ブラーの反進化心理学
※名前の読み方をなおしました。[Apr. 17]
YOSOプロジェクト(よく知らないままに思いつきを書くプロジェクト)第二弾(第一弾はこちら)。
1月号のScientific Americanはダーウィン特集だが、そのなかでデイヴィッド・ブラーが反進化心理学のエッセイを書いている(日本語訳は「日経サイエンス」4月号)。ブラーは自分の非難したい進化心理学------特にコスミデス・トュービーらのサンタ・バーバラ学派------を"Pop EP"(ポップ進化心理学)とよび、その主張を次の四つのテーゼにまとめて、それを逐一撃破していくという構成を取っている。
- 更新世における適応的問題が心のデザインに手がかりを与える(Analysis of Pleistocene Adaptive Problems Yields Clues to the Mind's Design)
- (以下ブラーのコメントのまとめ)EPは適応的問題を定式化するに当たってジレンマに陥る。つまり(i)正しいと思われるがテストするには曖昧な定式化か、(ii)テスト可能なほど細部がはっきりしているがspeculativeな定式化しかできない。
- 現存する狩猟採集民の生活様式は集団ごとに大きく異なっている。
- ヒトにだけ備わった形質がなぜ進化したかわれわれは知っている、あるいは発見することができる(We Know, or Can Discover, Why Distinctively Human Traits Evolved)
- 「近代人には石器時代の心が宿っている」(“Our Modern Skulls House a Stone Age Mind”)
- 心理学的データはポップ進化心理学に明らかな証拠を与えている。(The Psychological Data Provide Clear Evidence for Pop EP)
- EPの仮説はしばしば有効な代替仮説を検討していない。バスの嫉妬における性差についての仮説を考えると、嫉妬の対象に関する性差には文化間(アメリカとドイツ)で差異が見られる------女性のパートナーの愛情に関する裏切りよりも性的な裏切りに嫉妬すると答えるドイツ人男性は25%にすぎない。
これに対していろいろ考えてみたがまとまらないので、箇条書きで。
- わたしは基本的にはEPは研究プログラムであり研究プログラムとして生産的な否かを評価しないといけないとおもう(少なくとも、そうしないと進化心理学者自身に響かない)。いろいろ問題があろうと、新しい問題と解決が得られている限り、研究プログラムが停止する可能性はすくない。
- こうした意味でEPにとって一番厳しい批判は4番目。もしこうした批判がEPの成果とされているもの(例:裏切り者検知仮説)に積み重なっていったとすると、EPが新しい成果を生み出しているか、という研究プログラムの生産性に大きな傷が付くことになる。
- EPに頻繁に投げかけられる批判は「これこれの証拠は手に入らない」というものだが(例:1.の2番目の項)、こうした入手可能な証拠の制限は研究プログラムの限界に関わるが、必ずしも研究プログラムの生産性に関係するものではない。つまり、証拠による裏付けがとれない事柄がいろいろあったとしても、わかる範囲で研究を進めていくことができるかもしれない。
- ブラーは、被験者にアンケートをとるタイプの研究を「紙と鉛筆」による研究としてバカにしている嫌いがあるが、こうした研究方法をとるのは別にEPに限ったことではない。また、そうした侮蔑はブーメランになる可能性がある。例えば、最後のドイツ人の嫉妬感情に関する事柄はまさに「紙と鉛筆」によってわかったものではないだろうか。
- 一つややこしいのは進化心理学者自身が、自分たちのプログラムを進めていく上で必要な程度よりも大きな風呂敷を広げていることがあるように思われる点。例えばEPはヒトの心理的メカニズムはすべて更新世に進化したと主張すると解されることがあるが、この解釈が正しいとすると、なぜEPがそうした主張をしなくてはいけないのか、よくわからない。ヒトの心のメカニズムの中で選択によって進化してきたものを解明する、というプログラムを遂行するのにそうした制限を付ける必要があるのか。心理的メカニズムのうちいくつかが更新世に進化したというだけでよいのではないか。また、EPは心理的メカニズムの普遍性を主張するが、わたしにはなぜこんな主張をしなくてはいけないのかわからない。ヒトの進化として挙げられる形質の中には人類普遍的でないものがたくさんある(例:鎌形赤血球貧血症)。これと同じことが心理的メカニズムに生じたと考えることを妨げるものがあるのだろうか。