まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

三中信宏「生物の樹・科学の樹」感想

三中信宏さんの連載「生物の樹・科学の樹」に感想を書きましたので、どうぞご覧ください。

(三中さんからのご返答はこちらをどうぞ。なお、このエントリと三中さんの返答で微妙に時間が前後していますが、それはわたしがこのエントリをアップする前に三中さんに直接原稿をお送りしたためです。またこのエントリでは三中さんにお送りした原稿からあまりに細かい論点は割愛しています)

はじめに

かつてナインティナイン岡村隆史は、明石家さんまのことを「お笑い怪獣」と呼んだことがある。疲れを知らないかのようにしゃべり続け、あらゆるものをお笑いのネタへと変えていくその生態は、怪獣と呼ばれるにふさわしいと感心した。その伝でいけば、学問の世界にもたくさんの「怪獣」がいることに気づかされるだろう―――進化生物学怪獣、科学史怪獣、哲学怪獣などである。その中で三中信宏さんのことを、わたしは、大変失礼ながら「系統学怪獣」だと思っている。その博識と論理の鋭さで自らの敵をばったばったとなぎ倒していく様は、まさしく怪獣である。この連載「生物の樹・科学の樹」*1は、その三中さんが、自らの博覧強記を用いて、分類学という少し変わった、しかしとても興味深い科学の世界を、分類学を専門としない一般の人にもわかりやすいように述べたエッセイである。ここで三中さんは、前著『生物体系学』や『系統樹思考の世界』でかいま見せた、書物の宇宙に踊るエッセイストとしての力量を存分に披露した。前に鶴見俊輔が、翻訳者は翻訳を通して一差し舞わなくてはいけないという意味のことを述べたことがあったと記憶するが、それを借りると、わたしをふくむ読者は、この連載を通じて、三中さんが一月一回の舞台で一差し見事に舞う姿を堪能してきた。

この稿の目的

しかし、この連載にはもう一つの側面がある。それは三中さんがこの連載を通じて提示した分類(学)についての議論である。そして、わたしがこの感想を書く動機となったのは、この連載を読んだときに、三中さんがこの議論の点において、以前よりも思い切りがかけているようにも思えたことによる。以前ならば、自らのアイデアの論理に従い、もっと踏み込んで自説を述べていたと思われる箇所でも、なんだか躊躇しているように見えるところがあったのである。したがって、この感想では、連載の中で断片的に述べられていた三中さんのモチーフをわたしなりに整理・再構成しつつ、予定されている単行本化の際に、もっと踏み込んだ論考になるための触媒となることを目指した。それゆえ、この感想は三中さんの主張に対する批判を旨とするものではない。実際のところ、三中さんの主張の多くにはわたしは賛成なのである(例えば、わたしは種カテゴリーはおそらく実在しないと思っているし、三中さんが連載の柱に据える分類行為に関する認知心理学的研究を、非常に重要なものだと考えてきた)。

もちろん、この連載は論文ではないので、三中さんの議論について考える以外にも、いろいろな感想の書き方があるだろう。三中さんの博覧強記ぶりを堪能し、その文章の舞を味わうのも一つのあり方だと思う。しかし、わたしのような知識の足らないものには、三中さんの芸術に関する博覧強記にとても追いつくことはできないし、三中さんの文章を通じた舞に口を挟むこともできない。わたしにできるのは分類についての三中さんの考えを自分なりにまとめ、筋をつなぎ合わせ、どうしてもつながらないところを指摘するだけである。むろん、無粋で乱暴なやり方である。しかし、これが今のところのわたしができることのすべてだと思う。

