まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

アブストラクト・イントロダクションの書き方

最近アブストラクトやイントロダクション*1を書くときに使っている公式があるのでメモ。これはカナダや日本で学生のエッセイをいろいろ見た経験から抽出したものなのである程度汎用性があると思う。

その公式とは、イントロは以下の(最高)五つの項目について書けばよいというものだ。その項目とは

  1. 論文のトピックは何か。
  2. 背景、トピックの解説
  3. 論文はなにをするのか(および/あるいは)論文の一番の主張
  4. それを支える根拠
  5. その主張の帰結、意義

である。この五つの要素の意味は次のようなものだ。イントロを書くときにもっとも大事な目的は何か。それはこの論文の第一の主張を呈示して、読者にそれが「正しそう」あるいは「おもしろそう」と思ってもらうことである。

しかしだからといって論文の主張だけを呈示しても読者には唐突に映ることが多い。それは、イントロを読む前に読者はこの論文についてはほとんど何も知らないからである。そのような時に著者は何を第一に伝えたらよいだろうか。それはこの論文のトピック、つまり「この論文が何についてのものか」である。これを説明するのが(1)(2)だ。これによって読者は少なくともこの論文が何について論じるか大体の方向をつかめる。

その次にいよいよ論文の一番の主張を読者に呈示する。これはできるだけ簡潔・明快に書くと迫力がでる。しかし一番の主張を書くだけでは、読者には論文を手にとってもらえないかもしれない。論文を読むような読者なら、多少なりとも文章をクリティカルに読むものだ。そうした読者が次に気になるのは、「あなたの言いたいことはわかった。だけどそれが正しいというサポートはどこにあるの?」ということや「あなたの言いたいことが正しいとして、それでどうなるの? これはどうでもよいことじゃないの?」ということだ。

それを与えるのが(4)(5)である。これを書くことで「この論文の一番の主張にはちゃんと根拠がある」「この主張はどうでもよいような主張ではないよ」ということを伝えて、読者にこの論文を読む理由を与えるのである。

すぐれたイントロには大体この五つの要素が入っている。たとえば前にも取り上げた「理性の議論説」の論文アブストラクトはこうなっている(拙訳)。

推論(reasoning)についての一般的な見方によれば、それは、信念を改善しよりよい意思決定をするための手段とされる。しかし、多くの証拠によれば、推論はしばしば認識のゆがみや誤った意思決定に至ることが示されている。このことは、推論の機能について再考するようわれわれに促す。我々の仮説は、推論の機能は議論に関わるというものだ。つまり、説得を意図した議論を作り出し評価することだ。そのように考えられた場合、人間が飛び抜けてコミュニケーションに依存しかつ誤情報に対して弱いことを考えると、推論することは適応的である。この仮説に照らすと、推論と意思決定に関する幅広い心理学的な証拠を再解釈し、それによりよい説明を与えることができる。

これを分解すると、次のようになる。

(1)(2)推論(reasoning)についての一般的な見方によれば、それは、信念を改善しよりよい意思決定をするための手段とされる。しかし、多くの証拠によれば、推論はしばしば認識のゆがみや誤った意思決定に至ることが示されている。このことは、推論の機能について再考するようわれわれに促す。

第一文で著者は論文のトピック(推論)を示し、その後半ではトピックの内容を説明する。そして第二文では、そのトピックがどのようにこの論文に関係するのか、関連するトピックの背景を説明する。こうして「この論文が何についてのものか」を明らかにして、書き手と読み手の間に共通の土俵を作っている。その上で、著者は次のようにこの論文の中心的な主張を書いている。著者はこれを非常に明快に書いていることにも注意して欲しい。これによって著者の意図が読者にまっすぐに伝わるのである。

