まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

『知識の哲学』あら探し

『知識の哲学』を(例によってTAの仕事に関連する部分について)読んだ。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

この本はとてもよい入門書である。が、そのことはもういろいろなところでいわれているので、二点少し気になったところだけを重箱の隅をつつくようにメモする。*1

プラトンと知識の古典的定義

ひとつめ。本書の冒頭で著者は、知識の古典的分析(知識とは正当化された真なる信念である)について、その起源がプラトンにまで遡ることを指摘する。

プラトンは『テアイテトス』という対話編でこれ[古典的分析]に似た定義を検討し、『メノン』という対話編ではその定義を正しいものとして受け入れている。(4頁)


しかし、この書き方だと、「テアイテトス」が「メノン」よりも時期の早い著作のように聞こえる。実際は(定説によれば)「メノン」は初期で「テアイテトス」は中期から後期の著作である。たとえば、

ブリッツアーは『実践倫理の問題系』で人工妊娠中絶が倫理的に許されるかという問題を議論し、『倫理学の世界』で一部の妊娠中絶は倫理的に許容できると論じた。*2


という文では、読者は『実践倫理の問題系』の方が『倫理学の世界』よりも先に執筆・出版されたと考えるのが自然だろう。そういう意味で、著者の書き方は少しミスリーディングだと思う。

知識の因果説と未来についての知識

二番目は、知識の因果説について。知識の因果説として、著者はゴールドマンの1967年の論文を挙げながら、知識の因果説による分析は古典的分析に次の四番目の条件を付け加えるとする。

(4) AさんのPという信念は、世界の中のPという事態が原因となって引き起こされたものである。


そして、知識の因果説の問題点のひとつとして、知識の因果説が未来についての知識をうまく扱えないことを指摘する。

知識の因果説はこのようにある種の知識についてはとても自然なのだが、すべての知識に当てはまるオールマイティの理論とは言えない。[...] また、ごく近い未来についてわれわれは知識を持てるように思われる。たとえば、一〇階建てのビルの屋上から男が飛び降りるのを見た私は、あの人は助からないなと思う。案の定、彼は五分後にその場で亡くなった。このとき、私はその男が死ぬことのがわかっていた(つまり知っていた)と言っていいだろう。しかし、その知識は彼が死んだという事態によって引き起こされたものではない。死んだのは私がその信念を形成してから五分後だったのだから。(63頁)


ところが、著者が挙げている論文におけるゴールドマンの知識の分析は、上のものとは少し異なっている。ゴールドマンの分析は以下のようなものだ。

S knows that p if and only if the fact p is causally connected in an 'appropriate' way with S's believing p.

(Sがpを知っているのは次のときであり、そしてそのときに限る。すなわち、事実pがSがpを信じていることに「適切」な仕方で因果的に結びついている場合。)


ここでの"causal connection"は、二つの出来事がたんに原因-結果の関係にある場合だけでなく、因果関係のネットワークの結節点にある場合も含まれる。つまり、ある信念pが知識であるためには、事実pが信念pの原因である必要はなく、ただ両者が因果関係のネットワークの中に位置づけられる(たとえば、事実pと信念pが、別の事実qの結果である場合)だけでよいのである。ここで問題なのは、ゴールドマンが、(4)の分析を用いない理由として次のように述べていることである。

So far, my examples may have suggested that, if S knows p, the fact that p is a cause of his belief of p. This would clearly be wrong, however. Let us grant that I can know facts about the future. Then, if we required that the known fact cause the knower's belief, we would have to countenance 'backward' cuasation. My analysis, however, does not face this dilemma. The analysis requires that there be a causal connection between p and S's belief, not necessarily that p be a cause of S's belief. p and S's belief of p can also be causally connected in a way that yields knowledge if both p and S's belief of p have a common cause. (Goldman 1967, p. 364)

(ここまで私の例は、もしSがpを知っているなら事実pは彼の信念pの原因であることを示唆してきたかもしれない。しかしこのことは明らかに誤りだろう。未来についての事実を知ることができるとしてみよう。そうすると、もしある知識の対象となった事実が、その知識を持っている人の[その事実についての]信念の原因であることが求められるとすると、「逆向き」因果を支持せざるを得なくなるだろう。しかし、私の分析はこのジレンマには直面しない。この分析が求めるのは、pとSの信念pの間には因果的結びつきがなくてはならないということであって、pがSの信念の原因でなくてはならない、ということでは必ずしもない。pとSの信念pは、以下のような仕方で因果的に結びついていてもよいのである。つまり、pとSの信念pが共通原因をもつなら、知識をもたらされる、というようなような仕方で因果的に結びついていてもよいのである。)


すなわち彼は、(4)では未来についての知識が扱えないので、2番目の分析を採用するとしているわけである。

わたしは、ある論者の分析を単純化して紹介すること自体は必ずしも問題ではないと思う。しかし、ここでは、ゴールドマンのもともとの分析を単純化して、その単純化によって生じた問題点をゴールドマンに帰しているようにみえる。これは、ちょっとミスリーディングであるし、ゴールドマンにとってフェアではない、と思う。

*1:私のもっている本は2004年発行なので、ここで書くことはあとの版で訂正されているかもしれません。

*2:人名・書名は架空のものです。