連載から読み取れる限りの三中さんの基本的な考えは、わたしなりにまとめると、以下の五つである。

  1. 種問題(種の本性 nature は何か、という問題)が「問題」になるのは、次の二つの条件が成り立っているからである: (i)生物界は連続的であり、離散的な単位からなっているわけではない (ii)にもかかわらず、ヒトの心には、対象を離散的な構成単位にわけて理解していこうとする心の傾向としての〈心理的本質主義〉が生得的に備わっており、生物界理解の様式としてヒトは本質主義から逃れることはできない。
  2. 心理的本質主義がヒト(人類全体、科学者集団全体、あるいは個々の科学者も)はそれから逃れることはできないものならば、そしてそれが種問題の原因の一つならば、種は、その本性を理解するべきものとして、ヒトにとって(人類全体、科学者集団全体、あるいは個々の科学者にとって)問題であり続ける。ヒトが種の本性についてノンシャランな態度をとることはできない。ヒトは種問題からは逃れられない。むしろ、何らかの形で共存していくことが必要である。
  3. 種問題の解決のためには、存在の学としての形而上学が必要である。この場合の「形而上学」は、存在論、もっと具体的に言うと生物界において何が存在し何が存在しないかについての大きな枠組みのことである。そしてそれは狭い意味での生物学の枠内をこえる。つまり、通常の生物学の営みでは、種問題を解決することができない。
  4. この存在論として、三中さんは、生命の樹は存在するが、種は存在しない(タクソン・カテゴリーともに)という立場をとっている。
  5. (1)-(i)および(4)にもかかわらず、分類学は有益な営みである。分類学は徹頭徹尾〈実学〉(少なくとも、生物に名を名付け、記憶の役に立つという意味で)であり、したがって古い分類学を遂行することに根本的な問題はない。ただそれが、知らず知らずのうちに存在論に関わるときに、問題が生じるのである。

これら五つのポイントについては、いくつか疑問があるが、今回は特に(2)について考え、そののちにもう少し細かい論点の中で、この連載では掘り下げられていないところを指摘する。そして最後に議論とは関係ないところで気になった点についてコメントを与える。

心理的本質主義

心理的本質主義とは

上の(2)で述べたように、三中さんは、心理的本質主義が、ヒトが種問題に悩む原因の一つであり、それから逃れられないことから、ヒトは種問題と共存する―――種問題を解決するのではなくて―――ことを目指すべきだ、と考えている。では心理的本質主義とは何だろうか。三中さんは心理的本質主義を、ヒラリー・コーンブリス(Kornblith 1993)からの次のような引用によって、紹介している。

...われわれの先天的性向は、現象世界の中には観察されえない属性により定義される自然種が存在すると仮定している。自然種には、たとえ観察不能であっても本質があるとわれわれは見なす。したがって、われわれはいついかなるときでも観察された特徴によって対象を分類しているわけではない。(三中訳、VII *2 )

この心理的本質主義は生物界だけでなく、物理世界や化学世界にも適用される。しかし、この心理的本質主義が生物界に適用されるとき、主たる対象が種(タクサ・カテゴリーともに)であることは論を待たないであろう。それぞれの種の背後にはそれをその種たらしめている「何か」がある(今なら、たとえば特定のDNAの配列)という考え方は、一般の人にとっては自然な考え方だろう。また、種の定義の尽きせぬ探究の背後にも、この考え方があるといってよい。したがって、心理的本質主義が種問題の背後にある仮定(少なくとも種カテゴリーについては)だということは認めてもよいと思う。

では、心理的本質主義の生得性についてはどうだろうか。三中さんは心理的本質主義が(a)生得的であることを認めている(VIII)。たとえば、上のコーンブリスの引用の「先天的性向」(VII)は"innately disposed"を訳したものであるし、また「心理的本質主義という生得的傾向」(VIII)とも述べている。

さらに、三中さんは心理的本質主義について、生得性よりも強いテーゼをも支持している。つまり、(b)心理的本質主義は、人間の心理の背後でつねに働いていて、私たちが意識的にそれから逃れることはできない、というテーゼだ。例えば、三中さんは「対象物をグルーピングするときに、分類者たる私たちが無意識のうちにつねに発動する心理的本質主義」(VIII)、「しかし、現代のサイエンスがどのような新しい世界観を私たちに示そうが、私たちにもともと深く染みついているものの見方までかき消すことはできない」(VII)と述べている。つまり、心理的本質主義は、一面では、意識的な思考の背景で働き、それを規定するような思考の傾向なのである(もちろん意識的にそれを採用することもある)。

しかし、あるものが(a)生得的であることと、(b)それが人間の心の中でつねに働いていて、それから逃れられないということとは違う。例えば、たとえある信念(「地球が平らだ」とか「人を殺してはいけない」とか)が生得的だったとしても、だからといってその信念は廃棄できないだろうというわけではない。

