id:macha33さんのエントリを読んでチラシの裏的に思ったこと。
id:macha33さんのエントリ(id:macha33:20070911)は、仏教が自殺志願者に対してほとんどなにもしていないことを問題視している。それに対しては、仏教は教義上自殺に寛容なので動きが鈍いのだ、という反応があった。
わたしは仏教については(among many, many things!)なにも知識がない。しかし、たしかに、id:macha33さんのエントリも東本願寺のサイトにあった文章を紹介している。
[...]これについて少し調べてみれば、浄土真宗東本願寺の仏教用語のページには、こんな一文がある。
自殺と向き合えない仏教 - 浄土真宗@生と死のギリギリのところで、死の方を選んでしまったということでしょう。その選択を他人がどうこう言える筋合いはないと思います。ただ、その生と死のギリギリの選択のときに、「生」の方に重心が移るような手だてはないものかと思います。まあ果たして生の方が絶対によいのだという保証もないのです。
つまり、生の方が価値があるとも言えないので、死に自ら移ること(自殺)が絶対的にわるいとは言えないというわけである。だが、もしこれだけで仏教側の自殺についての議論が完結するなら、これは自殺ということがらの一面しかついていない。
というのは、極めておおざっぱに言うと、たぶん自殺をする人は、
- 何らかの問題が発生
- 悩む
- 決断
- 自殺
という順番を踏むだろう(もちろん2.と3.を行き来することもある)。上の議論だと、自殺について語ることが3.から4.へ向けたプロセスだけの話になっているように思える。確かに3.の決断を完全に下したあとは教義的に何もできることがないとしても、2.から3.に至るプロセスについて何かできることはあるのではないか。とくに、この状況の人は、確かに表面的には「自殺すべきか」という疑問に悩んでいるかもしれないにしても、そうした疑問の裏では、その悩みについてそばに寄り添ってもらえる人を求めていることが多いだろう。したがって、上の疑問には教義上答えがあるからそれでよい、というものでもないのではないか。
もしこのプロセスの元にある人に、仏教が教義的・制度的になにもできないのなら、ふつうの人にとっては仏教に何の意味があるのか、ということにならないだろうか。
(誤記を直しました。 (Sep.18))