まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

プライアーの哲学論文の書き方(2)

知の祭典からの逃避二回目です(第一回目はこちら)。[追記:三回目はこちら。そして第四回(最終回)。]。今回はドラフトの書き方の前半。目次はこちら:

  • 哲学の論文とは何をするものなのか
  • 論文を書くときの三つの段階
    • 初期段階
    • ドラフトを書く[きょうはこの項の前半]
    • 書き直すこと、そして書き直し続けること
  • 細かい点[この翻訳では省略]
  • どのように採点されるか
2. ドラフトを書く


自分が行う議論について考え、論文のアウトラインを書き終えたなら、腰を据えて完全なドラフトを作成する準備ができたことになる。


文章は単純に

文学的な優美さを目指してはいけない。単純で直接的な文章を書かないといけない。一文や段落は短く。なじみのある単語をつかうように。単純な言葉でいけるところで大げさな言葉を使うなら、あなたは笑いものだ。こうした[哲学の]問題は十分に深く難しいもので、もったいぶったあるいは冗長なことばでもって混乱させるまでもない。会話では使わないような文章を使って書いてはいけない。口に出さないようなことばをつかって書いてはいけないのだ。

あなたはこう思うかもしれない------TAやわたしはこのトピックについてすでにたくさんのことを知っているのだから、基本的な説明はそれほどしなくてもよい、専門家同士で話すみたいに、すごく洗練された仕方で書いてよいのだ、と。そんなことをすると、あなたの論文は訳のわからないものになること請け合いである。

もし自分の論文が、小学三年生に向かって書いているように聞こえるなら、明晰さについてはおそらくうまくいっている。

哲学の授業では、複雑で曖昧模糊とした書きかたをする哲学者に出会うことがあるだろう。読む人はみんな、そうした書き物をむつかしくてわけがわからないと思う。こうした著者は、書くのがへたくそなのにもかかわらず哲学的に重要なのであって、へたくそだから重要なわけではない。だから彼らの書き方のスタイルをまねようとしてはいけない。


論文の構成はぱっと見てわかるようなものにするべき

論文の構成は読者にとってぱっと見てわかるものでなくてはいけない。構成を理解するのにすこしでも骨を折らせてはいけないのだ。一発でわからせなくてはいけない。

それにはどうすればよいか?

第一に、つなぎ語を使うことだ。たとえば、

  • 〜だから、〜なので、この議論を前提すると
  • だから、したがって、ゆえに、すると以下のようになる、その結果
  • にもかかわらず、とはいえ、しかし
  • 第一に、他方

こうしたことばは、議論がどこに向かうか読者がたどるのに役立つ。こうしたことばを正しく使うよう気をつけること! 「Pである。したがってQ」というとき、あなたはPはQを受け入れるのによい理由であると主張しているのだ。あなたはこの主張について絶対に正しくなくてはいけない。もしそうでないなら、われわれは文句をいう。自分の思考が実際よりもよく議論に裏付けられているように見せるために、「ゆえに」や「したがって」を軽々しく使ってはいけない。

自分の論文の構造をぱっと見てわかるようにするのに役立つもう一つのやりかたは、読者にここまで何をしてきて次に何をするか伝えることだ。例えば、こんな風に言うことができる。

  • 〜から始めたい
  • この議論の問題を述べる前に、〜をしたい。
  • この文が示唆するのは〜だ。
  • ここでこの主張を擁護したい。
  • この主張へのもう一つのサポートは、〜からくる。
  • 例えば〜