(3)我々の仮説は、推論の機能は議論に関わるというものだ。つまり、説得を意図した議論を作り出し評価することだ。

このようにして論文の中心的な主張を知った後、著者は(4)その主張の根拠および(5)その主張の意義や帰結を書いている。

(5)そのように考えられた場合、人間が飛び抜けてコミュニケーションに依存しかつ誤情報に対して弱いことを考えると、推論することは適応的である。(4)この仮説に照らすと、推論と意思決定に関する幅広い心理学的な証拠を再解釈し、それによりよい説明を与えることができる。

このようにこのアブストラクトは論文の方向性を短時間で多くの人々に理解してもらうことに成功している。

(追記)最近ツイッター経由でネイチャーの公式サイトが投稿案内(和訳)で論文要旨の書き方を説明している(11ページ)ことを知ったが、見てみると、おおわたしの考えとだいたい同じじゃないか。

*1:以下、イントロに統一。

米保守派の研究費たたき

最近あった保守派からの科研費批判だが、米国でも保守派の政治家が科学者の研究費を批判することはよく見られる。

たとえばジョン・マケイン共和党予備選挙の運動でYouTubeに出た時にはモンタナのクマのDNAの研究を批判している(1分50秒ぐらいから)。


youtu.be


また(時代は大幅に遡るが)レーガンが(1976年の)大統領選挙に出る前に著名なレイトショーに出たときも、幸福についての研究を腐している(5分55秒ぐらいから)。

youtu.be


ただこれは基本的に「こんなしようもない研究に税金を費やしている」という類いの批判で、愛国心に訴えた批判ではない。

もちろん、共和党は科学と相性が悪いので*1他にもいろいろ科学に圧力をかけるのだが、大統領選挙に出るような著名な政治家もこうした批判をしているを知るのは参考になる。

*1:それについては

The Republican War on Science

The Republican War on Science

という本があることを先日の学会で教えてもらった。

外的世界の証明(抄)

授業で使うためにムーアの有名な論文「外的世界の証明」(pdfファイル)のキモとなるところの翻訳を作ったのでご笑覧ください。

例えば、わたしは今、二本の人間の手があることを証明できる。どうやってか。それは二つの手を上げて、右手でジェスチャーをしながら「ここに一本、手がある」と言い、そして左手でジェスチャーをしながら「ここにもう一つある」と付け足すことによってである。そしてもし、こうすること、まさにこのことによって外界の事物の存在を証明したのならば、わたしが同じことを数々の別の仕方によって行うことができることをみなさんは理解するだろう。ゆえに例をこれ以上増やす必要はない。
しかしわたしはたったいま人間の手がそのとき存在したことを証明したのだろうか。わたしはそうだと言いたい。そしてわたしが与えた証明は完全に厳密なものだと。そして何についてもこれよりも優れたそしてより厳密な証明を与えることはおそらく不可能だということも言いたい。もちろん、[以下の]三つの条件が満たされなければ、それは証明ではない。すなわち、(1)結論を証明するために持ち出した前提が、証明しようとする結論と異なること、(2)わたしが持ち出した前提が、わたしが事実だと知っていたことであり、単にわたしが信じていたが決して確実ではない事柄だったとか、また実際真だったがそれをわたしが知らなかったような事柄ではないこと、(3)結論が本当に前提から導き出せること、である。しかしわたしの証明はこうした三つの条件をすべて満たしている。(1) 証明の中でわたしが持ち出した前提は結論とは異なることは全く確実である。というのは、結論は単に「二本の人間の手がこのとき存在する」と言うことであるが、前提はこれはよりももっと細かなこと、つまりわたしが皆さんにわたしの手を見せてジェスチャーをして「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」と言うことで表したかったことだからである。この二つのことが異なるのは全く明らかなことである。というのは、前提が偽であったとしても結論が真であった可能性があることは全く明らかであるからである。前提が真であることを主張しているとき、わたしは結論が真だと主張しているときよりももっと多くのことを主張しているのである。(2) わたしはあるジェスチャーをしながら「一本の手がありここにもう一つの手がある」と言うことで表したことをそのとき確かに知っていた。わたしは、最初に「ここに」と言いつつジェスチャーをすることで示した場所に一本の手があること、そして二回目に「ここに」と言いつつジェスチャーをすることで示した、前とは異なる場所にもう一本の手があることを知っていた。わたしがそのことを知らなくて単に信じていただけだとか、上で言ったことが事実でないというなんて、どれほどばかげているだろうか! あなたは、わたしが今立って話していることを知らない(結局のところもしかしたらわたしは立っていないかも知れないのである)とか、わたしが立っていて話していることは全く確実ではないと言うのであろうか! そして(3) 結論が前提から導き出されることは全く確実である。それが確実であるのは、いまここに一本手がありここにもう一本あるなら、いま二つの手が存在していることと同じくらい確実である。

