「もっともよい種概念は何か」と問う誤り
種問題について思いついたことがあるのでメモ。
種問題を表す一つの仕方は「種はどういう自然種(natural kind)か」というものである。そしてご存じの通り、20以上の種概念が提起されている訳である。たとえば、John Wilkinsのまとめによると、現在提起されている種概念のごく一部は以下のようなものだ。
- 分岐学的種概念
- 生物学的種概念
- 進化的種概念
- 生態的種概念
- 結合的種概念
- 系統学的種概念(いくつかヴァージョンがある)
- 形態学的種概念
- 表形学的種概念
- 認知的種概念
- 遺伝子型クラスター種概念(genotypic cluster species concept)
- 間結節点種概念(internodal species concept)
で、こうした状況において一見自然に見える問いは「ではこのなかでどの種概念が最も優れているか」というものだ。たとえば、R. Maydenは
Species (The Systematics Association Special Volume Series)
- 作者: M.F. Claridge,A.H. Dawah,M.R. Wilson
- 出版社/メーカー: Springer
- 発売日: 1997/03/31
- メディア: ハードカバー
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
しかし、わたしはこれは種問題の解決にぜんぜん役立たない、正しくない問いであると思う。
というのは、これもよく知られているように、生物学の中では「種」という概念が用いられる文脈には様々なものがあり、それらの文脈は一般に相容れないものだと思われているからである。たとえば、生物学的種概念(BSC)を分岐学の枠組みの中に位置づけようとする試みは、基本的にうまくいっていない。一つの理由は、BSCのもとで区切られるような生物の集団はしばしば単系統ではなく、分岐学の元では単系統でない集団は分類体系の中に位置づけられないからである。したがって、分岐学はBSCをそのまま採用することはできない。
もしこのことが正しいならば、たとえある基準の集合のもとで最も優れている種概念であっても、それが適用できない文脈が生物学の中にあることは十分可能性のあることである。もしある文脈Aのもとでその種概念が適用できないものであるならば、そこではその種概念は使い物にならない、つまり使用するべきではないことになる。これは、何らかの基準でもって選ばれた「最も優れた包丁」を明らかにその包丁が適していない用途に使うようなものである。かりに十徳包丁が最も優れた包丁だということになったとしても、そのことから「肉の骨を切断するときにも十徳包丁を使うべし」ということが導き出されるわけではない。その用途には別によい包丁があるかもしれない。
様々な基準の下でどの種概念が一番高い点数をとるか決め、その合計で「最も優れた種概念」をきめることは、羽生善治・カスパロフ・張栩を集めて、頭脳スポーツの中で誰が総合的に一番強いかを決めようとするようなものである。たとえば、これら三人の各競技における強さが以下のように表せるとしよう。
名前 | 将棋 | チェス | 囲碁 | 合計 |
---|---|---|---|---|
羽生 | 10 | 4 | 2 | 16 |
カスパロフ | 3 | 10 | 1 | 14 |
張 | 1 | 0 | 10 | 11 |
(その競技で強い方が点数が高い)
たとえば、羽生は将棋ではすごく強いし、チェスでは(カスパロフほどではないけれども)かなり強い。しかし囲碁はそれほど強くはない。カスパロフは囲碁はほとんど知らないだろうが、チェスは強いし、将棋も指せるかもしれない、等々。しかし、点数がこうなったからといって、「羽生善治・カスパロフ・張栩のなかでは羽生が最強である」と結論しても、これに暇つぶし以上の意味があるのかわからない。羽生が「最強」でも、やっぱりカスパロフにはチェスではかなわないのであり、張栩に囲碁で勝てるわけはないのである。
Maydenの試みも同じことだ。彼も上の比較と同じように、様々な基準を総合してもっとも点数の高い種概念を「最も優れたもの」として選ぶわけだが、結局のところそれがなにをはかっているかはっきりしないからである。エリオット・ソーバーは、
Philosophy Of Biology (Dimensions of Philosophy Series)
- 作者: Elliott Sober
- 出版社/メーカー: Perseus
- 発売日: 2000/01/12
- メディア: ペーパーバック
- クリック: 19回
- この商品を含むブログ (16件) を見る
表形主義の教理のための第三の議論は、全体的類似度による分類は「あらゆる目的に適う分類」を生み出す、というものである。表形主義者は、分岐学や進化分類学が特別に進化的な文脈では役に立つかもしれないことを認める。しかし、彼らの主張では、分類はより一般的な用途に資するよう目指すことができるし、また目指さなくてはいけないのである。ある分類の価値を特定の目的を十分正確に記した上で評価することは、明らかに筋が通っている。しかし「あらゆる目的に適う分類」について語るということは、ある分類の価値を考えられるあらゆる目的にてらして述べるということである。このような多様な目的の集まりについてどのように理解したらよいのか、全く明らかではない。また、一つの分類は考えられる目的のそれぞれについて長所と欠点を持っているが、そこからその分類の全体的な価値をどのようにしてまとめればよいのか、全く明らかではない。木を切るのにはのこぎりの方がハンマーよりよいし、釘を打つのにはハンマーの方がのこぎりよりよい。しかし、のこぎりとハンマーを「あらゆる目的に適う道具」としてどう比較すればよいのだろうか? もっと説明があるまでは「あらゆる目的に適う分類」というアイデアは不明瞭なものとして無視しなくてはいけない。(下線は引用者による)
したがって「最も優れた種概念はどれか」という問いは種概念の解決について重要な問いではない。そうではなくて、「ある目的・用途に対して十分よい(good enough)------あるいはもっともよい------種概念はどれか」という問いの方が重要である。というのは、もしある種概念がある目的に対してじゅうぶんよいものでなかったら、その種概念をその用途に対して使うことの正当化はできないからだ。こうした問いは、たとえばお笑い芸人のオーディションににている。お笑いのオーディションならば、何のために選ぶか(売れるお笑い芸人を捜す)ということがはっきりしているからであり、それに対して優れていれば(お笑いの能力が高ければ)別の能力(歌手としての能力、暗算能力など)が低くても問題ないからである。
Mar. 22 少し文章を直しました。
*1:わたしは彼らの論拠------パターン種概念が最も優れているという論拠------はおかしいと思うが、それは別の話。