まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

読みやすい文章の書き方:期待をコントロールする

読みやすい文章を書くためのコツは色々とあるが、一つ重要なのは読者の期待(予測)をコントロールすることである。これはどういうことかというと、「これからわたしがどういうことを・どういうやり方で語るか」ということが読者にわかるように書いていくことである。

これを行う一つのやり方は、文章や段落を書く際に冒頭で文章全体・段落全体の構成を示して、その構成に沿って書くことである。こうすると読者は文章や段落の最初の部分を読んだだけで「この文章・段落は○○のトピックについて書いてあり、それについて△△のように進んでいくのだな」という期待を持つ。そしてその期待通りに文章が進んでいくとスムーズに理解が進む。

例えば次の段落のように「○○に反対する理由は三つある」と書いて、次の段落で「第一の理由は...」、その次の段落で「第二の理由は...」とやる場合がこれにあたる。

①わたしは恋愛や性交の対象となるような「性愛ロボット」の製品化には反対であり、その開発を規制すべきだと考える。②その理由は三つある。③一つは、こうしたロボットの製品化により、性愛ロボットへの依存症を発する人が増加する恐れが強いことである。④例えば...。


⑤二つ目の理由は、性愛ロボットの普及により歪んだ・暴力的な性行動を起こす傾向が強化されることである。

上の文章では①と②で、その後の段落や文章全体の骨格が暗示されている。これを読んだ読者は著者の立場および文章の構成を大体理解することになる。そしてその期待通りに次の文(③)や次の段落で文章が進んでいくことで、読者は「自分の予測が間違っていなかった」という満足感を得ることになる。

これに対してこのような構成の予告を伴わない文は読みにくい。

①しかし、これだけでは本章のプロジェクトが完了したとはいえない。②一つは、このような説明と二重過程説との関わりである。③本章前半では二重過程説の枠組みの導入して生物学者の「種」にかんする思考のあり方を説明すると述べた。④これについてはどうなるだろうか。⑤もう一つは、「種」についての定義を介した思考である。⑥これまでの議論では、「種」についての「定義を介さない」思考のあり方をさぐってきた。⑦しかし、生物学者が「種」について議論するとき、定義を介して思考している場合があることもまた無視できない。⑧そうした思考のあり方はどのように特徴付けられるだろうか。⑨そしてそれは二重過程説の枠組みのどこに位置するだろうか。⑩次の最終節では、こうしたことについて考える。

これはわたしが書いた草稿の一部だが、何となくいいたいことはわからなくもないけれども、今ひとつシャープさに欠ける。これは②や⑤が言及している「一つ」や「もうひとつ」がいったい何の「一つ」「もうひとつ」なのかがわからないためのである。これと以下の段落を比較してみよう。

①しかし、これだけでは本章のプロジェクトが完了したとはいえない。我々には残された課題が二つある。②一つは、このような説明と二重過程説との関わりである。③本章前半では二重過程説の枠組みの導入して生物学者の「種」にかんする思考のあり方を説明すると述べた。④これについてはどうなるだろうか。⑤もう一つは、「種」についての定義を介した思考である。⑥これまでの議論では、「種」についての「定義を介さない」思考のあり方をさぐってきた。⑦しかし、生物学者が「種」について議論するとき、定義を介して思考している場合があることもまた無視できない。⑧そうした思考のあり方はどのように特徴付けられるだろうか。⑨そしてそれは二重過程説の枠組みのどこに位置するだろうか。⑩次の最終節では、こうしたことについて考える。

この強調の部分でこの段落で何をやるか(残された課題を示す)が明示されている。これによって読者は「以下ではこれからの二つの課題について述べるのだな」ということが理解できて、しかも②⑤でその期待が満たされるので、気分よく文章を読んでいくことができる。