[…]

しかしわたしは以下のことに完全に気づいている。すなわち、わたしが述べたことすべてに反して、多くの哲学者が問題となる事柄についてわたしが満足のいく証明を与えていないとなおも感じているだろうということである。最後に短く、わたしの証明についてのこの不満がどうして感じられるのかという理由について述べたい。

一つの理由はこれだ。「外的世界の証明」ということで、人によってはわたしが証明しようとしなかったこと、また証明しなかったことの証明を含むものだと解するのである。そうした人が何を証明して欲しいと思っているのか――それについての証明が得られなければ外界の事物の存在の証明を持っているといわないようなものは何なのか――を言うのは簡単ではない。しかし、以下のように言うことで、彼らが求めているものが何かを説明することに近づくことができる。つまり、わたしが二つの証明で前提として用いた命題をすでに証明していたならば、もしかしたら彼らはわたしが外界の事物の存在を証明したことを認めてくれていたかもしれない。しかしそうした証明(もちろんそれをわたしは与えなかったし、与えようともしなかった)がなければ、外界の事物の存在の証明で彼らが意味することをわたしは与えなかったと言うだろう。言い換えると、わたしが自分の手を上げて「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」というまさにそのときにわたしが主張している事柄の証明を求めているのである。もちろん、彼らが本当に求めているのは単にこれら二つの命題の証明だけではなくて、この種の命題すべてがどのようにして証明されるかについての一般的な言明のようなものである。こうしたものは、もちろんわたしは与えなかった。そしてこうしたものが与えられるとはわたしは思わない。もし外界の事物の存在の証明が意味することがこのことならば、外界の事物の存在についていかなる証明も不可能であると思う。もちろん、こうした命題に外見上似た命題の証明と呼べるようなものが得られる場合もあるだろう。もしあなた方の一人がわたしの手の一つが義肢ではないかと疑うなら、こちらに来て、疑わしい手を近くで調べて――ことによっては手に触ったり押したりして――それが本当に人間の手であることを確かめることで、「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」という命題の証明を手に入れると言われるかもしれない。しかしわたしはほとんどすべての事例においていかなる証明も可能だとは思わない。ではどうやって「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」ということを証明するのか。そうしたことが可能とはわたしは思わない。そうするためには、例えばデカルトが指摘したように、わたしがいま夢見ていないことを証明する必要がある。しかしわたしが今夢を見ていないということをどうやったら証明できるのか。疑いなくわたしは「わたしは今夢を見ていない」と主張するための決定的な理由を持っている。わたしは「わたしが目覚めている」ことの決定的な証拠を持っている。しかしそのことはそれについて証明できるということからは非常に異なった事柄なのである。わたしが持っている証拠のすべてがどんなものかわたしはあなたに伝えることはできない。そしてあなたに証明を与えるためには、少なくともそうしたことができなくてはならないのである。

