まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

分類思考の世界

分類思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

を著者の三中さんよりいただく。ありがとうございました。

さて本書は雑誌『本』の連載に基づいており、この連載については一度感想を書いている。本書はその連載にかなりの加筆がされているが、三中さんの議論の本筋はあまり変わっていない。すなわち、この本の主な主張は、以下の五点にまとめられる。

  1. 種問題(種の本性 nature は何か、という問題)が「問題」になるのは、次の二つの条件が成り立っているからである: (i)生物界は連続的であり、離散的な単位からなっているわけではない (ii)にもかかわらず、ヒトの心には、対象を離散的な構成単位にわけて理解していこうとする心の傾向としての〈心理的本質主義〉が生得的に備わっており、生物界理解の様式としてヒトは本質主義から逃れることはできない。
  2. 心理的本質主義がヒト(人類全体、科学者集団全体、あるいは個々の科学者も)はそれから逃れることはできないものならば、そしてそれが種問題の原因の一つならば、種は、その本性を理解するべきものとして、ヒトにとって(人類全体、科学者集団全体、あるいは個々の科学者にとって)問題であり続ける。ヒトが種の本性についてノンシャランな態度をとることはできない。ヒトは種問題からは逃れられない。むしろ、何らかの形で共存していくことが必要である。
  3. 種問題の解決のためには、存在の学としての形而上学が必要である。この場合の「形而上学」は、存在論、もっと具体的に言うと生物界において何が存在し何が存在しないかについての大きな枠組みのことである。そしてそれは狭い意味での生物学の枠内をこえる。つまり、通常の生物学の営みでは、種問題を解決することができない。
  4. この存在論として、三中さんは、生命の樹は存在するが、種は存在しない(タクソン・カテゴリーともに)という立場をとっている。
  5. (1)-(i)および(4)にもかかわらず、分類学は有益な営みである。分類学は徹頭徹尾〈実学〉(少なくとも、生物に名を名付け、記憶の役に立つという意味で)であり、したがって古い分類学を遂行することに根本的な問題はない。ただそれが、知らず知らずのうちに存在論に関わるときに、問題が生じるのである。

ここでは、前回指摘した点について応答があった部分について簡単に議論してみたい。

本質主義は乗り越えられないか

前回の感想における一つの論点は、心理的本質主義が種問題の原因だったとして、生物学者がそれを乗り越えることができるか、という点である。これを議論する際に、前のわたしの「感想」では、リンダ問題の例をあげた。リンダ問題に引っかかるのは代表性バイアスのせいであり、こうした心理的傾向性は多くの人に備わっていると考えられる。しかし、しかるべき訓練をつんだ統計学者の中でリンダ問題そのものにつまずく人はいないだろう。つまり人間は教育と訓練によって心理的傾向性を(ある程度は)克服できるのであるから、どうしてそれと同じことが心理的本質主義に起こらないと言えるのだろうか。

それに対して著者は、生物学の哲学者であるDavid Hullと認知心理学者のSusan Gelmanの議論を対置させることで応答している。Hullはわたしと同様の疑問を呈するのに対して、著者はGelmanの本

GELMAN : ESSENTIAL CHILD (Oxford Series in Cognitive Development)

GELMAN : ESSENTIAL CHILD (Oxford Series in Cognitive Development)

から次のような引用を行う(273頁)。

 進化理論は素朴理論に対する理性の勝利であるとみなされるかもしれない。しかし,ここでの問題点は,生物学を知らないほとんどのおとなは進化理論の基本概念を理解することがほとんどできないのではないかということだ.進化の概念が複雑すぎるとか,進化の証拠の背後にある科学的方法がわからないとか,あるいは進化研究が専門的すぎることが問題なのではない.もっと基本的なこと,たとえば,種内には変異があるとか,ある種の全個体に共通する属性はないとか,“人種”というヒトの群は実在しないという点が彼らには理解できないということだ.

これを受けて、著者は次のように述べる。

 Hull は進化的に再教育すればいいではないかという楽観論に立つ.これに対して,Gelman は進化的な教育効果は思ったほど期待できないだろうという悲観論を述べる.私は後者に一票を投じよう.心理的本質主義はけっしてたやすく除霊できるわけではない.「種問題」もまたしかり.「種とは何か?」という問題もまた,単に生物学の研究を進めるだけではその根源的な解決はおぼつかないにちがいない.その問題は,われわれ人間が生物多様性を見つめるときの視点そのものの進化的由来と文化的文脈に関わってくるからである.

著者の議論を言葉を補いながら再構成すると、

  1. 科学者もヒトである。
  2. ヒトは心理学的本質主義によって種タクソンに対して本質主義を適用する。
  3. したがって、科学者も種タクソンに対して本質主義を適用する。

という感じだろうか。

一つの懸念は、この議論におけるGelmanの取り扱いがややミスリーディングに見えることだ。上の議論では前提(2)が彼女の知見に基づいており、著者はそこから(3)という結論を出している。しかし、Gelmanは、上で引用された部分では、科学者と一般の人を分けており、一般の人に心理的本質主義を使わせないようにすることは困難だが、科学者はある程度本質主義からは離脱できている、というのが一応の趣旨である。この点は最初の引用文の中でも「生物学を知らないほとんどのおとな」という表現の中で示唆されている。つまり、著者の引き出したい結論は科学者と一般の人の両方が本質主義を採用しているというものであるのにたいし、彼女は、科学者と一般の人をある程度区別して議論している。もちろんこの対立では著者のほうが正しいかもしれない。しかし、この結論を引き出すためにGelmanを持ち出すと重要な点でGelmanの議論と齟齬が出てくるように思える。

まとめ

ということで前回の論点についての著者の応答にはわたしは必ずしも納得していない。しかし、前回のエントリで述べたように、この本がとてもおもしろい本であることには変わりないので、種や分類の問題に関心のある人は是非読んでみてください。