心理的本質主義の拘束力------民俗物理学およびKahneman&Tverskyの研究との比較から

わたしは、心理的本質主義は生得的かもしれないと思っているが(もちろん、「生得的」の意味や心理的本質主義のうちどの内容を生得的と考えるかなど、いろいろ問題があるが、それはさておき)、それから逃れられないとは必ずしも思っていない。なぜか。我々は科学的思考法と相容れないような思考の傾向から(誰でも、というわけではないかもしれないが)しかるべき訓練を積めば逃れることができるように見えるからである。

リンダ問題の例をとろう(たとえばStein 1997を参照)。これはこういう問題である。

リンダは31歳、独身で、意見を率直に言い、また非常に聡明です。彼女は哲学を専攻していました。学生時代、彼女は差別や社会正義の問題に深く関心を持ち、反核デモにも参加していました。彼女についてもっともありそうな選択肢をチェックしてください。

(ア) リンダは銀行の出納係である。
(イ) リンダは銀行の出納係であり、フェミニスト運動の活動家である。

こうすると、多くの人は(イ)の方がよりありそうだと考える。しかしこれは誤りである。というのは確率論からいうと、(イ)が正しいときは(ア)もつねに正しいが、(ア)が正しいときでも(イ)が正しいとは限らないからである。

しかしここでのポイントは、多くの人が誤った答え(確率の法則に反する答え)を選ぶことではない。そうではなくて、最初は間違った答えを出したとしても、だんだんと学習して正しい答えにたどり着けるようになることである。正直に告白するが、わたしも最初にこの問題を読んだときは見事に引っかかった。しかし、確率論からの説明を教えてもらった今は正解を答えることができるし、これは同じように誤答した人の多くに当てはまることだろう。代表性バイアスが生得的であるかどうかはわたしは知識がないが、多くの人が科学的思考法を習う前から持っている思考の傾向という点では心理的本質主義と似ている。しかし、きちんとした教育を施せばこのバイアスから(完全ではないかもしれないが)逃れることができる。

あるいは素朴物理学(民俗物理学)。これも物理的世界についての前理論的思考法であり、現在の物理学からすると誤っていることが多いわけだが、あらゆる人がそれから逃れられないというわけでもない。当然ながら、物理学者は素朴物理学の誤った部分を訂正した信念を持っているだろう。

では、なぜ同じことが心理的本質主義について起こらないといえるのだろうか。きちんとした教育を素質のある人に施せば、少なくとも彼らについては心理的本質主義から逃れられるのではないか。三中さんは(a)と(b)を同時に主張しているが、(a)に問題がなくても(b)には問題があるかもしれない。その点についてフォローが必要なのではないだろうか。

掘り下げ可能な論点

ここでは、三中さんの議論の本筋からは少し離れるが、議論の前提となっている論点や議論から帰結点の中で、さらに議論が可能な点を指摘したい。

本質主義は進化を許容しない?

一つ目は、本質主義と進化の関係についてである。三中さんはダーウィン的な進化論に基づく世界観は、本質主義の世界観と相容れないと主張する。

この世界が離散的な自然種から構成されているという本質主義的な世界観は、対象物間に由来によるつながりがあり相互に移行すると見なす進化的世界観とは両立しない。本質を共有する自然類は互いに切り離された離散的な類であり、それらの間を移行するということ自体が原理的にありえないことだからである。(VII)

しかし、この見方は、エリオット・ソーバーがいうように、正しくないように思われる。彼はこう述べている(Sober 2000、

Philosophy Of Biology (Dimensions of Philosophy Series)

Philosophy Of Biology (Dimensions of Philosophy Series)

拙訳)。

さてここで、進化論は種についての見方としての本質主義を論駁するという考えを検討できる。... ひとつの議論は以下のようなものである。


1. 自然種は変化しない。
2. 種は進化する。
3. したがって、種は自然種ではない。


最初の前提はどういうことだろうか。これは自然種のメンバーは変化するかもしれないが、その自然種自体はけして変化しない本性(本質)を持っているということである。わたしの[金でできた]結婚指輪は様々な仕方で変化してきたが、しかし金の本性は常に同じだったのである。