しかし、わたしが思うに、わたしの証明に不満足な人々がいるもう一つの理由は、単に彼らがわたしが与えなかったようなものの証明を求めていることだけにあるのではない。そうではなくて、もしわたしがそうした追加の証明を与えられないなら、わたしが与えた証明は決定的なものでは全くないのだと彼らが考えているからである。わたしの考えによればこれは明らかに間違っている。彼らは次のように言うだろう――「もしあなたがあなたの前提である『ここに一本の手があり、ここにもう一つある』ということを証明できないのなら、あなたはそのことを知らないのである。しかしあなた自身が、もしそれを知らなかったのなら、自分の証明は決定的なものではなかったことを認めてきた。従ってあなたの証明は、あなたの言うところに反して、決定的な証明ではなかったのです」。わたしの見解では、この見方、つまりこうした事柄をわたしが証明できないのなら、わたしはそうしたことを知らないという見方は、この講義の冒頭にわたしが引用した文章でカントが表明していた見方である。このときカントは、我々が外界の事物の存在についての証明を持たない限り、そうした事物の存在は、単に信念(faith)によって受け入れられなくてはならないことを示唆している。わたしの考えでは、彼が言いたいことは、もしわたしがここに手があることを証明することができなかったら、わたしはそれを単に信念の問題として受け入れなくてはならない――つまりわたしはそれを知っているわけではない、ということである。こうした見方は哲学者の間では非常に一般的なものである。しかしわたしはこの見方が誤りであることを示せると思う――ただしそれは、(もし外界の事物の存在を我々が知らないならば)真だとは知られていないような前提を用いることによってであるが。わたしは証明できない事柄を知ることができる。そしてわたしが――たとえ証明することができなくとも(そしてわたしは証明できないと思っているのだが)――確かに知っている事柄の中には、わたしの二つの証明の前提が含まれているのである。したがってわたしは、わたしがこうした証明の前提を知らないと言うただそれだけの理由でこうした証明に不満足な人は(もしそうした人がいるならば)、その不満にはまともな理由がないと言わなくてはならない。

本が出ます

気がつけば二年近く更新がなかったこのブログですが、何もやっていなかったわけではありません。たとえば以下のようなことがありました。

しかし今になって更新するのは、単著が出版されるからです。

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

ここ数年やってきた理性の進化に関係する内容です。このブログのエントリも何本か転用しています。進化論の初歩から始まって、理性の進化のモデル、二重過程説および熟慮的システムの進化、そして科学的思考力の進化まで扱っています。この題材ではあまり話題にならなかった文献なども扱っていて、少しはおもしろい話になっていれば幸いです。

なお発売日が2月14日の予定なので、愛する人への贈り物としてお買い求めいただくのも一興かと思います。*1

*1:これは著者の個人的な意見であり、行動を推奨するものではありません。結果として生じた損害については責任を負いかねます。

家事分担の進化ゲーム

家事分担は結婚している夫婦の間で頻繁に問題になる事柄の一つだ。家事の負担は多くの場合妻に偏っており、妻はそれに不満を感じていることが多い。これは女性がフルタイムの仕事を持つことが例外ではなくなった現在でもそうだ。どうしたこういうことが生じるのだろうか。大浦宏邦氏の著書

社会科学者のための進化ゲーム理論―基礎から応用まで

社会科学者のための進化ゲーム理論―基礎から応用まで

は以下の進化ゲームを使ってどうして一方に家事負担が偏りがちなのか説明している。

家事分担ゲームの概要

このゲームの前提として、家事をすることの利益をb、家事をすることのコストをcとする。そして夫婦両方が家事をしたときのコストはそれぞれc/2となることとする。するとこの場合の利得表は以下のようになる。

夫\妻 家事する 家事しない
家事をする b-c/2, b-c/2 b-c, b
家事しない b, b-c 0, 0

表のセルに二つ数字があるのは、最初が夫の利得、あとは妻の利得を表している。例えば夫婦双方ともに家事をするときは各プレイヤーの利得は、家事をすることの利益bからそのコストc/2を引いたb-c/2ということになる。夫が家事をして妻が家事をしない場合は、夫の利得はb-c、妻の利得はbである。

この場合で静学的な分析を行うと、どういうことがわかるだろうか。家事をすることの利益bがコストcを上回っていることを前提とすると、つぎの三つの状態がナッシュ均衡になる。すなわち、

