージの形式ではなく意味に集中することである」(A)

と述べる。その後でインプット仮説を構成する部分を述べるといって次の4つの言明を与える。

  1. インプット仮説は学習ではなく習得に関わる。
  2. 現在の能力のレベルを少し超える構造を含んだ言語(i+1)を理解することによって、習得は行われる。これは文脈や言語外の情報の助けによって行われる。
  3. コミュニケーションが成功したとき、十分なインプットがありそれが理解されたとき、i+1は自動的に供給されている。
  4. アウトプットの能力は自然に生じる。それを直接教えることはできない。

しかしこれは4つ合わせても(A)の一つのポイント、つまりi+1のインプットが言語習得の必要条件であることに言及していないし、また(3)は言明(A)に含まれていない。また多くのポイントについて経験的な支持が豊富に与えられている訳ではない。

証拠

Krashenはインプット仮説(A)を支持する証拠をいくつか持ち出しているが、それにも問題がある。

  • ひとつはCaretaker speechと呼ばれるものだ。乳幼児がいる家庭では親などが子供に話すときに、文法などが簡略された言語を使うことがある。これがCaretaker speechである。クラッシェンの議論は、「Caretaker speechが乳幼児にとってi+1レベルのインプットを与える→子供の言語能力向上」というものである。

しかしこれは弱い証拠である。たとえば本当にcaretaker speechがi+1レベルのインプットになっているのかKrashenはサポートを提出していないし(仮に上の3.が正しくても、Caretaker speechで十全なコミュニケーションが成り立っているかわからない)、コントロール群との比較もない。

  • もう一つの証拠は沈黙期の存在である。子供が第二言語を発達させるときには沈黙期が生じることがある。これは第二言語にさらされた後、十分なインプットがあるにもかかわらず子供がその言語で(創造的な)発言をするまでに数ヶ月の時間がたつという現象である。

これをクラッシェンはインプット仮説を支持するものと見なす。というのは「その子供はリスニングを通じて、自分の周りの言語を理解することによって、第二言語の能力を養っている」からである。

しかしこれは(A)の証拠にはならない。というのはこれはインプットが言語能力の発達に十分だった例であっても、必要だという例ではないからである。

後に出てくる証拠には、言語教育を受けた長さと言語能力が相関していることを示した研究を引用している。しかし例が日本の英語教育であったり(日本の英語教育はあまりacquisitionにつながる活動をしていないというのが相場ではないか)、言語教育と言ってもいろいろあるわけでそれを全部Krashen流のacquisitionと考えるのには無理がある。

またこうした証拠はいずれもきわめて間接的で、直接教室を題材にした研究ではない。(A)のようなきわめて大胆な言明を述べるための証拠としては貧弱なように感じられる。1982年の本なので限界があるのは理解するが、もう少し慎重にやってほしい。

どういうときに創造的なアイデアが浮かぶか

ということをコンピュータ科学を例にしてThagardと共著者がここで書いている。

この論文ではCrossroadsというACM (Association for Computing Machinery、コンピュータ科学分野の国際学会)が発行している学生のためのオンライン雑誌に掲載されたコンピュータ科学者のインタビューを元に考察している。

著者によると、さまざまなインタビューから創造的な仕事が生まれるときには二つのモードがあるという。それは集中モード(intense mode)とリラックスモード(casual mode)である。

集中モードは、解決したい問題に注意を向けて集中的に取り組んでいるモードである。こうしたときには紙と鉛筆を用いて考えをまとめることが大事である。なおおもしろいことに、多くのコンピュータ科学者は、こうしたときにコンピュータのスクリーンで作業をするのではうまくいかないといっている。紙と鉛筆の方がうまくいくというのだ。またこうしたモードにあるときは、ソーシャルな関係が創造力を増幅させるのに重要である。つまりアイデアを他人に話すことが役に立つ。

これに対してリラックスモードでは、多くの人が、仕事から離れている時にインスピレーションが湧くと答えている。例えばジョギング、ハイキング、ワークアウトなどであり、また車の運転やシャワーもこうしたことが起こりやすいときである。

こうしたリラックスモードでインスピレーションが生じるときの状況には共通の特徴がある。著者の言葉を借りると、

  • 問題領域への没入
  • 問題に集中しなくてはというプレッシャーがとりあえずはないこと
  • 注意をそらすものがない、精神的にリラックスしていること
  • ぼんやりとした時間
  • 孤独