これに関連して注意すべき点は、暗示された段落の構成と実際の構成が食い違うことがないようにすることである。次の例を見てみよう。

①北海道と大阪には独特の食文化がある。②大阪ではお好み焼きは、炭水化物でできているにも関わらず「おかず」とみなされており、お好み焼き定食といったものが一般的に存在する。③またたこ焼きは神聖な食べ物と考えられている。④例えば大阪のすべての家庭にはたこ焼き器が備えられており、それぞれの家庭に代々伝えられたたこ焼きの作り方・焼き方が存在する。⑤これに対応するのが北海道のジンギスカンである。⑥スーパーマーケットにはジンギスカンソースにつかったラム肉のパックが売られているが、そうした商品を買うのはほぼ外地からの単身赴任者などに限られている。...*1

この段落では①と②の接続がスムーズではない。読者は①を読むと、「北海道と大阪の独特の食文化について、この順番で説明するのか」という期待をもつ。ところが②では大阪の(虚構の)食文化を説明している。こうすると読者の期待を裏切ることになり、読みにくくなる。

もちろんこのくらいの単純な文章ならこうした問題を見つけるのはたやすいが、論文のような込み入った文章を書くと、そして推敲を難解も重ねるうちにこうしたねじれた文章が時に入り込んで来ることがあるので、みなさんも(そしてわたしも)注意しなくてはならない。

*1:この段落の内容には虚構が含まれている。

陰謀論と政治

陰謀論を扱った二つのポッドキャストを聞いた。一つは陰謀論と政治に関わるFivethirtyeight(FTE)のポッドキャストで、もうひとつは地球平面説を扱ったScientific Americanのポッドキャスト。このうちだと前者の方が紹介する内容が多いので、以下ではFivethirtyeightのポッドキャストの内容を主に紹介して、関連する内容があるときのみScientific Americanのポッドキャストについて述べる。FTEポッドキャストのゲストはマギー・カート(FTEの科学担当)と政治学者で陰謀論を研究しているジョー・ジンスキー氏(マイアミ大学)。

陰謀論と政治

陰謀説信奉者と政治との関わりでは二つとても興味深いことがあった。一つは右(共和党支持者)と左(民主党支持者)では、陰謀説を信じる全体的な度合については変わらないことだ。確かにマスコミに出るのは共和党支持者の陰謀説が多いが(気候変動否定やQAnon*1、Birtherism*2)、「人口の1%がすべてを支配している」「トランプ氏はロシアのエージェントである」というような民主党支持者がもっぱら支持するような陰謀説もある。

ということで左右の別は陰謀説には関係ないのだが、しかし政治的スペクトラムの中で全くランダムに陰謀説が出てくるわけではない。というのは政治において陰謀説が出てくるのは、政治的アウトサイダー(時の野党など)からが多いからだ。例えば上のBirtherismが出てきたのはオバマ政権時だし、「同時多発テロブッシュ政権の内部犯行」というのはブッシュ政権時のことである。

蒙が啓かれた二番目の点は、陰謀説を支持する有権者は(2016年までは)政治への関わりが総じて薄かったという指摘だ。例えば投票率献金率(米国政治では普通の人でも支持する政治家に献金することは一般的)は、そうでない人に比べて低かった。また彼らは政党の本流をなす政治家よりも非主流派・アウトサイダーを支持する傾向がある。しかしこうしたことは説明を受けてみれば当たり前の話で、というのは陰謀説信奉者は「政府は○○(ユダヤ人、ロスチャイルド家、宇宙人など)に支配されている」と信じがちなわけであるから、通常の政治プロセスに係わらないのも当たり前ということになる。

これが変わったのは2016年で、この年の選挙では陰謀説論者がトランプ氏に動かされた。これはトランプ氏が陰謀説と親和性が高い(というか、積極的に陰謀説に荷担する)ためである。ただトランプ氏はもとは共和党アウトサイダーであったことを考えると「アウトサイダー陰謀論」という流れは今も断ち切られていないといえる。