最初の前提がこのようにはっきりすると、上の議論に欠陥があることがわかる。元素は変性可能である。原子破壊器は鉛(のサンプル)を金(のサンプル)に変性させることができる。しかしこのことが、化学元素が変化しない本質を持つという考えの土台を堀崩すわけではない。同様に、ある種に属する集団が他の種に属する集団を生み出すことがあるということは、種についての本質主義を論駁するわけではない。本質主義者は種を、個々の生物体が占める永続的なカテゴリーと考える。進化は、先祖とその子孫が異なったカテゴリーに属することがあるということを意味するにすぎない。


すなわち、たとえ生物界が離散的な自然種から構成されていたとしても、それに属する具体的な対象は、由来によるつながりを通じて〈異なる自然種の間を移行する〉ことができるのである。むしろ、これもソーバーがいうように、分類群が歴史的存在であるという点から本質主義を批判していった方が、分類群を時空ワームという観点から理解する三中さんの立場(XIII)とも整合的でよいのではないかと思われる。

ウィギンズの本質主義

もう一つ議論を掘り下げる必要がある論点がある。それはウィギンズの本質主義である。ウィギンズの主張が三中さんの考え方に大きな影響を残していることは、この連載でも彼が何度か取り上げられていることだけでなく、前著『系統樹思考の世界』

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

巻末の文献案内で彼の著作Sameness and Substance (1980)
Sameness and Substance

Sameness and Substance

が取り上げられていることでもわかる。しかし、これはよく考えてみると少し奇妙である。というのは、実際のところウィギンズの主張は自然種に基づく本質主義であるから、三中さんの進化に関する議論と真っ向から対立するはずだからである。そして、さらに奇妙なことに、なぜか三中さんはウィギンズについて正面から議論することを避けているようにさえ見えるのである。

この連載では、三中さんは第五回と第七回でウィギンズを取り上げているが、いずれも言及はやや中途半端なものにとどまっている印象が否めない。例えば、第五回では、ウィギンズの「ソータル」概念を取り上げ、人格の同一性問題に対するその帰結を紹介しているが、彼の議論について三中さんがどう考えるのかは明瞭ではない。また第七回ではウィギンズの本質主義を論じているが、形而上学本質主義(ウィギンズの主張はこれ)はヒトがもつ心理的本質主義の現れであることが示唆され、その心理的本質主義に基づいて「ヒトは『種問題』とともに生き続ける」と結論づけられるが、形而上学本質主義については述べられていない。

しかし、ウィギンズの主張は存在論的主張であり、また三中さんの種の実在についての主張も存在論的主張であるから、両者が対立するなら、少なくともどちらかがそのままの形で正しいことはない。三中さんの主張が正しいか、ウィギンズの主張が正しいか、それとも両者とも正しくないか。もし三中さんが自分の主張を通すなら、ウィギンズに沿った形で彼の主張の批判をしなくてはいけないはずなのに、今見たようになぜか彼への言及は中途半端なものにとどまっている。

経験的に妥当でない仮説と唯名論

最後の掘り下げ可能な論点として、存在の意味がある。三中さんは第四回で、妖怪と種ではそれが「存在する」というときの意味が異なるかもしれないので、「Xが存在する」というときの意味をはっきりさせることが大切と述べている。

ここで考えなければならないのは、私たちが「ある」と判定した対象(それは「種」であったり「妖怪」だったりする)がいったいいかなる意味で「ある」のかということだ。(IV)

三中さんはここから分類学におけるカテゴリーとタクソンの区別や、エーコの言語と存在の関係についての議論について述べる。しかし、妖怪と種が「ある」あるいは「存在する」と言われるときどういう違いがあるのか、というもともとの問いについては、説明が与えられていない。

私の考えでは、二つの対象が「存在する」というときの意味は、それが「存在しない」といわれるときの意味の比較から考えるとわかりやすい。妖怪が存在しないといえるのは、「妖怪が存在する」というのが経験的に妥当でない仮説だからである。妖怪の存在を措定するような自然科学的研究は、経験的に成功したパラダイム/進歩的なリサーチプログラム・研究伝統ではない。それが妖怪が存在しないといえる理由である。

