まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

素人になにが言える


誰が科学技術について考えるのか―コンセンサス会議という実験

誰が科学技術について考えるのか―コンセンサス会議という実験

という本を読んだ。コンセンサス会議の報告を超えて、科学政策の評価について示唆に富む本。

コンセンサス会議とは、遺伝子組み換え作物などの科学技術の問題について、一般市民からなる市民パネルが、専門家からの意見を参考にしながら討議し、問題についての意見書(コンセンサス文書)を作る会合である。著者は、1998年に行われた日本で最初の会議からコンセンサス会議に関わってきた。本書では、その初めての会議と農水省などが主催した会議の模様を報告しながら、それらの意義を論じている。

コンセンサス会議の一番の特徴は、科学技術政策に対して意見を言う市民パネルが、科学について素人の集まりであるという点である。この点で各種審議会などとは異なる。コンセンサス会議では、こうした市民パネルがトピックについての専門家に質問をだし、それらの答えを参考にしつつ、たとえば遺伝子組み換え作物の研究をどのように進めていけばよいか(あるいはそもそも進めていくべきなのかどうか)、討議する。したがって、コンセンサス会議では市民パネルが主役であり、彼らが主体的になって議論を進めて行かなくてはならない。これが、ややもすると科学者が「科学的に正しい」知識を一般の人に教え込むことが目的になりやすいこれまでのコミュニケーションとは異なる点である。

トランス・サイエンス化する科学技術

著者はこのコンセンサス会議の歴史的な意義の一つを、現代の科学技術の多くがトランス・サイエンス化してきたことに結びつける。トランス・サイエンスとは、物理学者のアルビン・ワインバーグが提唱した概念(154頁)で、わたしなりに強引にまとめると、科学が関わる社会的問題の中で、科学が意志決定に有用な情報を与えるが、最終的には政治的意志決定が必要になる問題群からなる領域である。

著者がひくワインバーグの例を挙げると、「運転中の原発の安全装置が同時に故障した場合、深刻な事故が生じる」というのは科学により答えが出せる問題だが、「すべての安全装置が同時に故障する確率はゼロか」そしてそれがゼロでないとしたとき「そうした事態に備える必要があるか」というのはトランス・サイエンスの問いである。そうした問いには専門家の意見が一致しないからである。さらに原発に依存した生き方自体を是とするか、という問いになると、これは価値に関わるが、しかし科学の知見もそれに答えるには必要になる。

そしてもしトランス・サイエンスに属する問題群が解決のために政治的意志決定を必要とするなら、市民が議論に参加することも意義がある。したがって、科学技術がトランス・サイエンス化してきたことが、コンセンサス会議のような「科学技術への市民参加」の試みが社会的意義をもつようになった理由なのである。

素人の意見がいつ・なぜ意義をもつか

しかし、科学技術政策について素人の意見がほんとうに意義をもつのだろうか。そして、もしもつとしたらそれはどういうとき・理由だろうか。一つの考えは、本書の中で紹介されている朝日新聞の社説(99年7月18日)がいうように、素人の意見は「しがらみ」「こだわり」がないので、有効だとするものである。

素人には、専門家のようなこだわりやしがらみがない。だから本質に迫る判断が期待できる。それは科学技術に限らない。公共事業の是非をはじめ多様な政策決定の場に、素人ならでは、の知恵が生かせるはずだ。 

しかし、これは正しくないように思われる。例えば、遺伝子治療に関するインフォームドコンセント文書(治療を始めるときに医師が患者に与え、患者の同意を求める文書)について市民パネルで出た意見として著者は次のようなものを指摘している。

  • 「この文書には、他の治療法の話があまり書いていない。例えば、尊厳死とかホスピスなどの選択肢もあるはずだ」(72頁)
  • 「とにかく難しいし、全体が長い」
  • アポトーシスとか産生といったことばがいっぱい出てくる。専門家の逃げの材料にしかならない。人に読ませようという文章ではない。」
  • 「専門家が作った文書をチェックする機関か別の専門家が必要なのではないか。医者と患者は対等ではないのだから」(73頁)
  • 「このお亡くなりになった場合には献体をというのは、無神経に過ぎるのではないか」(74頁)

著者はこうした意見に遺伝子治療の専門家が衝撃を受け、彼らがこうした意見を貴重なものとして受け取ったことを報告している。その意味でこうした「素人の意見」には価値があるように思われる。