科学に対する陰謀説が高まるのはなぜか

次の話題として、科学と陰謀論の関わりがある。COVID-19と5Gの関わりについての陰謀説や気候変動否定論に限らず、科学についての陰謀説には事欠かない。では科学に対する陰謀説が高まるのはなぜか。まず、これは(少なくとも米国の文脈では)科学者自身に対する信頼が失墜したからではない。世論調査によれば、アメリカ国民の科学者に対する信頼度は非常に高く、軍人に次ぐほどである。

では何が問題なのか。ジンスキー氏によれば、問題の一端は中高における科学の教え方にあるという。中高では科学を「絶対的な真理を細切れにして与える」という形で教える。これは生徒に対して「科学は絶対的に正しい」というイメージを植え付ける。そうすると、今回のような何事にも不確実性がつきまとうときには、科学からの託宣を信頼できなくなる。そこに「絶対的な真理」を与える陰謀説のつけいる隙が産まれるというのである。

どうしたら陰謀説を信じている人を説得できるか

ではどうしたら陰謀説を信じている人を説得できるだろうか。これは事柄の性質からして難しいとジンスキー氏は言う。なぜなら、こうしたことがいつもできるということは、人を自由自在に洗脳できるということになるが、もちろん我々はこうしたことはできないからだ。

しかし道はある。一つは陰謀説を完全に信じてこんでいる人よりも、そのとば口に立っている人の方が信念を変えやすい。もうひとつは、陰謀説信奉者が信頼するような人から証拠に基づいた意見を聞くと信念を変えやすくなる。例えばある実験によると、共和党支持の有権者共和党の下院議員が「デス・パネル*3は存在しない」と言っているのを聞くと、自分の考えを変えるという。

この点は地球平面説のポッドキャストの内容と呼応する。誰でも知っているように、地球平面説には地球の写真という「決定的な証拠」が存在する。もちろん地球平面説論者もそうした写真があることを知っている。では彼らはどのようにしてそうした写真の信憑性を否定するか。それは写真のソース(NASAなど)の疑わしさ(それがどんなに些細なものであっても)を指摘して、そこから出てきた写真を全否定するという論法をとる。そういう意味で、陰謀説信奉者でも信頼できるソースからの否定論を出してくると、彼らの信念を変える可能性が出てくるのである。

*1:ネットで読めるアメリカ政治解説は(報道機関からの論説であっても)妙なものが多いが、リンク先はそれほどヘンではないと思う。

*2:オバマ元大統領が米国籍をもっていないという説。トランプ氏が支持者だった。

*3:2008年の共和党副大統領候補サラ・ペイリンは、民主党国民健康保険制度改革案(オバマケア)が実施されると、専門家による「デス・パネル」が設置されて、重病患者の生死がそこで決められるようになると主張した。

コンピュータのしくみ・歴史についての五冊

わたしはコンピュータ科学の学部に勤めているので、科学史の授業でコンピュータ史を扱った。わたしはコンピュータの歴史やしくみには全くの素人だったので、その際にそこそこに本を読まなくてはならなかった。その中から役に立ちそうなものものを紹介する。

コンピュータの歴史としくみについて最初に読む本としてはこれがもっともおすすめできる。定評ある著者によるストーリー仕立てかつ図表が多数できわめてわかりやすい。難易度も初学者向けに抑えられている。また専門家からのチェックを受けており内容についても信頼できる。プログラムをぱらぱらマンガ的に表現したり、チューリングマシンの作り方を説明したり工夫が光っている。巻末には次に読む本の紹介もあってステップアップも容易。

CODE コードから見たコンピュータのからくり

CODE コードから見たコンピュータのからくり

  • 作者:Charles Petzold
  • 発売日: 2003/04/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