それに対して、種が存在しないとすると、それは唯名論が正しいからである。種と種でないものとの区別はたかだか規約に基づく(conventional)ものでしかないからである。"There is something such that it is a species"(ex. Homo sapiens)というのは正しいかもしれないが、自然的な事実ではない。「唯名論の対象は分類である。唯名論が述べるのは、我々が草とわらを区別し、葉と肉を区別するのは、我々の思考のあり方だけによる、ということである」(Hacking 1983)。これは「福田康夫は2008年8月現在、日本国の首相である」は正しいが、自然に基づく事実ではないのと同様である。これは妖怪については正しくない。「xは妖怪である」というのは、この世界に存在するどの対象についても------自然的な事実としても、また規約に基づくものとしても------正しくない。

A few Quibbles

以下は三中さんの主たる議論とは関係ない点について、重箱の隅をつつくものである。

学校の同一性は同窓会によって保証されているか

三中さんは連載第五回で、学校の同一性が同窓会によって保証されていると考えている。

捨てられた学校は、おそらく何十年もの長きにわたって連綿と続いてきたであろう「系譜」を何らかの理由で断ち切られてしまった。...[しかし]学校としての同一性が消え去るわけでは決してない。それは、同窓会という組織が永続的に「学校同一性」を維持する社会的システムとして機能しているからにほかならない。(V)

しかし、ここで三中さんが何を言おうとしているのか、必ずしも明らかではない。哲学においては多くの場合、同一性の問題は、時間をまたいだ対象がもつ同一性についての議論である。例えば、今日の私と明日の私は本当に同一の人格か、すなわち昨日の私と今日の私は一つの時間的に連続した対象を形作るのか、といった問いが議論の対象になる。このとき、今日の私は今日の時点で存在することが前提とされている。これに対して、三中さんが論じている廃校になった学校のケースでは、すでに当の学校(**中学校)は廃校になっており、現時点では存在しない。だとすると、三中さんが述べている「同一性」とはこの意味ではないように思われる。

ではここの同一性はどういう意味だろうか。もしかしたらここで三中さんは学校への帰属意識の意味で「学校の同一性」という言葉を用いているのかもしれない。それならば、同窓会がそうした意味での同一性を維持するのに役立つことは、理解できる。しかし、そうなると、この論点がどのように種や人格の同一性の論点(三中さんはこの前でウィギンズについて論じている)と関係してくるのか、明白ではない。

O'Hara と Griffithsのつながり

三中さんはオハラの集団思考系統樹思考の対立がG・C・D・グリフィスの影響を受けていると書いている。

のちに、グリフィスのこの主張は、ハーヴァードの比較動物学博物館にいた鳥類学者ロバート・オハラ(Rober J. O'Hara)により発展させられ、生物体系学において「系統樹思考(tree thinking)」と「分類思考(group thinking)」とを対置させる考えにつながっていくことになる。(XI)


しかし、オハラには系統樹思考と分類思考の対立を主に論じた論文としては以下のものがあるが、

O'Hara RJ: Homonage to Clio, or, toward an historical philosophy for evolutionary biology. Systematic Zoology 37:142-155,1988
O'Hara RJ: Population thinking and tree thinking in systematics. Zoological Scripta 27: 81-88, 1997

いずれもグリフィスに言及していない。もちろん、オハラはグリフィスの主張を知っているのだが(彼のメーリングリストへの投稿4を参照)、グリフィスからの影響を明示的にしているのは、むしろデ・ケロズ(De Queiroz)の方ではないだろうか(たとえばde Queiroz 1986)。


REFERENCES

de Queiroz K: Systematics and the Darwinian revolution. Philosophy of Science 55:238-259, 1986
Kornblith H: Inductive inference and its natural ground. The MIT Press: Massachusetts, 1993
Hacking, I: Representing and Intervening: Introductory Topics in the Philosophy of Natural Science. Cambridge UP, 1983
Sober, E.: Philosophy of Biology, 2nd ed. Boulder: Westview Press, 2000
Stein, E: Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science. Oxford UP, 1996
Wiggins D: Sameness and substance. Oxford: Basil Blackwell, 1980

*1:「本」誌、2007年7月号〜2008年8月号。

*2:以下、ローマ数字は引用元の連載の回数を表す。