こうした道しるべ語は本当に大きな違いをもたらす。以下の二つの論文の断片を見てみよう。

われわれは、XがPと述べるのを見た。ここでわたしはnot-Pを支持する二つの議論を示したい。第一の議論は・・・。

not-Pを示すわたしの二番目の議論は・・・。

Xはわたしの議論に対していくつかの仕方で応じるかもしれない。例えば、彼はこういうかもしれない。・・・。

しかしこの応答はうまくいかない。というのは・・・

わたしの議論に対するもう一つのXからの応答は、・・・と主張することである。

この応答もうまくいかない。というのは・・・

だから、わたしのnot-Pという議論に対するXの応答はどれもうまくいかない。したがって、PというXの主張を否定すべきである。


わたしはQという見方を支持する議論をする。

Qを信じる理由は三つある。第一に・・・。

第二に・・・

第三に・・・

Qに対するもっとも強い反論は〜〜と述べる。

しかし、この反論は以下の理由でうまくいかない。

論文の構造が簡単にわかるのではないだろうか? 自分の論文の構造もこれと同じくらいわかりやすければいいと思うだろう。

最後に一つ。自分の見解を報告しているときと、議論の対象である哲学者の見解を報告しているときをはっきり区別せよ。ある段落で示している主張が誰のものか、読者が迷うようなことがあってはいけない。

自分で自分の論文の構造をわかっていなければ、あるいは論文に構造がなければ、論文の構成がぱっと見てわかるものにはならない。だからアウトラインを作成するのが重要なのである。


簡潔に、でも説明は十分に

よい哲学の論文を書くには、簡潔かつ説明は十分にする必要がある。

こうした要求は、正反対のものに見えるかもしれない(前半は「あんまりしゃべるな」といって、後半は「たくさんしゃべれ」といっているみたいだ)。でも、もしこうした要求を正しく理解するなら、両者を満たすことがどうやったら可能になるかわかる。

  • 簡潔に、というのは、トピックについて知っていることをすべてしゃべりまくって、知的で学識があることを示そうとしないでほしいからだ。課題文は、すべて特定の問題・問いについて書いてある。そして、確実にその特定の問題に取り組むようにしなくてはならない。論文の中には、その問題に直接関係しないものは何も入ってはいけない。他のものはすべて刈り込まなくてはいけない。あまりにたくさんのものを押し込もうとするよりも、一つか二つのポイントに絞ってそれを深く発展させるほうが、つねによい。一つか二つのよくわかった道のほうが、立ち入り不可能なジャングルよりもよいのである。
  • 議論したい中心的な問題・問いを論文のはじめに定式化し、それをずっと心にとめておくこと。何が問題で、なぜそれが問題であるのかをクリアにせよ。書くことすべてがその中心的問題に関係するようにせよ。加えて、それがどのように問題に関係するのか言うようにせよ。その点について読者に考えさせてはいけない。
  • 「十分に説明する」と言うときの一つの意味は、もし主張したいよいポイントがある時には、一文でそれを終わりにしてはいけない、ということだ。説明せよ。例を挙げよ。その主張がどのようにしてあなたの議論を助けるか明らかにせよ。
  • しかし「十分に説明する」と言うときのもう一つの意味は、できる限りクリアに明白に書けということだ。自分の論文が採点されたあと、以下のように抗議することは全然よいことではない------「たしかにそう書きましたが、わたしが本当に言いたかったのは・・・ということなんです」自分が本当に言いたいことは、はじめから正確に述べなくてはいけない。どれだけうまく自分の言いたいことを言えるかということも採点の対象には入っている。
  • 読者は議論の対象となっているテキストを読んだことがなく、対象となるトピックについて前もってあまり考えたことがないと想定せよ。もちろん、これは事実ではない。しかし、それが事実であるかのように書くなら、以下のことをしなくてはならないようになる。つまり専門用語をすべて説明したり、漠然としたあるいは読者になじみのない[概念上の]区別をくわしく説明したり、他の哲学者の主張を要約するときできる限り明白にしなくてはならなくなる。
  • 実際のところ、これを一歩進めて、読者は怠惰で、バカで、意地悪であると想定してもよい。怠惰というのは、読者は、入り組んだ文章が本当はどういう意味か、なんとかしてわかりたいとは思っていないし、また、あなたがどんな議論をしているか、ぱっと見てわかるものでなければ、なんとかしてわかりたいとも思っていないということだ。また読者はバカなので、あなたの言いたいことを、すべて単純な部分に細かくわけて説明しなくてはならない。そして読者は意地悪なので、あなたの論文を寛容の心でもって読むわけではない(たとえば、あなたが言ったことが複数の解釈を許すならば、読者は信憑性の低いほうがあなたの主張だと想定するだろう)。もし論文の対象となる題材を理解しているなら、そして自分の論文をそうした読者に向けて書くなら、あなたはおそらく優をもらえるだろう。