コンピュータのしくみについて次に読む本としては、上の本に紹介があったこれがよい。この本は、コンピュータについて全く何も知らないところからコンピュータの原理を一歩一歩(本当に一歩一歩)導入して、ついには現代的なコンピュータのしくみを(原理的なところについては)大体説明してしまう。その分ついていくのが結構難しいところもあり、わたしも後半は結構流し読みになっている。ただし歴史についてはそれほど書いていない。わたしの場合コンピュータの歴史を教えるといってもコンピュータのしくみについてある程度のことを理解していないと問題があったので読んだが、コンピュータの歴史自体を知りたい人には優先順位は下がるかも。

この本はコンピュータの開発史の通史。ただし著者は科学史の専門的な訓練を受けた人ではないので、もしかしたら信頼性に疑問があるかもしれない*1。とはいえこの本は著者がそれなりの量の一次文献・二次文献に当たっていることがわかるので、信頼性の点はそれほど悪くないのではないかと思う(他の本で勉強するとちょっと不満が出てくるところもあることはあるが)。内容はバベッジENIAC~EDSAC当たりまでのコンピュータ開発史。この本は題名の通り「初めてのコンピュータはいつ誰が創ったのか」という問いを軸に進んでいくような、ある意味「哲学的な」歴史の書き方なので、わたしが授業を立てる際にも話の筋を組み入れやすかった。

チューリングマシン説明できますか?

チューリングマシン説明できますか?

計算機歴史物語 (岩波新書 黄版 233)

計算機歴史物語 (岩波新書 黄版 233)

  • 作者:内山 昭
  • 発売日: 1983/06/20
  • メディア: 新書

これら二冊の本も専門の歴史家が書いた本ではないが、コンピュータ史で出てくるいろいろなマシンのしくみを細かく説明しているので、授業で説明しないといけない時に役だった。前著はパスカリーヌや階差機関・解析機関からENIACのリングカウンターまでを扱い、後の本は19世紀以前の計算器を古代のそろばんからパスカリーヌまで説明する。

*1:わたしが科学史・科学哲学専攻の大学院で学んだことの一つは、「科学の歴史について確かなことを知るためには大変な労力・懐疑心・注意深さが必要で、現場の科学者が片手間に行ったものは疑いの目をもって見る必要がある」ということである。

研究者のためのメンタルヘルスマネジメント:7つのコツ

という記事が『ネイチャー』に載っていたので簡単に紹介。著者はスペインの臨床心理学者。書いてあることはそれほど目新しいことではないかもしれないが、現下の状況でここで確認・共有することには意義があるだろう。

  1. 期待を下げる:授業がなくなった大学に勤めている人にとっては、隔離期間は今までやれなかったことに取り組める期間になると思うかもしれない。しかしパンデミックがもたらす感情的・認知的負荷を舐めてはいけない。やる気が出なかったり、注意がそがれたりすることは普通に起こりうる。リモートワークなどの新しい仕事の体制に移るには時間がかかる。だから期待を上げすぎないことだ。
  2. ストレスに先回りして対処:ストレスが過大にならないうちに対処すること。睡眠第一。また睡眠がちゃんと取れるようにすること(寝る前にブルーライトを浴びないようにするとか)。きちんと食事をとる(でも大量のアルコール摂取には注意)。運動。
  3. 警告サインに気を配る:ストレスがたまってきたときには、心身の不調のサインが出る。例えば、集中できないとか、不安・悲しみ、イライラするとか、コロナウィルス関連の統計を見るのがやめられないとか。こうしたサインはネガティブな感情のサイクルを増幅する。こうした時は深呼吸をするなどしてそのサイクルを断ち切ろう。
  4. ルーティンは友達:仕事の時間とそうでない時間を分ける、また仕事場とそうでないところを分けるのは大事。仕事やウィルス関連ではない楽しい活動を見つけよう。きちんと休憩を取って仕事をするのは、頭がすっきりする。
  5. 自分自身と他人にやさしくする:今の時期、自分ひとりではどうにもならないことがたくさんある。でも、それをどう捉えるかで、この時期を乗り越えられるかが決まる。打ちのめされたと感じるときは、「もうできない」とか「難しすぎる」といった気持ちが出てくる。こういう困難な時期に我々はいつも最善のことができるとは限らない。助けが必要な時は助けを求めよう。
  6. つながりを大事に:どんなに内向的な人でも「他人とつながっている」という感覚は心身の健康に大事。いまはオンラインでつながれる場所が大勢できている。我々は物理的には隔離されているが、孤独だと思う必要はない。
  7. 今を生きることで不確実性を切り抜ける:一日一日を味わい自分のコントロールできることに集中しよう。マインドフルネスや瞑想はとても役に立つかもしれない。

