まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

ピンクの自由意志

Free Will

Free Will: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

Free Will: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

という本を読んだ。
自由意志の問題についての簡単な入門書。

両立主義・決定論リバタリアニズムからなる基本的な立場や自由意志の問題の重要性の説明(道徳的責任へのimplicationなど、一章)から、中世(二章)からホッブス(四章)に至るまでの議論の歴史、両立主義の議論と反論(三章・四章ほか)、リバタリアニズムへのチャレンジと擁護論(六章以下)など、主要なトピックを広く浅く扱っている。時々出てくる図解が理解を助ける。前に読んだ

Freedom Evolves

Freedom Evolves

は、デネットの饒舌な語りにのって割とすいすい読めるわりにデネットが何をどういう理由で言っているのかつかむのが難しい(そして何かだまされたような気分になる)のだが、それにに比べるときちんと入門書していてよい。

著者はリバタリアンの立場をとり、特に最後の二章に擁護論をあてる。基本的なポイントは、自由についての「自由とは真正の選択を含意する」という直観(「A氏がXする自由がある」ばあい「A氏はXしないかもしれない」は真)をぜっっっっったいに手放さず、そのまま正しいとすることだ。するとたいていの場合両立主義は自由という概念の中身を切りつめて「自由=理性的な選択」とか「自由=欲求の実現が邪魔されないこと」といったように理解しようとするのでダメ、決定論ももちろんダメでめでたくリバタリアンへの道に至る、というわけだ。

しかし決定論を否定するだけでは、正しいリバタリアンにはなれない。非決定論が正しいのなら、頭の中でさいころが回っていてランダム性がわれわれを支配しているのかもしれないからだ。つまりリバタリアンになるには、決定論を否定しつつもわれわれがわれわれの行為をコントロールしていることを主張しなくてはならない。ここでリバタリアンには、世界に因果的な力以外の力はない(自然主義)ことをみとめるか選択が迫られる。もし自然主義を受け入れるなら自由の力は因果ということになる。

著者は自然主義とは妥協しない。自由を因果的な力とする論者は、agent causation(何らかの出来事からではなくてagentによる自由の行使そのものが原因となるという見方)といった概念を受けいれるが、ピンクはそれでは何も説明したことにはならないとする。自由は因果とは異なるもう一つの種類の力である。

しかし、そのことのコストは高い。自然主義を放棄しなくてはならないだけでなく、「われわれがこれこれのことをしようと選択する」という現象は自然科学からは最終的に解明できないものになってしまうからだ。実際、著者はデネットとは異なり自然科学の成果についてまったく言及していない。これはほかの自由意志論者にも当てはまるので彼だけへの批判にはならないが、自然科学の成果を考慮することなしに自由意志について論じるのは両手を縛って碁を打つようなものではないだろうか(ん?)。

たとえば著者は「自分が自分をコントロールしている」という体験を非常に重視しているが、心理学は「自分がXをしたあとにYが起こった」場合、Yが実際にはランダムに起こった場合でもYを自分のXという行為のせいにする非常に強いバイアスがあることを教えてくれる。したがって、そうした体験はそれほど当てにならずましてや自然主義を放棄するほど信頼に値するものか疑わしいかもしれない。

またこれに関係するのは、自然主義の代表がホッブスで、彼を批判することがリバタリアンへの道を開くとされている点である。何で神経科学とかの自然科学の成果を検討しないだろうか。著者は意志決定の背後に欲求が原因として存在していないことを指摘して、両立主義&決定論批判をするのだが、それがもし正しいとしても、意志決定時t_1の脳の状態が以前の脳の状態t_0に因果的に決定されていたとしたら、背後に欲求があろうがなかろうがリバタリアンには依然として都合の悪い状況であることには変わりがないのではないかと思うのだが...。

なお著者はphilosophy bitesで自由意志について語っていて参考になる。