  • 夫だけが家事をする状態
  • 妻だけが家事をする状態、あるいは
  • (夫:2/3 の確率で家事をする、妻:2/3 の確率で家事をする)という状態

である。

ナッシュ均衡というのは平たくいえば〈それが成り立っている状態から戦略を変えても、手を変えたプレイヤーが得をすることがないような状態〉である。したがってナッシュ均衡がいったん成立すると、双方にとって戦略を変える動機付けがなく状態は一般に変化しない。

この場合家事の負担がつねにどちらかに偏る状態が生じるとは言えない。たしかに前二者の状態のいずれかが成立すると、一方だけが家事をすることになり、双方に戦略を変えるインセンティブが存在しない状態になる。しかし、このような静学的な分析では「いったんXという状態になったときにそれが安定した状態かどうか」ということはわかるが、「そもそもそうした状態に至る確率がどのくらいあるか」はわからないので、そうした状態がどのくらいの確率で現れるかはわからない。またもし第三の状態が成立すると、双方ともに同じ確率で家事を負担する状態が到来することになる。

試行錯誤ゲームの導入

大浦氏はその上で、これを試行錯誤ゲームという学習を取り入れた進化ゲームの一種に基づいて動学化する。ここではまず(1)初期状態として夫と妻の戦略の組み合わせに関して様々な状態を考える。その上で(2)そこから最終的にどういう戦略の組み合わせの状態に至る確率が高いかを考えてみようというのである。これで上で欠けていた「ある状態に至る確率がどのくらいあるか」ということがわかることになる。

このある状態から次の状態への移行メカニズムとして試行錯誤的学習を取り入れたのが試行錯誤ゲームである。このゲームでは、プレイヤーはある戦略を試してみてそれがうまくいけば(他の戦略よりも有利な結果が得られれば)、その戦略を採用する可能性を高め、そうでなければその戦略の採用可能性が横ばいか低くなる。つまりここでは、経験によって夫や妻が家事をするかしないかの確率が更新されていくことを前提として、最終的にどういう状態に至るかを考えていることになる。

ではそうしたダイナミクスのもとではどういう状態が生起しやすいだろうか。じつは初期状態から十分な時間が経つと、どんな初期状態から出発しても、一方が家事の負担をすべて引き受けるという状態に到達することがわかっている。すなわちどんな夫婦も「夫がすべての家事をする状態」か「妻がすべての家事をするという状態」のいずれかに至る。

そしてどちらの状態に到達するかは初期状態によって決まる。つまり初期状態として「妻のほうが夫よりも家事をする時間が少し長い」ということであれば、その差がダイナミクスによって拡大の一途をたどり、最終的には妻のみが家事をするという状況になるわけである。

したがって試行錯誤ゲームでは、夫と妻のどちらかが一方的に家事を負担するという状況が必ず生じ、双方が公平に負担する状況にはならないことがわかる。しかしここでも状況はある意味で公平である。というのは夫と妻のどちらが家事を一方的に負担する状況になるかは初期条件に左右されるだけだからである。

夫の機会費用

しかし、夫の機会費用を考慮すると、妻は夫に比べて大幅に不利になる。ここでの機会費用とは、夫の収入が妻のそれよりも高いことを前提にすると、夫が家事にかける時間のコストが妻のそれよりも高くなってしまうということである(夫が家事にかける時間を仕事にかければ、妻からのよりも高い収入が得られる)。

ここで「夫の高機会費用+学習ダイナミクス」を組み合わせると、広い範囲の初期条件で、「妻のみが家事をする」という状況が最終的に安定的になることがわかる。例えば結婚当初は夫婦が同じ確率で家事をしていたとしても、ダイナミクスを通じて妻のみが家事をする状態に至る。

この考察から大浦氏は、夫婦が同じ時間家事をする状態は安定的でなく、維持するのが難しいことを指摘する。これを解決する手段として大浦氏は、男女が同等に家事をする世帯に補助金を与えたり、夫の機会費用を下げることが考えられると述べている。