「パンデミック時のニュートン」からの教訓

新型コロナウイルスの流行で多くの学校が閉鎖されている。しかしそうしたことの予期せざるよい面を見ようとして、ニュートンのエピソードが話題になることがある。曰く

ニュートン微積分法、光と色の新しい理論、および万有引力の理論という大きな発見をしたのは、イギリスがペストの流行に見舞われケンブリッジ大学が閉鎖されていた間である。(だから我々も大きな発見をなすかもしれない)

しかし

ニュートン (岩波新書 黄版 88)

ニュートン (岩波新書 黄版 88)

を読むと、これは正しい歴史の教訓ではないかもしれない。

このエピソードは次のニュートンの記述が元になっている。

一六六五年の初め、私ば近似級数の方法と、どの二項式のどれほど高位のものでも、このような級数にする法則を発見した。同じ年の五月に、私はグレゴリとスリューズの接線法を発見し、一一月には流率法[微分法]の直接的方法を、翌年の一月には色の理論を発見し、五月には流率法の逆に入った。同じ年、私は月の軌道にまで及ぶ重力について考え始めた。惑星の周期の二乗が軌道の中心からの距離の三乗に比例するというケプラーの法則から、ある球内を回転する天体が、その球面を押す力の算定法を発見したので、諸惑星をその軌道に保つ力は、中心からの距離の二乗に逆比例することを推論した。これによって、月を軌道に保つに要する力と、地表の重力とを比較し、それらがかなりよく一致することを発見した。これらはすべて、一六六五年と一六六六年のペストの流行した二年間のことであった。この時これらはすべて、一六六五年と一六六六年のペストの流行した二年間のことであった。この時期は年齢からいって私の発見の最盛期にあたり、それ以後のどの時期よりも数学と哲学に打込んだ。

しかしこれはニュートンが76歳の時にライプニッツに対して微積分法発見の先取権があることを強調するために書いたものであるので、額面通りに受け取れないかもしれない。

実際、上の本の著者は、最近の研究*1ではこれは必ずしも正しくないといっている。例えば重力については、このときの研究ではニュートンは満足のいく理論には達していなかったし(最終的な理論に到達するためには例えばフックとのやりとりをきっかけにした研究が必要だった)、上で「一致する」とされた二つの力もその当時の計算では一致しなかった(42頁)。また微積分法などの数学の研究についても、重要な研究はペストによる閉校が一時的に解除された1666年3月から6月に彼がケンブリッジ大学に滞在した時になされたという。さらに光が屈折性が異なる射線からなることを示した「決定的実験」も、上記滞在時になされたことは間違いないという(47頁)。

そこから考えると「休暇」が果たした役割は、「大学でおこなった発見を[休暇時の]孤独のうちに、先人の書物から離れて、じっくりと時間をかけて推敲した」(34頁)ことにあるとされている。

従ってこの事例から得られる科学史的教訓は、「大学が閉校になるのは残念だが、教員や学生が大きな発見をなすかもしれないのでそれにはいいこともある」ではなくて「休暇も大切だが、大学が開いているときには行った方がよい」ということになるだろう。

