まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

説明からの反実在論

日本の生物学者の間である程度受け入れられていると思われる種の反実在論に、以下のようなものがある。

[H1]
P1) 種という概念は進化生物学の説明において必要ではない。
C) したがって、種は実在しない。

ここで、P1とはどういう主張だろうか? これは「進化生物学の説明において、種は説明項として必要ではない」ということである。もちろん、見かけ上<種>という概念に言及している場合もある。たとえば、

(a) 種Aと種Bは別種なので、生息地を共有していても、ひとつの系譜とはならない

という説明について考える。こうした説明は種に言及しているように見えるが、実際のところそうではない。なぜなら、ここでの「種」という語はたとえば「集団」とか「生殖隔離された集団」に置き換えが可能であり(もちろんどの置き換えが可能かは文脈による。ここではBSCを奉じるような研究者が上の説明を行ったと考えてほしい)、置き換えによって説明力が損なわれるとは思われないからである。実際、

(a') 集団Aと集団Bは別の生殖隔離された集団(つまり互いに生殖隔離された集団)なので、生息地を共有していても、ひとつの系譜とはならない

としても、集団生物学的には内容はそっくり保存されているように見える。つまり、すなわちP1)は

「種」が出てくる説明において、「種」という言葉はもっと基本的なレベルの存在者を指す言葉に置き換えることができて、しかもその置き換えによって当の説明の説明力は損なわれない

ことを意味しているように見えるのである。

したがってH1は以下のように書き換えられる。

P1) 進化生物学の説明において、種という概念は説明項として必要ではない。
C) したがって、種は実在しない。

しかしこれは厳密には妥当な(valid)議論ではない。validな議論では、結論に現れる語はすべて、いずれかの前提にすでに現れていなくてはならないからである。P1)とC)をつなぐものが必要なのである。

これについては、この議論を支持する人は以下のP2)のような前提をたてていると思われる。

[H2]
P1) 進化生物学の説明において、種という概念は説明項として必要ではない。
P2) いかなる学問領域Rおよびいかなる概念Cについて、Rの説明においてCが説明項として必要でないならば、RにおいてCの指示対象は実在しない。
C) したがって、進化生物学において種は実在しない。

この推論は妥当である。つまりP1)およびP2)が真ならば、C)も真であるはずである。ところが、この形式の議論は別の対象にも適用できる。たとえば、化学における金について考えてみよう。金は周知のように原子番号79の物質である。そして、原子番号79の物質であることが金が持つ様々な性質を説明するとされる。つまり、たとえば

(b) この物質は金だから、これこれの堅さを持つ

という説明は、じっさいのところ

(b') この物質の原子番号は79だから、これこれの堅さを持つ

というように書き換えられて、それでもともとの説明力を失うことがない。したがって、もし上で(a)について「種」について述べた事情といま「金」について述べた事情が同じならば、われわれは次のことを言えるだろう。

G1) 化学の説明において、金という概念は説明項として必要ではない。

するとこれをP2)とくみあわせると、次のような議論になる。

G1) 化学の説明において、金という概念は説明項として必要ではない。
P2) いかなる学問領域Rおよびいかなる概念Cについて、Rの説明においてCが説明項として必要でないならば、RにおいてCの指示対象は実在しない。
C) したがって、化学において金は実在しない。

したがって、もしこのやり方で種の反実在論を導くなら、同じやり方で金の反実在論を導くことができるし、同じやり方は、水にも適用できる。したがって、もし種が実在しないなら、水も実在しない! しかし、これはかなり受け入れにくい立場だろう。とくにH2Oは実在しているのだから! いや、H2Oも、もっと下位のレベルの説明項に置き換えられるのかもしれないから、そうした置き換えがきかないレベルで措定されているものだけが実在することになる。したがって、私が今見ているもの------マグ・御茶・コンピュータ、など------のほとんどは化学的・物理学的に実在しないことになる。しかし、マグやお茶ならいざ知らず、化学的に見て金や水が存在しないとか、H2Oが存在しない、というのはちょっと受け入れがたい帰結ではないだろうか。すると上の議論を再構成したもの[H2]はどこかおかしい、ということになる。

もっと深刻な点は、もしこの議論が正しければ、おなじ対象が指示の仕方によって存在したり存在しなかったりすることである。たとえば、上の議論が正しければ、「金」の指示対象は実在しないが、「原子番号79の物質」の指示対象は実在する、ということになる。ところが、「金」と「原子番号79の物質」は同じ対象を指示するから、同じ対象が指示の仕方によって実在したりしなかったりすることになる。これは「スーパーマン」「クラーク・ケント」が同じ対象を指示するのにもかかわらず一方しか実在しないとするようなものである。

この議論がうまくいかないかもしれないという疑念は、もうひとつの点からも示唆することができる。なぜ種を定義しようとする試みはこれほど紛糾するのだろうか? 言うまでもない。あらゆる(あるいは十分ほとんどの数の)種にまつわる現象を説明し、種が生物学の中で果たすとされる役割をすべて担うような統一的なモデル/理論/仮説が今のところないからである。しかし、この議論の成功・失敗に対してそうした事柄が事実であるかどうかは全く関係ない。もし地球上の生物の振る舞いが生物学的種概念の想定とぴったり一致していたとしても、この議論を立てることは可能なのである。これは、この議論に何か重要なものがかけていることを示していると思う。