まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

半分書評:The Changing role of the embryo in evolutionary thought

The Changing Role of the Embryo in Evolutionary Thought: Roots of Evo-Devo (Cambridge Studies in Philosophy and Biology)

The Changing Role of the Embryo in Evolutionary Thought: Roots of Evo-Devo (Cambridge Studies in Philosophy and Biology)

The Changing role of the embryo in evolutionary thoughtを読んだ。というのはうそで、わたしの関心に関係する最初の半分しか読んでいない。しかし、それだけでもこれはかなりよい本であることがわかる。

目次は次の通り。

1. Introduction;

Part I. Darwin’s Century: Beyond the Essentialism Story:

2. Systematics and the birth of the natural system;
3. The origins of morphology, the science of form;
4. Owen and Darwin, the archetype and the ancestor;
5. Evolutionary morphology: the first generation of evolutionists;
6. Interlude;

Part II. Neo-Darwin’s Century: Explaining the Absence and the Reappearance of Development in Evolutionary Thought:

7. The invention of heredity;
8. Basics of the evolutionary synthesis;
9. Structuralist reactions to the synthesis;
10. The synthesis matures;
11. Recent debates and the continuing tension.

この本は、近年生物学の哲学まわりで話題になっている進化発生生物学(EvoDevo)を哲学的・歴史的に擁護するマニフェストである。何に対して擁護するのか。それは進化の総合説とその擁護者、特にエルンスト・マイヤーに対してである。どのように擁護するのか。それは進化の総合説の擁護者たちがEvoDevoの先駆者に与えてきた「本質主義者」・「観念論者」というレッテルがもつネガティブな意味合いをはらすことによってである。なぜその試みがマニフェストなのか。それは、アマンドソンが自らの党派性を隠していないからである。

「総合説(ES) vs. EvoDevo(ED)」観

アマンドソンが他の論者と異なるのは、彼が総合説とEvoDevoが対立する(あるいは少なくとも総合説の擁護者からすると対立すると思われている)ことを強調するという点だ。EvoDevoの基本テーゼは、次に要約されている。

[...] one must understand how bodies are built in order to understand how the process of buidling bodies can be changed, that is, how evolution can occur. (original italics, p.8)

ここに見られるように、アマンドソンはESとEvoDevoの対立を「適応 vs. 構造論争」の一環と解釈している(9-10)。

変化の説明vs.形態(form)の説明

その上で、アマンドソンはESとEvoDevoを説明の対象という点から対比する。ESは変化の説明のための理論であり、EvoDevoは形態の説明のための理論であるという。すなわち、EvoDevoはある種Sがどういう形態をもっているかを説明する。しかしESにとってはそれは説明の対象ではない。むしろ、ESはSが別の種S*に変わったときの変化(形態および他の形質における)を説明しようとする。Sの形態はESにとっては背景条件でしかないのである。

Darwin proposes his hypothesis of natural selection "to explain evolutionary change without explaining how embryogenesis could be modified." (104)
The goal [of the structurist evolutionary theory] was the explanation of the varieties of form throughout evolutionary time in terms of the ontogenetic generation of form. (104)

しかし、このESとEDの対立関係を強調する見方*1は必ずしも共有されているわけではない(というか、多くのEvoDevo論者はそうではないようにみえる)。たとえば、id:leeswijzerさんはEndless Forms Most Beautiful: The New Science of Evo Devo and the Making of the Animal Kingdom
(の翻訳-->シマウマの縞 蝶の模様 エボデボ革命が解き明かす生物デザインの起源)の書評で、EvoDevoが総合説がどう吸収するかという点から考えている。

1940年代の現代的総合から疎外された発生学が新たな「総合」に加わろうとするいま,発生学がたどってきた(進化学よりも長い)歴史を思い浮かべないわけにはいかない.

『シマウマの縞 蝶の模様:エボデボ革命が解き明かす生物デザインの起源』 - leeswijzer: boeken annex van dagboek

さらに、わたしの目にはこの対立は、J. ベイティ (Beatty 1994)の<説明における相対的重要性>における対立にすぎないのではないかとも思える。つまり、事情は「一方の観点からの説明が全く役立たずで、他方の観点からの説明ですべてが尽くせる」というようなことではなくて「一方の観点からの説明が他方にくらべてどのくらい重要か、どのくらいの現象を説明できるか」という対立にすぎないのではないかと思える。