*1:ただし上の本が出版されたのは1979年なので、そのときの「最新」の研究。なのでその後の研究で覆されているかもしれないことに注意が必要。

エルンスト・ヘッケルの研究不正

エルンスト・ヘッケル(1834-1919)の研究不正の事例について科学史の授業のためにいくつか論文を読んだが、授業ではほとんど使わなかった(二枚スライドを作っただけ)ので、またこの事例は日本語で検索してもあまり記述が出てこないので、ここでメモ。

ヘッケルは19-20世紀のドイツの生物学者で、進化論の一般への紹介者として、また進化と発生を結びつけたことで知られている。後者についてもっとも有名なのは「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼである。これは生物は胚から胎児になる過程(個体発生)でその種が辿ってきた進化の歴史(系統発生)を形態の上で繰り返しているという考えで、それを示すものとしてこの図(『人類発生論』Anthropogenie、1874年より)がよく引用される。この図は、成体では形態が異なる種でも胚の時代には形態が著しく似ており、これらの種が共通祖先をもっていることを示唆している。これと同じような図は、特にアメリカでは進化の証拠として二十年ほど前までは特に教科書などで広く掲載された。

二つの問題

しかしヘッケルには主に二つの点で研究倫理上の問題点が指摘されている。一つは著書『自然の創造史』(Naturliche Schopfungsgeschichte, 1868年)でイヌ・ニワトリ・カメの胚を比較する図を載せているが、リンク先の図を見てもらえればわかるようにこの三つの図が全くの同一である(同じ木版を三回使った)ことである。*1

二つ目の問題。ヘッケルは『自然の創造史』および『人類発生論』で(最初にリンクした図のような)様々な種の胚を比較した図を載せている。しかしこうした図については、先行研究で用いられた図を元にして種間の類似性を過度に強調するように描き直した疑惑がある。*2

これはヘッケルを批判した学者(ヴィルヘルム・ヒズ)が描いた図とヘッケルの図を比較してみるとわかる。ヘッケルの図では右頁の一番左の列がブタの発生で右端の列がヒトの発生だが、両者の胚は非常に似通っている。これに対してヒズが描いた図では左がヒト、右がヒトの発生を描いているが、両者は「似ていなくもない」という程度で、ヘッケルの図からの印象とはだいぶ異なる。

二回の嫌疑

科学史の中でこうした研究不正の嫌疑は二回立てられた。一つはヘッケルが著書『自然の創造史』および『人類発生論』を出版したあとである。両方の場合でも著書が出版された後に発生生物学者から問題が指摘された。

この経緯についてはホップウッドの論文*3が詳しいが、例えばバーゼル大学の動物学・比較解剖学の教授であるルートメイヤーは『自然の創造史』の書評で、上の図のコピーの問題を指摘するとともに、同書は(一般向けとしては許されるものの)専門家が守るべき真理への義務にもとっているとヘッケルを批判した(また当時の発生学の泰斗であるビシュホッフも、ヘッケルのヒトの胚の図が観察に基づいていないと同僚に不満を漏らしていた)。

また『人類発生論』の出版後も図について同様の論争が巻き起こった。例えば上でみたヒズの図は彼が『人類発生論』の後に出版した本(Unsere Korperform und das physiologische Problem ihrer Entstehung、1875年)に掲載された。また『自然の創造史』の後とは異なり、生物学の専門家ではない人たちも論争に参加した。例えばカトリック教会の牧師はヒズなどの著作を引いてヘッケルの図が意図的な改竄だと主張し、それを用いて進化論を否定する論考を執筆した。

もう一つは1997年である。このときは発生生物学者のリチャードソンらが『人類発生論』の胚の比較図が本当に正確か検証した論文*4を出版し、それに基づいてサイエンスライターのペニーシがScience誌に一頁足らずのレポートを書いた*5。彼らの論文では実際に図で挙げられている生物の胚(尾芽期)を撮影し、ヘッケルの図と比較した*6。それによると、ヘッケルの図は胚の形態を誇張するだけでなく、実際は約10倍異なるサイズを同等に見せるように描かれていたことがわかったという。

