まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

系統樹のかたちは単位相対的

たぶんこのエントリで書くことは、専門家なら先刻ご承知の事柄だろう。だがわたしのような素人には、まとめておくのが重要だと思う。

まえにMahner and Bungeの本

Foundations of Biophilosophy

Foundations of Biophilosophy

を読んでいると、下のような図にぶつかった。

一番右の図は集団(population)の系統樹を表した図で、左の二つの図は種の系統樹を表した図である。右図のa, b, c.. はその集団が属する種(下付数字はその中で異なる集団を表す)を表している。見ての通り、同じ〈祖先-子孫〉現象を違うレベルから描き出すことで、一番左の図と一番右の図で樹形が異なっている。

系統樹のかたちは単位相対的

これは、系統樹のかたちが単位相対的であることを表している。つまり、同じ祖先-子孫現象を対象とする系統樹であっても、系統樹の単位(の同一性条件あるいはindividuationの条件)が異なれば、系統樹のかたちが異なることがある、ということだ。

このことの帰結のひとつは、ある対象を単位とする系統樹がもつかたちからの、それよりも上位あるいは下位レベルの系統樹のかたちへの推論はその正しさが保証されない、ということである。

これが当てはまる例はいくつかあげることができる。ひとつは個体の系統樹から直接種の系統樹を推論する誤りである。種問題では、種の系統樹と個体の系統樹を重ね合わせる右の図のような図が描かれることがある(図はO'Hara 1993, Hennig 1966から)。


わたしがいいたいのは、このような個体の系統樹から種の系統樹を直接導くことは出来ない、ということ。別の言い方をすると、個体の系統をただ俯瞰的に見るだけでは、種の系統樹はわからない。ある意味では、種が何かを知らなければ(あるいは定義しなければ)、種の系統樹は書けない。

例:Kornetの種概念

これを示しているのがKornetの種概念(Kornet 1993)の議論だ。Kornetは、作業仮説として、種分化を系統樹の永続的分岐(permanent split)ととらえる。一見したところこれはよい定義------少なくとも種分化の定義としては------のように見える。しかしここでKornetは、もしこれを種分化の定義とすると、子や孫をもたない夫婦も他の個体から永続的に分岐するため、そこで種分化が生じることになってしまうことを指摘する。個体系統樹をかたちの面から俯瞰する見方によると、こうした極めて規模の小さい分岐も本来種分化と呼ばれるべき大規模な分岐も枝分かれ構造を作り出す「永続的な分岐」には違いない。しかし、もし種にかんするわれわれの直観を尊重するなら、規模の大きい分岐と規模の小さい分岐を区別する必要があるのである。

例:遺伝子樹≠種樹

系統樹のかたちが単位相対的であることを示すもう一つの例は、遺伝子系統樹と種の系統樹のちがいだ。遺伝子系統樹のかたちと種の系統樹のかたちは異なることがあることは、よく知られている。たとえば、下図を見よう(図はMaddison 1997より)。図の太線は種ABCDの間の系統樹を表し、細線(実線および破線)は遺伝子の系統を表している。

図を見ればわかるように種の系統樹と遺伝子の系統樹のかたちが異なっている。前者ではBとCが単系統群なのに対して、後者ではCとDが単系統群を形づくっている。これはdeep coalescenceと呼ばれる現象である。種の系統樹と遺伝子の系統樹が一致する場合、異なる種の遺伝子は二つの種の共通祖先にまでしか遡らないわけだが(つまりその共通祖先よりあとになって「異なる遺伝子」となる)、この場合両種の共通祖先においても異なっていた遺伝子の系譜が、そのあとでも保存されていたため、こうしたことが生じるのである*1

グールドの誤り

このエントリのはじめにこうしたことは専門家なら先刻ご承知ではないか、と述べた。しかし、生物学者の中にもこの点で誤りを犯しているのではないか、と思える例がある。たとえばグールドである。グールド(Gould 1992)は、種の「歴史的定義」として、種は系統樹の枝であると述べる(彼は同じエッセイでもう一つ「機能的定義」というものを与えているが、これについては後述する)。

そして彼はこの考え方の帰結として、種カテゴリーと高次カテゴリーを明確に区別できる、さらに、種カテゴリーは客観的だが高次カテゴリーは主観的だと主張する。彼の言葉を引用すると、

Species are unique in the Linnaean hierarchy as the only category with such objectivity. [...] The evolutionary tree itself is objective; the branches (species) emerge, grow, and form clusters by subsequent branching. The clusters are clearly discernible. But the status we award to these so-called higher taxa (clusters of branchies with a single root of common evolutionary ancestry) is partly a matter of human decision. (Gould 1992)