といったことが共通の特徴である。

しかしリラックスモードにおいてインスピレーションが舞い降りるには事前に集中的に仕事に取りかかっておくことが必要条件になる。問題に取り組んでいないのにただリラックスしているだけでは、よいインスピレーションが生じることはないのである。著者はパスツールのことばを引いて「偶然は準備の整った人に微笑む」(chance favors the prepared mind)と述べている。

創造性を伸ばすためによいこととしてインタビュイーが挙げている(と著者が述べている)のは、他の創造的な作品に触れることである。これは自分の専門(彼らにとってはコンピュータ科学及びその周辺領域)には限られない。たとえば他の科学分野における創造的な仕事、あるいは映画や美術展なども挙げられている。そうしたものに積極的に触れることで創造性のアンテナが反応することがあるというのである。

How Languages Are Learned:第二言語習得理論について

前のエントリ、つまり

How Languages Are Learned (Oxford Handbooks for Language Teachers)

How Languages Are Learned (Oxford Handbooks for Language Teachers)

の紹介の続き。

さて前回のエントリでは外国語早期教育について紹介したが、今回は第6章の第二言語習得(SLA)・教授理論についての議論を紹介する。

ここでは主な第二言語習得理論を6つあげて、関連する研究を挙げた上で著者の評価を下している。取り上げる理論は以下のものが含まれる。

  • 文法翻訳(grammar translation)
  • オーディオリンガル方式
  • インプット仮説
  • 発達順序理論
  • イマージョン理論
  • フォーカスオンフォーム

著者はこうした方法について関係するリサーチを紹介しながら検討していく。

文法翻訳・オーディオリンガル


この二つは伝統的に学校で行われてきた方法に近い。文法翻訳はいわゆる文法訳読に近く、オーディオリンガル方式は――名が体を表していないので理解するのがちょっと難しいが――文法ドリルとか文変形のパターンプラクティスとかを中心とした教え方だと思う。著者はこれらの方式には非常に冷淡である。たとえばいくつかの研究によると、ドリルである文法規則を習っても全然長続きしない(次のセクションに移行して別の規則を習う頃には忘れてしまう)。文法翻訳については、古典語学習の方式を持ち込むものでうまくいかない、この方式で習得した人がいるとしても、だいたいどんな方式でも習得する人は一定数いるから積極的な証拠にはならないとにべもない。

発達順序(developmental sequence)理論


発達順序理論は、「文法事項をマスターする順番には規則性がある」という第二言語習得論の主な成果の一つに基づく。たとえば三単現のsは規則自体は単純だが、比較的習熟度が上がるまでマスターできないことが多くの研究で確かめられている。つまり文法項目をどの順番で教えようが、実際に生徒がマスターする順番には規則性があり、これは第一言語学習についても第二言語習得についても同じである。この指導法は、そうした順序に従って文法事項を教えていこうというものである。

著者はこの説の可能性を認めつつも、現在ではそうした順序についてわかっていることは多くはなく、それに沿ってカリキュラムを組むことは時期尚早であるとコメントする。

インプット仮説


インプット仮説は、クラッシェンによって唱えられた日本ではたぶん一番知られたSLA理論の仮説だ。彼の理論はいくつかの仮説に分けられるのだが、その全体的な理論をおおざっぱに言うと、語学習得の肝は「理解可能なインプット」(文法・語彙からして正確に理解できなくとも、文脈などの言語外的情報を用いて理解できるレベルの文)を大量に与えることで生じる無意識的学習であって、文法を意識的に学習することはきわめて限られた役割しか果たさないという説だ。

この説はいわゆる「多読」運動(教室内外で多量の(一つの目安は10万語〜100万語)の英語の簡単な本を読ませるという指導方法)の背後にある考え方で、クラッシェンは英語の多読を薦める本ではたいてい言及されるa house hold nameだ。ところが著者はクラッシェンの方法にも意外と冷淡で、彼の方法は「せいぜいのところ、学習をはじめるための非常によい方法であり、またもっと進んだ学習者にとっては補助的な学習方法と見られるかもしれない」(165頁)と述べる。

これはクラッシェンの方法には利点もあるものの、限界を示す研究結果も存在するからだ。
大量のインプットが習得を促すと解釈される例は確かにある。たとえば

  • カナダ・モントリオールのコミュニティセンターで大人の移民に大量の読書を行なわせたプログラム。これを行った大人たちはたったの6週間で読書に起因する語彙の成長が見られた。

