まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

安心社会から信頼社会へ

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

を読んだ。著者は自身の心理学実験から日本社会と欧米社会を「安心社会」と「信頼社会」とそれぞれ規定し、その上で日本社会は現在、終身雇用制度の崩壊などを通じて安心社会から信頼社会への移行段階にあり、それが多くの日本人が社会や政府に対して「安心」を失い不安になっている原因だとする。

本書の論点は主に二つある。一つ目は、日本人の「集団主義」は小さなサークルを作ることで社会的やりとりをその中に限定し、それによって不確実性を下げて、各主体の利益を高めようとする意図の表れであるのに対し、欧米社会は見ず知らずの人を信頼することで新たな他者との関係を生み出す可能性を向させる社会であるという主張だ。これは著者の心理学実験からの発見で、独創的かつ説得力がある。この点はウェブ上の批評で十分に指摘されている。しかし、この本のもう一つのポイントは重要なところで証拠から許される以上の主張になってしまっているように見える。この点についてわたしの知る限りウェブ上には議論が見られないので、ここではそれについて述べる。

その第二の主張は、日本社会がいま「安心社会」から「信頼社会」への移行段階にあり、それが日本人が多くの事柄に「不安」を抱いている理由だ、というものだ。上で述べたように、第一の主張については裏付けとなる実験結果がある。しかし、この第二の主張については、著者は実験的証拠を挙げていない。著者が挙げるほぼ唯一の証拠は終身雇用の崩壊であるが、これは上のsweepingな主張を支えるには弱い。

終身雇用制の崩壊に基づく著者の説明は次のようなものだ。すなわち、従来の社会では、日本人は、終身雇用制度によって小さなサークルに閉じこもり、サークルの中の人だけとやりとりをすることで、社会における不確実性を減らしてきた(これが「安心社会」)。しかし90年代あたりからそれが崩壊することで、そうしたやり方ができなくなってきた、というものだ。図式的にいうと、

(a)終身雇用制度の崩壊 --> (b)小さなサークルの崩壊(「安心社会」の崩壊) --> (c)「不安」を感じる

という感じだ。しかしこれは結局のところ一つのシナリオであり、上に描かれた二つの因果関係が本当に起こっていることなのか確かめる必要がある。とくにこの主張はかなり大きな主張であり、シナリオを提出するだけでは十分な証拠とはならないように思える。にもかかわらず、著者はこの図式を支える積極的な実験的証拠を示していない。例えば、もしそうした移行が生じているのなら、若い人のほうが見ず知らずの他人を信用する傾向が強い(あるいは年ごとにそうした傾向が強まっている)といった予測が成り立つ。また、終身雇用でない職場に勤めている人のほうが一般的な信頼の傾向性がつよいとか、著者のシナリオからはいくつか予測を立てることができる。もし著者がそれを確かめるような実験結果を示していれば、上のシナリオはもっとずっと信用性が高まるだろう。

さらに(c)に挙げられている「不安」の中身も問題である。著者は「不安」の対象として社会・経済に見られる「日本型システム」と一括して述べている(7頁)。金融機関、雇用、政府の能力、教育問題、殺人や凶悪犯罪に対する不安である。しかしこうしたことへの不安は「安心社会→信頼社会」の移行期にのみ起こるものではないだろう。本書の初版は1999年の刊行だが、こうした事柄に対する「不安」は不況下では別にめずらしくないことではないだろうか。

ただ、著者はヒトの行動は状況に左右されることを強調している(45頁)ので、このことが正しければ(そして著者のモデルが正しければ)、上の因果図式をたてることには理由がないわけではない。しかし日本社会が現在移行段階にあるという主張は、非常に大きな主張であり、著者が第一の主張をたてる際に見せる慎重さからすれば、この点のうかつさは奇異にすら映る。

また、著者は、日本人は個人主義的であることを示唆している(37頁)が、この「個人主義」は個人の利益を最大化することを目指すという意味での個人主義とは異なる。例えば、上の意味で個人主義的なら、相互協力が必要な局面では協力関係を作り出すための行為をするはずだが、第五章での研究から見られるように「安心関係」に安住しがちな人は、その点では積極的ではない。また、著者が「日本人は個人主義的だ」と示唆すると考えるもともとの実験においても、個人主義的な行動をとることは自己の利益に結びつかないオプションである。この意味で、<日本人の個人主義>は主体の利益を最大化することを目指すような個人主義とは同じではないのだが、著者はそこのところをうまく特徴付けできていない。

まあ、日本社会が移行期にあるというのはある種の「釣り」の主張なのかもしれないので、つられたクマーということかもしれないが...。