本質主義物語批判

次にアマンドソンのEvoDevo擁護の方法について。わたしが読んだはパート1は、エルンスト・マイヤーなどの生物学者・生物学史家が与えてきた分類学史における「本質主義物語」(Essentialism story)の批判に充てられている。本質主義物語とは、著者の言葉を借りると

The Essentialism Stroy is the widely held historical view that the belief in species fixism among pre-Darwinian naturalists was due to their commitment to the ancient Greek metaphysical doctrines of Aristotelian essentialism or Platonic typology. (p.34, see also 31)

という見方だ。つまり

  • ダーウィン以前の分類学は、種の固定主義(species fixism)------種は進化しないという見方------が大勢を占めていた。
  • その<種の固定主義>の根本には古代ギリシャ哲学に見られる本質主義があった。その本質主義によれば、個々の自然種(種 speciesを含む)にはその成員すべてが共有するような性質(本質)があり、その本質の共有により個々の自然種は他の自然種から区別される。

さらに

というものだ。この見方はエルンスト・マイヤーら進化の総合説をになった人たちによって繰り返し主張されてきた(アマンドソンは総合説論者に特徴的な歴史の記述を「総合説の歴史記述」 Synthesis Histriography (SH)と呼ぶ)。アマンドソンはこの見方には歴史的な根拠がないことを示していく。


しかしなぜそんなことをEvoDevoを擁護するためにするのか。ひとつの理由は、こうである。EvoDevoは、アマンドソンによると、19世紀の観念論的形態学(idealistic morphology)の後継者である。しかし、もしSHを維持するとすると、観念論的形態学は反進化論的である。つまり、SHに従う限り、EvoDevoは反進化論的理論の後継者ということになる。それはこういう議論による。

1. 観念論的形態学は本質主義的・類型学的である。
2. 本質主義・類型学は反進化論的である。
3. したがって、観念論的形態学は反進化論的である。

しかもSHは、観念論的形態学の失敗の理由をイデオロギー的・形而上学的要因に求める。もしそうなら、こうしたイデオロギー的・形而上学的理由はEvoDevoに反対する理由にもなりうる。それに対して、アマンドソンは、

  • ダーウィン以前の分類学でも種の固定主義以外の立場をとる人がいた。種の固定主義はむしろ18世紀に生じた、
  • 種の固定主義をとる人でも、哲学的な本質主義を受け入れる人(あるいは哲学的な本質主義理由にして種の固定主義をとる人)は極めて少なかった、
  • 種の固定主義は、自然の体系(Natural System)の実在性を支持することで、ダーウィン的進化論の歴史的前提になった。ダーウィンは種の固定主義論者の論説(Owen)を自説のために利用した、

ことを指摘して、本質主義物語がまちがいであることを主張する(上の議論でいうと、アマンドソンは1を中心に2も否定する)。

さらに、アマンドソンの記述では、発生論的アプローチが今までうまくいかなかったのは、SHが述べるようにイデオロギー的・形而上学的な理由ではなく、プラクティカルな理由------胚発生(embryogenesis)のメカニズムがよくわからなかった------からなのである。発生論的アプローチは、SHのいうようなたんなるダーウィニズムの敵役ではないのである*2

EvoDevoへの哲学的マニフェスト

最後にわたしがおもしろいと思った点は、アマンドソンはこの本で描かれた歴史がEvoDevoの側にたちEvoDevoを擁護することを隠さないことである。しかも、EvoDevoの正当性を前提していることすら公言している(p.2)。これは科学哲学・科学史に対するかなりさめた認識に基づいている。

Philosophers of science ought to take contemporary scientific knowledge as their starting point, and they ought not to feign wisdom that is superior to that of their scientific collagues. (p.2)

つまり科学哲学者や歴史家は、ある意味で特定の説を支持する科学者の「応援団」であり、そうでなくてはならない。そしてこのことは進化生物学の歴史については正しい。

[...] many histories of evolutionary biology had been written by people who considered the Evolutionary Synthesis to be essentailly correct about evolutionary biology [...]. (p.10)

では、EvoDevo側から歴史を描いたら、どんな歴史が書けるだろうか。それが本書の動機だという。したがって、本書の歴史にバイアスが入っていることをアマンドソンは隠さない(p.10)。もちろんそうした限界の認識は必ずしもめずらしくない。しかしここまでの開き直りは特筆に値する。

*1:ただし、アマンドソンは両者の統合の可能性を否定しているわけではない(p.3, 24)。

*2:しかし、アマンドソンの本質主義物語批判をつねにEvoDevoのマニフェストの前菜として読まなくてはいけないわけではない。アマンドソンの記述は分類学史としても十分独立に読むことができる。