そもそも重大な問題とは書かれていない

時事問題には反応しないことにしているが、誰も指摘する人がいないので。

be動詞など中学レベルの指導をしていた大学が文部科学省から注意を受けたという朝日新聞社のニュースサイトの記事が話題だ。これは文科省の「設置計画履行状況等調査の結果等について」を受けた記事だ。この記事は先日から話題になっている。

しかし結論から言うとこの記事は、文科省の発表のごく一部を針小棒大的に強調したきわめてミスリーディングな記事である。

これは上のリンクからたどれる実際の文書(pdf)を見るとわかる。この文書では最近学部等の設置を認可した大学について教育などの状況が適当かどうかがチェックした結果である。

記事の見出しや本文を見ると「講義は中学レベル、入試は同意で合格 “仰天”大学に文科省ダメ出し」「大学としての“適格性”が問われそうなものも少なくありませんでした」とあり、さも多くの大学が授業のレベルについて問題視されたようにみえる。

しかし実際の文書を見ると、英語の授業内容について文科省からの意見がついたのは、調査対象になった502校中千葉科学大学の一校のみである。また授業レベル全体についても、意見がついたのは他につくば国際大学東京福祉大学純真学園大学の計四校のみである。*1これを「少なくありません」とするのは、実態をかなり歪めている。

それどころか亀田医療大学についての意見では習熟度別授業を推奨している。一般に習熟度別授業をすると、成績下位者の授業では中学・高校レベルと大差なくなるので、「中学・高校レベルの授業だとダメ」と文科省が考えているとはいえない。

また文科省自身も上で述べたような授業レベルの件をそれほど重要視していないようにみえる。というのは上の文科省のページの後方には「平成26年度調査結果の概要」として改善を要する主な点について書いてあるが、授業のレベルについては言及がない。

むしろ文書に書かれたほとんどの意見は

  • 定年規程に定める退職年齢を超える専任教員数の割合が比較的高い
  • 定員充足率が70パーセントを切っている、あるいは定員超過する学生を入学させている

といった事柄である。このことは記事にも一応書いてあるが、見出しや記事の構成を考えると読者の頭にはほとんど残らないだろう。実際ツイッターの反応は上の英語などの授業レベルについての件が圧倒的に多い。

なおこの同じ文書についてNHKも報道しているが、記事のトーンは朝日新聞社のサイトのものに比べてずっと穏当になっており、わたしが報告書を読んだときの印象と大差ない。

*1:これらの指摘についても、東京福祉大学は留学生用と思われる日本語科目について、純真学園大学はリメディアル教育科目を正規の科目と見なしたことについてであり、一般に予想される「中学の内容を大学で授業」とは異なる。

才能が必要と考えられている分野ほど女性研究者の比率が低い

という論文が「サイエンス」誌に掲載された(リンク)。

STEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)といういわゆる「理系」の分野では、研究者に女性が占める割合が低いといわれてきた。また社会科学系・人文系の分野でも女性研究者の比率が少ない分野がある(経済学や哲学)。この原因をめぐってはさまざまな議論がなされてきたが、この論文はさまざまな仮説を比較して、〈「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」とその分野の研究者が考えている程度〉が、その分野のPh.D.の中に女性が占めている割合と相関しており、その分散をよく説明していることを主張する。これがなぜ重要かというと、多くの人はこれと同時に「女性は知的才能において男性よりも劣っている」というステレオタイプを抱いており、これが上の考えと結びつくと「女性は男性よりもこの分野で成功できない」という考えに至るからである。

この論文が検討している仮説は以下の四つである:

  • その分野の研究者が「自分の分野で成功するには才能が重要である」と考えている(著者はこれを「分野特定的能力信念仮説」(field-specific ability belief hypothesis)と呼ぶ)。
  • 男性のほうが女性よりも長時間働くため。この場合長時間働く学科の方が女性のキャリアにとって不利になる。
  • 男性と女性を能力の分布において比べると、男性の方が両端が長くなる。これは男性の方が「極端に優秀な人」の割合が多いことを意味するが、そうした「極端に優秀な人」が集まる学科のほうが、女性が不利になる。
  • 体系化思考とエンパシー思考の違い。学問には体系化(systemizing)思考が求められる学問*1と、エンパシー(empathizing)が求められる学問*2があり、前者の方が男性に有利で後者のほうが女性に有利であるとする仮説。

