まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

「進化論」と「進化学」

進化生物学者の中には「進化論」ということばを嫌って「進化学」を使う人がいる。その理由のひとつとして、こういうものがある。

「進化論」を使うと、「進化論は進化『論』だから、つまり科学ではなく、生物の有り様を説明するための見解のひとつにすぎないのだから、信じるに値しない」という批判が出るからである。

例えば、石川統さんは、次のように述べている。

このところ,生物進化に興味をもち,正確な言葉遣いにこだわる人々が痛感しているのは,進化がもはや「論」ではなく,「学」であることを社会通念として根づかせることの重要性である.すでに言い古されたことだが,生物現象は,進化の光に当てないかぎり1つとして説明のつくものはない.このことを日夜実感している生物学者にとっては,進化が「論」とよばれ,単なる見解であった時代はもはや遠い過去である.欧米のように,今でも想像以上に「創造論」が強く根を張った社会では,いぜんとして,まず「論」として生物進化の正しさを説く啓蒙活動が必要であるのかもしれない.これとは違って,伝統的に創造論自体が存在しない日本社会では,生物進化は事実としてすなおに受け入れられる傾向にある.そのような社会で,あえて「進化論」という言葉を使うのは,起こす必要のない寝た子を無理に起こすようなものであろう.

『科学』1月号巻頭言

しかし、このことを根拠にして「進化論」を使わないようにするのは意味がないとおもう。

まず、批判者には何の根拠もないことを確認しよう。信頼に足るとされている科学理論の中には、「論」のつくものがたくさんある。「相対論」や「集合論」、「量子論」など。こうした三つの「○○論」に共通するのは、「論」が"theory"の翻訳であることである。Theory of relativity, set theory, quantum theory.「マスコミ悪者論」のように、「論」には「意見」「見解」という意味があるが、ここでの意味はそうではないだろう。「量子論」や「集合論」と同じように、「進化論」の「論」は"theory"の翻訳と考えてよいのではないだろうか。そのことを考えると、上の批判は根拠がないし、そのことがすぐにわかる。*1

そうすると、「進化論」を排除することでそれにつきあい、その妥当性を認めるような身振りをする必要はない。もちろん、そうした批判(というか誤解)をする人が非常に多ければ、いらぬ誤解を与えないようにするという意味はあるかもしれない。しかし、そうした人は本当に多いだろうか。また、たとえ誤解する人がいたとしても、上の段落の反論で事足りるのではないか。

さらに、こうしたやり方はあらぬ陰謀説に根拠を与えることになりかねない。わたしがトンデモ進化論を広めようとしているとする。するとわたしはこういうだろう。「進化生物学者は進化論に根拠がないことをうすうすわかっている。だから言葉だけでも自分たちの学説を「科学的」に見せようとしている。それが彼らが「進化学」という言葉を好む理由なのだ!」。

もちろん、「進化学」がいけない、というわけではない。「進化論」を「進化学」に置き換えることはべつに進化論の普及に役に立つわけではないと考えるだけ。

*1:この段落は某さんからの受け売り