この論文・報告の影響は特に米では大きかった。というのは上での得たようにヘッケルのこの図は進化の存在の証拠として教科書などで扱われていたからで、進化論に反対する創造説やインテリジェント・デザイン説の支持者が大きく扱った。

まだ証明されていない?→やっぱりダメそう

しかしリチャードソンらやペニーシの報告に対しては科学史家・哲学者のロバート・リチャーズが「ヘッケルの胚:詐欺はまだ証明されていない」という論文(pdf)でヘッケルの擁護論を書いている。*7

彼の論点は主に三つある。一つは、Science誌のレポートはヘッケルの図ではもともと描かれていなかった卵黄をつけた胚の図を使って、ヘッケルの図と実際の胚の形態を実際以上に乖離するように見せている。しかしコンピュータを使ってペニーシの報告の図から卵黄を取り去った図を作ると、両者の違いは目立たなくなる(論文の図5)。

二つ目は、ペニーシの報告とリチャードソンらの論文の間の乖離を指摘するものである。ペニーシの報告ではそのタイトルに見られるように、fraud(詐欺、不正)という言葉でヘッケルの行為を形容しているが、元になったリチャードソンらの論文ではそうしていないという(149頁)。

さらにリチャーズはこうした(彼によると不当な)不正の嫌疑が出てきた理由についても考察している(153頁)。彼によるとこれは『自然の創造史』での三つの胚の図をコピーの問題を重大視しすぎたためであるという。まず三種の胚の図には問題があったもののヘッケルはこれによって読者を欺すつもりはなく、問題が指摘されたあと第二版で彼は図を訂正した。しかしこれによってヘッケルの周りの人々には悪いイメージがついてしまい、それによって第二の嫌疑が出てきたと述べる。

リチャーズの擁護論の問題点

しかし、ホップウッドの論文を読むとこの擁護はうまくいっていないことがわかる。

第一の点については、上で見たようにヒズが書いたヒトと豚の胚の図を見ると両者は結構異なっている。リチャーズの比較図を見るとそれと同じくらいヘッケルの図と実際の図は異なっているように見える。

第二の点。たしかにリチャードソンらの論文では"fraud"という言葉は使われていない。しかし彼らはヘッケルの行為には倫理にもとることがあったことを示唆している。一例はカエルの胚についての彼らの指摘である。彼らによればカエルは代表的な両生類の種類の一つだが、その胚は他の脊椎動物とかなり異なっている。そのことを知っていたヘッケルはカエルの胚の図を上の比較図には採録していない(104頁)。これは自分の説の都合のよいように例をつまみ食いすることであり、問題がある。

さらに、ヘッケルの図が問題になったのは三種の胚の図のコピーで注目されたためだというのも妙である。というのは上で見たように、胚の比較図に対する疑問は『人類発生論』ではじめて出たものではなくて、『自然の創造史』の図についても専門家によって陰に陽に抱かれていたからである

ということでリチャーズのヘッケル擁護論はあまり成功していない。

ヘッケルの「研究不正」

ただ、ホップウッドの記述を見ると、ヘッケルの行為を現代の研究不正と完全に同列に置くことは難しいかもしれない。というのはホップウッドはヘッケルの行為は当時の科学者の基準からしても問題だと考えているが、ヘッケルの中に読者を欺そうという意図はなかったとするからである。例えば上で述べたように最初の問題が指摘された後、ヘッケルはこれは「きわめて拙速で馬鹿げた行為」だったといって同書の第二版では当該の図を撤回し適切な図に差し替えている。これに対して現代の研究不正にはほとんどの場合読者を欺そうという意図があるだろう。