例や定義をたくさん使うこと

例を使うことは哲学の論文で非常に重要である。哲学者の主張の多くは、とても抽象的で理解しづらい。例をだすことはそうした主張をクリアにするための最良の方法である。

例を出すことは、あなたの議論で中心的な役割を果たす概念を説明するためにも有用である。こうした概念をあなたがどのように理解しているかを------もしそうした概念が日常的な会話からしてなじみのあるものであっても------いつも明らかにしなくてはいけない。そうした概念は、日常的な会話で使われているがゆえに、十分にクリアで正確な意味を持っていないかもしれないのだ。例えば、人工妊娠中絶についての論文を書いているとして、「胎児は人である」(A fetus is a person)という主張をしたいとしよう。「人」であなたは何を意味しているのだろうか? これは、聴衆があなたの前提を受け入れられるかどうかに大きな影響を及ぼす。また、残りの議論の説得力にも大きな影響を及ぼす。以下の議論は、それだけではほとんど価値がない。

  1. 胎児は人である。
  2. 人を殺すことは悪い。
  3. したがって、胎児を殺すことは悪い。

というのは、著者が胎児を「人」と呼ぶことで何を意味しているのかわからないからである。ある解釈によると、胎児が「人」であるというのはまったく明らかであるかもしれないが、この意味において人を殺すことがいつも悪いかどうかは、議論の余地がきわめて大きい。他の解釈によれば、人を殺すことはつねに悪いということは[上の解釈よりも]信憑性が高いかもしれないが、胎児を「人」と見なせるかはまったく不透明である。だから、ここですべてはこの著者が「人」で何を意味しているかにかかっている。著者はこの概念を自分がどのように使うかをはっきりさせなくてはいけない。

哲学の論文では、ことばを、一般の用法と少しばかり違った仕方で使ってもかまわない。そのことをはっきりさせなくてはいけないだけである。たとえば、「人」ということばを理性的思考と自己意識が可能な存在者を意味するように使う哲学者がいる。このように理解すると、クジラやチンパンジーといった動物も「人」に数えられておかしくない。これは「人」の通常の用法ではない。普通はわれわれは人間だけを人と呼ぶだろう。しかし、「人」で自分が何を意味しているかを明白に述べるなら、このように使ってもかまわない。これは他のことばについても同様である。


変化をつけるためだけに、ことなる単語を用いてはいけない。

  • 論文の最初でもしあるものを「X」と呼ぶなら、ずっとそれを「X」と呼ぶべきだ。だから、例えば、論文のはじめで「自己についてのプラトンの見方」について論じておいて、「魂についてのプラトンの見方」を論じることに変えて、そのあとでまた「心についてのプラトンの見方」について論じるといったことはしてはいけない。もし三つの事例すべてで同じ対象について語るつもりなら、同じ名前で呼ぶべきだ。哲学では、語彙をわずかに変えることは、ふつうあなたがなにかべつの事柄について語ろうとしていることのサインとなる。


正確な哲学的意味でもって単語を使うこと

  • 哲学者は多くの普通に見える用語に正確で専門的な意味を与える。こうした用語を正しく使うためには「哲学用語と方法」についてのハンドアウトを参照のこと。十分に理解していない用語を使わないこと。
  • 哲学の専門用語は必要なときにのみ使うこと。「妥当な議論」や「必然的真理」といった一般的な哲学用語を説明する必要はない。しかし、あなたの議論の対象となる特定のトピックに関係する専門用語は、すべて説明する必要がある。だから、たとえばもし「二元論」「物理主義」「行動主義」といった特殊な用語を使うなら、こうした用語の意味を説明しなくてはいけない。同様に「スーパーヴィニエンス」などといった専門用語を使うばあいもそうである。専門の哲学者が他の専門の哲学者にむけて書く場合さえ、自分が用いる特別な専門語彙について説明が必要である。こうした専門語彙は、論者によって用法が異なることがある。だから、あなたと読者の両方がこうした用語すべてに同じ意味を与えるようにすることが重要である。読者がこうした用語を以前聞いたことがないと仮定すること。