しかしそうした習得には限界があることを示唆する研究もある。

  • 大量のインプットでは母語の干渉などで頻繁に出る文法項目の間違いを訂正できるわけではない(新しい文法規則を習得することはできる)。これは特定の文法項目が出てくるインプットを集中的に与えても同じ。
  • ただし工夫された読書と明示的な指導を組み合わせると、文法項目の習得に有効。たとえば「プロセシング・インストラクション」と呼ばれる方法では、ある文法項目にフォーカスした読み物が与えられると同時にその項目についての明示的な説明が与えられる。「ある文法項目にフォーカスした読み物」というのは、単に文に文法項目が含まれているだけではなくて、その項目をきちんと理解しないと文意を理解できないような文章である。そうした方法で学んだ子供は会話といったアウトプットだけでなくてインプットを理解する能力においても進歩が見られた。

つまり、文法項目の習得には、クラッシェンのいうようなインプットのみを通じた黙示的学習だけでなく、学校でやるような明示的な学習も有効(というか必要)であるらしいのである。

イマージョン理論


イマージョン理論では、平たくいうと児童や生徒を「英語漬け」にて「英語で」教科を勉強させていくやり方である。こうしたイマージョン教育が盛んな国の一つがカナダで、英語とフランス語の両方を使って初等教育を行っているという。たとえばブリティッシュコロンビア州では日常生活では英語しか使わないが、初等教育ではフランス語のイマージョン教育を行い、わたしの経験でも結構な人が流暢なフランス語の使い手でもある。ということでイマージョン教育の効果はかなりあると思われている。

しかし著者たちは、このイマージョン教育の評価には盲点があると述べる。というのはそうした子供たちが流暢に会話に興じているのを見ると多くの人は彼らの運用能力は非常に高いと考えるが、しかしそれはあくまでインフォーマルな文脈における流暢さであって、複雑な教材を勉強するときのようなフォーマルな文脈における能力はまた別だからである。そして著者はイマージョン教育を受けた子供たちはそうしたフォーマルな文脈の能力では置いてけぼりになっている可能性を指摘する。たとえばこうした教育を観察した研究者は、教師の質問に答える生徒たちは非常に短い答えしか与えず、また正確な文を使うように求められることもまれであることを見て取った。

また香港における英語のイマージョン教育では、生徒は英語を最小限の仕方でしか用いていなかったために、難易度を大幅に下げた指導方法を持ちいらざるを得ず、英語能力は中国語に比べて低いままだった。さらに前のエントリで紹介したように、特にマイノリティへのイマージョン教育は母語への影響や指導について行けない生徒を作り出す危険性がある。

したがって、イマージョン教育は場合によっては有効であるが、限界もあると著者たちは指摘する。

フォーカス・オン・フォーム


ここまでそれぞれの方法に批判的なコメントを残してきた後で、著者たちはさいごにフォーカス・オン・フォームという方法を取りあげる。これは、今まで見てきた文法中心的教え方と意味中心的教え方のいいとこ取りを目指した方法だ。つまり、

  • 基本的にはイマージョン理論にのっとって意味中心の教え方をする。つまり文法項目を一つ一つ教えていくのではなく、自然な文脈の中でターゲット言語の使用を埋め込んで、多くの時間その言語に触れさせることを目標とする。
  • しかしそれだけでは終わらない。フォーカス・オン・フォームは、意味中心の学習の中に文法(フォーム)に着目させる時間を埋め込むことで、ターゲットとなる文法的特徴に「気づき」を与えることを目標とする。
  • 以前の文法翻訳・オーディオリンガルと違うところは、(i)以前の方法では学習の最初から文法の勉強をするが、フォーカス・オン・フォームではまず意味中心の学習からはじめる(ii)また文法翻訳・オーディオリンガルでは文法用語を多く用いて教授していくが、フォーカス・オン・フォームではそうした用語をいつも使うわけではない。
  • 逆にクラッシェンとは異なるところは、文法的な誤りを訂正して練習することの重要性を無視しないということだ。(よく言われるようにクラッシェンは、文法的誤りなどを訂正して練習することは言語習得には直接的には何の役割も果たさないという立場を取る)。