この「自分の分野で成功するには才能が重要である」というのは具体的には次のような問にイエスと答えることである。

  • 自分の分野の一流の研究者になるには、特別の才能が必要で、それを教えることはできない。
  • 自分の分野で成功するには、ハードワークだけでは足りない。生得的な才能が必要だ。

結果

著者はこれらの四つの仮説が、アメリカの大学における学科ごとの女性Ph.D.の割合の分散をどのくらい説明しているかを調べた。その結果、「自分の分野で成功するには才能が重要である」と考えている研究者の程度の分野ごとの違いが、女性Ph.D.の割合の違いと有意に相関しており、また相関係数も高いことが明らかになった(図のリンク)。こうした結果はさまざまな調整に対して頑健であり(例えば回答者の男女比を各分野ごとに1:1にするように重み付けを変えても同様の結果が出る)、この相関が安定したものであることが示唆される。

これに対して他の三つの仮説は、相関が有意でなかったり、全体としては有意であってもSTEM内、人社系内では有意でなかったりと、その相関は弱いものであることが明らかになった。

著者はその後に、「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」という信念と女性研究者の比率をつなぐものの候補を二つ考察する。ひとつは、上の信念を持っている人ほど「女性は高度な学術的仕事には男性よりも向いていない」と考える比率が高かったことである。もう一つは上の信念を持っている人ほど「わたしの分野は他の分野より女性を歓迎していない」と考える人の比率が高かったことである。こうした二つの信念が上の「分野特定的能力についての信念」と女性研究者の比率を仲介していると著者は考えている。

応用:アフリカ系アメリカ人

最後に著者は、この仮説が他の集団にも当てはまるかを考えている。一つはアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人の多くを占める)であり、もう一つはアジア系アメリカ人である。この二つの集団にはステレオタイプにおいて顕著な差異がある。アフリカ系アメリカ人には女性と同様に知的能力についての偏見があるが、アジア人にはそうしたものは見られない。したがって、アフリカ系アメリカ人には先の分野特定的能力についての信念がPh.D.比率に関係しているのではないかとの予測が成り立つ。

結果は予測の通りで、「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」という信念の度合いとアフリカ系アメリカ人の研究者の分野ごとの比率は相関していたが、アジア系アメリカ人についてはそうした相関は見られなかった。

ということで著者は、STEMなどの女性研究者の比率を上げるには、この「ある分野で研究者として成功するには才能が重要である」という信念を変えることが重要ではないかと示唆をして論文を終える。

余談

この論文はかなり話題になったので色々批判的なコメントが出ると思うが、それはまた時間があればまとめるということで、二つ余談。

  1. 論文の筆頭著者のSarah-Jane Leslieは哲学者であるが、この論文は心理学者など他の分野の研究者が書いたと言われてもまったく違和感がない。というか最近は「高度に発達した哲学者は科学者と見分けがつかない」状態になっているのである。
  2. 上で参照した論文のグラフを見ると、哲学では「自分の分野で成功するには才能が重要である」と考えている度合いが人文社会系の中で飛び抜けて高く、STEMを含めても数学を含む他の分野を大きく引き離している。わたし個人の感想では数学の方が才能が重要だと思われるので、「哲学者どんだけ才能が重要だと考えているんだよ」「それって大学教育意味ないってこと」「俺は転職しないといけないのか」「ウィトゲンシュタインなどのイメージに引きずられすぎでは」と思わざるを得なかった。

*1:Supplementary Materialsをみると「主題の背後にある原理や構造を見つけ出すこと」が大切な分野。

*2:同様に「人間の思考や感情の繊細な理解」が大切な分野。