となる。種は系統樹の枝であり、高次タクソンはその枝をまとめたものにすぎないから、種と高次カテゴリーは系統樹のかたちから区別できる、ということだ。

しかし、このときの「系統樹」とはどのレベルの系統樹だろうか。あきらかに「種の系統樹」ではあり得ない。なぜなら、もしそうなら、上の区別は定義上のものにすぎなくなるからである。また、これを個体の系統樹とするのもKornetと同じ問題に直面することになる。したがって、おそらくこの系統樹は集団(population)の系統樹であろう。種は集団系統樹の枝(a branch)であり、高次タクソンはその枝をまとめたものなのである。

ひとつの問題は、種カテゴリーの客観性をこうしたかたちで擁護するには、集団の定義の客観性を前提とする必要があるということだ。なぜなら、もし集団の定義が主観的ならば、それからなる系統樹に基づいた、新たな集まりの定義(種のような)も主観的になるからだ。つまり次のような図式が前提されているわけである。

集団の定義の客観性 → 集団系統樹の客観性 → 種の客観性

ところが、集団の定義も種と同じくらい紛糾しており、このような図式が成り立つかどうか疑問がある。しかしこの点はここでは論じない。

種は集団系統樹の分岐を生き残る

もう一つの問題は、われわれの多く、そして生物学者の多くはおそらく「種=集団系統樹の枝」とは見なしていない、という点だ。これは別の論文で書いた点を引用しよう。

ある種(species) が新しい種を生み枝分かれしたあとでもその同一性を保てるというのは、直観的にもっともらしい考えである。ヒトの部族が暮らしている遠い島のことを考えてみよう。比較的受け入れられている種についての考え(生物学的種概念 Mayr, 1942)によると彼らは他の場所に住む人と生殖できるので、その部族に属するヒトはHomo sapiensに属している。ところが、将来その部族と他のヒトの集団の間に生殖的なつながりがない状態が何億年も続いたとしよう。そうすると、もしかしたらその部族と他のヒトが受ける選択圧の違いにより、彼らは他の人間とは異なる進化的軌道を歩み、ついには他の種(species) に進化するかもしれない。しかしながら、直観的には、この「進化」がわれわれのHomo sapiensという地位に影響するようには思われないし、この出来事のあともわれわれは以前と同じ種にとどまっているように思える。この思考実験が示唆するのは、系統的な分岐が「幹」種や「幹」タクソンの終焉をいつも意味しているわけではないかもしれない、ということである。タクソンは系統的な分岐を乗り越え同じタクソンであり続けるのかもしれない。

つまり、集団系統樹のかたちから見ると同じもの(1本の枝から2本の枝への枝分かれ)がある時には「種Aから種Bおよび種Cへの種分化」を表していたり別の時には「種Aから種Aおよび種Bへの種分化」を表しているのである。しかし、これが正しいと、集団系統樹のかたちからこの二つの事例を区別することは出来ない。


まとめると、グールドは次の二つのことを同時に信じているように思える。

  1. 種タクソンと高次タクソン(属タクソン)は集団系統樹のかたちから区別できる。
  2. 種は系統樹のかたちだけから定義できない。

しかし、系統樹と単位についての先の考察からわかることは、この二つは両立しないということだ。1.を受け入れるなら、系統樹のかたちから種を定める種概念(たとえば分岐学的種概念(Ridley 1989)を受け入れなくてはならない*2。もし、生物学的種概念を受け入れるなら、種タクソンと高次タクソンは系統樹のかたちだけからは区別できず、前者を客観的、後者を主観的とすることもできない。

もちろん、グールドがこのことを受け入れたとしても、種タクソンと高次タクソンを区別する可能性は残っている。グールドはこのエッセイの別のところで明確に生物学的種概念を受け入れているので(これが彼のいう「機能的種概念」である)、これによって種タクソンと高次タクソンを区別してもよい*3。しかしこのことと、系統樹から両者を区別することとは別の話なのである。

*1:ただしこの例とこれまでの例にはちがいがひとつある。これまでの例では、上位レベルの対象と下位レベルの対象の間には、後者が前者の唯一の要素という関係があった。集団や種は個体からなる。しかし種は遺伝子(DNA)からなるわけではない(細胞中には遺伝子以外のものがある)。緩い言い方を許せば、種や集団は個体の集まりであるが、種は遺伝子の集まりではない。Maddison (1997)はこれを種の系統樹が遺伝子の系統樹を包含する(contain)すると表現し、前者を包含樹(contaning tree)、後者を被包含樹(contained tree)と呼んでいる。

*2:この点は、系統樹のかたちからあるタクソンの本質を定めようとするLaPorteも同じことだと思うが、ここでは触れない。

*3:この場合、グールドは生物学的種概念を受け入れることになる。しかし、もちろん、生物学的種概念を種の正しい定義として受け入れるかは、別の問題である。