この立場をサポートする経験的研究の一つでは、ESLの生徒が科学を題材にして英語を学習した例がある。ここでは過去形と条件法が問題になった。このクラスでは生徒は科学のレポート(詳細は書いていないが、科学雑誌の記事のようなものだろうか)に関係する活動(読み書きだけでなく話す聞くという活動)を行った。教師は生徒が活動する中で、上の二つの項目について、誤りを犯したときにフィードバックを明示的・黙示的におこなった。こうしたフィードバックを受けたグループは、対照群よりもこのプログラムの直後および2ヶ月後のテストにおいて優位な成績を残した。

ということで著者は、「文法中心vs.意味中心」という対立軸では、どちらも必要という立場に立つ。これは口で言うのは簡単だが、実際にimplementとしようとすると、どのようにやるかがいつも問題になる。教師への「課題は、意味中心的な活動と形式中心的な活動のバランスを取ることである」(196)。

How Languages Are Learned:早期教育について

How Languages Are Learned (Oxford Handbooks for Language Teachers)

How Languages Are Learned (Oxford Handbooks for Language Teachers)

を読んだ。これは欧米の第二言語習得研究(Second Language Acquisition, SLA)で定番の教科書だ*1。同じ分野では前に白井恭弘氏の本を紹介したが、この本は白井氏とは同じ方向を向いているといえるものの、強調点が異なるので、読んでいて参考になった。またSLAの重要な研究をたくさん紹介しているのも良い。ということでこの本から二点議論を紹介する。

ひとつは外国語の早期教育についてだ(3章、6章)。

著者たちは、外国語をはじめた時期がその後の熟達に影響を与える例があることを認める。たとえば米国の移民を調べた研究では、ネイティブスピーカーに近い熟達度を(発音だけでなく会話の自然さにおいて)獲得した移民はほぼ例外なく15歳以前に移民してきた人であるという結果を挙げる。あるいはある英語の文が文法に合っているかを調べるテストでも、何歳の時に米国に移住したかがテストの成績に大きな影響を与えていることがわかっている。その意味で確かに学習開始年齢はその人の運用能力の熟達度に関係があり、特に移住などで「自然な」シチュエーションで言語を学習する場合には影響力が大きい(95)。

しかし、この知見を外国語教育の枠の中で単純に適用するには問題がある、と著者たちは注意する。まず学習の初期に限ってみると、早期に学習をはじめるよりも後ではじめる方がより早く学習が進む。これは年齢が上がるにつれてさまざまな認知的能力が向上するため、それが後発者に有利に働くからである。また、もっと重要なことには、スペインで行われた英語の早期教育プロジェクトの結果を見ると、実際のところ11-18歳以上から習い始めた学習者の方が8歳からはじめたよりもほとんどすべての尺度で成績が良かったということがわかっている(98)。

どうしてこういうことになるのだろうか。著者が指摘するのは、このプログラムでは子供たちが英語教育を受ける時間が限られていたことである。これが上で述べた米国への移民との大きな違いだ。つまり、英語に触れる時間が少ないまま学習時期を早くしても効果はないというわけだ。さらに英語に触れる時間が少なく、進歩があまり見られないと、学習者にはストレスがたまる。「中高大と英語を10年勉強してきたが・・・」というのはよくある嘆きだが、それが「小中高大と英語を12年勉強してきたが・・・」に変わるだけ(というか、もっと悲しくなる)のである。

だから「いつはじめるか」ということだけでなく「どれだけ英語に触れるか」ということも重要であり、著者は〈もし「ある言語をネイティブ同様に運用できる」ことを目的にするのなら、早い内からその言語に集中的に触れさせることが望ましい〉と述べる(97)。しかしこうした「イマージョン教育」には副作用がある。それはよく言われるように第二言語の早期集中教育は第一言語の発達に悪影響を及ぼすことがあるからである。この問題は特にマイノリティの人々には重要である。言語的マイノリティの人々の中には家で使う言語と学校で使う言語が異なる場合がある。そうした場合、子供は学校で勉強について行くことができなくなってしまう可能性が高い。たとえばカナダのイヌイットエスキモー)の子供たちは、家ではイヌイットの言語を使い学校ではカナダの公用語(英語か仏語)を使うが、学校の勉強には非常に苦労している(176)。ある研究者によれば、「外国語で○○を教える」場合、年齢相応の認知的に高度な事柄を母国語同様に学習できるようになるには5-7年かかると言われる。こうしたラグはマイノリティの人々には重くのしかかる。小中の時に教科を十分に学習できないので、成績においてハンデがかかるわけである。