そういう意味でヘッケルを現代の枠組みに簡単にねじ込むことはできないけれども、しかしヘッケルの行為には研究倫理上の問題があるだろう*8

*1:これについてはある科学史家に教えられた。

*2:なお批判者の要点は、先行研究の図を断りなく用いた点というよりも、書き直された図が実際の形態と乖離していることにある。

*3:Hopwood, Nick: Pictures of evolution and charges of fraud: Ernst Haeckel’s embryological illustrations. Isis 97:260-301, 2006

*4:Richardson, M. K. et al.: There is no highly conserved embryonic stage in the vertebrates: implications for current theories of evolution and development. Anatomy and Embryology 196(2):91-106, 1997

*5:Pennisi, Elizabeth: Haeckel's Embryos: Fraud Rediscovered. Science 277(5331):1435, 1997

*6:下で紹介するリチャーズの論文(pdf)の図1に転載したものがある。

*7:Richards, Robert J.: Haeckel's embryos: fraud not proven. Biology & Philosophy 24(1):147-154, 2009

*8:なおこのエントリは上で引用した文献のみを参照している。HopwoodとRichardsにはそれぞれヘッケルについての著書(Haeckel's Embryos: Images, Evolution, and Fraud by Nick Hopwood(2015-05-11))および(The Tragic Sense of Life: Ernst Haeckel and the Struggle over Evolutionary Thought)があるが、それは読んでいない。またヘッケルについては日本語の本もある(ヘッケルと進化の夢 ――一元論、エコロジー、系統樹)が、それも参照していない。

科学者の歴史についての四冊

教えている「科学史」の授業で、どのようにして科学者が今のようなあり方になってきたのかについて講義した(専門用語では「科学の制度化」という)ので、その準備に使った四冊を紹介。

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

この本の第五章「科学者はいつから存在していたのだろうか?」はこのテーマに関心を持ったらまず読むべき。「学会」というものがない時代に科学研究者がどのように研究をしていたのかの解説から、アカデミーの成立、「科学者」という言葉の起源まで非常にわかりやすく書かれている。著者は周知のとおり仏王立科学アカデミーを題材に博士論文を執筆しており、信頼性の問題はない。この章がすぐれているのは単にテーマに沿って事象を並べるだけではなくて、きちんと「この時期はこういう感じ、この時期はこういう感じ」と出来事を整理して叙述している点である。

科学の社会史 (ちくま学芸文庫)

科学の社会史 (ちくま学芸文庫)

このテーマについてもう少し知りたいと思ったら是非読むべき本。この本は科学者と社会の関係に関する通史を扱っているが、その中でいくつかの章(第三章、第六~八章など)がこのテーマに充てられている。著者は化学史を専門としているので化学についての記述が多いが、テーマについて詳しく知るには問題ない。それまでの専門研究をきちんとサーベイしており信頼性に問題がないにもかかわらず歴史を明快に描くという一級の教科書の美徳をすべて兼ね備えている名著。

社会の中の科学 (放送大学教材)

社会の中の科学 (放送大学教材)

この本は『科学の社会史』と同じテーマを扱っているが、放送大学の教科書ということで前掲著よりはライトな書き方になっている。第七章から十一章までが科学の制度化に充てられている。各章には参考文献が挙げられているので、もう少し勉強したい人にはよいガイドになるだろう。

パトロン期からアカデミーが発達した時期までの科学者について、どちらかというと彼らの科学的業績以外のところから迫った本。たくさんの科学者が取り上げられていて辞書的に使うのは便利である。ただ、著者は科学史を専門とする研究者ではなく、またほとんど参考文献が書いていないので、信頼性に不安がある。例えばガリレオがピサ大学を辞職したのはトスカナ大公のコジモ一世の庶子が設計した浚渫機(港の海底の土砂をさらう道具)を嘲笑したせいだと書かれている(85頁)が、ガリレオ―庇護者たちの網のなかで (中公新書)にはそれは疑わしいとされている(40頁)。もちろん後者が間違っている可能性はあるわけだが、後者の著者は科学史の専門教育を受けたガリレオの専門家であり、おそらくその確率は低い。