ではこうした意見はなぜ価値があるのだろうか。振り返ってみると、こうした意見には「科学技術の<消費者>に身を置く人がどのように感じるか・考えるか」についてのものが多い。そして、そうした意見が尊重されるべきなのは、遺伝子治療や遺伝子組み換え食品では大多数の人が、そうした技術の受け手になる可能性があり、またこうした技術の社会的な実行には、現場におけるそうした「受け手」ひとりひとりの側からの技術に対する一定の理解が不可欠(だとされている)からである。そしてそうした人が例えば遺伝子組み換え治療に対してどのように感じるかは、その人の立場に身を置けば理解しやすく、一般の人のほうがそうした立場の人に感情移入しやすい。
しかし、これは「あなたが漁師であれば、他の漁師の考えそうなことが想像できる」ということと同じであって、これを単に「非専門家からの観点」と一括すべきではない。しかも、こうした感情移入から得られる認識論的アクセスには、著者の示唆するように、限界がある。

このことは、ベテランの看護師が同じ文書に対して違う意見を示したエピソードことからもわかる(92頁)。彼女によれば、インフォームドコンセント文書は、文章が長くても、専門用語が出てきてもよいという。というのは末期ガンのような重篤な病気のの患者の多くは自分で必死に勉強するし、専門書も読むからであり、そうした患者にとっては、インフォームドコンセントの文書をいたずらに短くして、必要な情報が文書に出てこないことの方が重大なのである。

こうしてみると、著者がこの看護婦から受けた意見の意義も理解できる。経験豊かな看護婦は、一般の人々よりも末期がんの患者のちかくにおり、彼らがどういう思考回路をもつかを理解しやすい立場にある。したがって彼女のほうが一般の人よりも「末期がん患者が考えそうなこと」を知るのに有利な位置にあり、彼女が著者の目を開かせる意見を述べたのも不思議ではないのである。

議論の応用

このような本書で提示された考え方は他の分野にも応用できる。例えば、経済政策を考えてみると、これはある意味に遺伝子組み換え作物などよりもよっぽどトランス・サイエンスに近いようにも見える。マクロ経済政策の決定には、各人の価値観が大きく関係し、まさに「政治」が関わってくる、また、よく知られているように、マクロ経済学ではいま政府が何をすべきか、全会一致的な合意が得られることはあまりない。他方マクロ経済学が経済政策にかかわる社会的意志決定に重要な情報を与えられることも確かだろう。

しかし、マクロ経済政策についてコンセンサス会議のようなものは考えにくいのではないだろうか。少なくとも、そうした会議を起こそうという機運は、遺伝子組み換え作物のような「いわゆる科学技術」の問題に比べて見られないように思う*1

もしそうなら、コンセンサス会議とサイエンスのトランス・サイエンス化を著者のように結びつけるのは、少し慎重になってもよいかもしれない。というのは、もしマクロ経済学をトランス・サイエンスとみなせるなら、そしてマクロ経済政策についてコンセンサス会議のようなものが考えにくいのなら、ある科学分野がトランス・サイエンスであることは、その科学分野への市民参加の試みが意義をもつ十分条件といえないかもしれないからである。

これは先に述べた、遺伝子組み換え技術などでは、技術の社会的な実行には、そうした「受け手」ひとりひとりの側からの技術に対する一定の理解が不可欠である(とされている)という論点と通じる。マクロ経済政策の実行には一般市民からの理解はあまり必要ではない(エコポイントを始めるときにわれわれはインフォームドコンセント文書を書いたわけではない)。一般市民はデフレを脱却し景気をよくしてほしいと思っているだろうが、そのための政策の実行に一般市民の当該政策の理解が必要であるわけではない(あるいは必要である度合いは少ない)。白猫であれ黒猫であれ、デフレを脱却し景気をよくする猫がよい猫なのである。

ここからは蛇足だが、このように遺伝子組み換え作物とマクロ経済政策を一列に並べると、たとえば、マクロ経済学者の全会一致的な合意をある政策の履行の前提にするのは、新しい政策を採用するためのハードルを高く上げすぎていると考えられる。原発遺伝子組み換え作物の是非を社会的に決めるとき、われわれは専門家の意見が全会一致的な合意を見せることがほとんどないことを受け入れている。もちろん専門家による意見の一致にはかなりの重みがあるので、専門家が一致する見解をポリシーメーカーが無視することは望ましくなく、専門家にコンセンサスを打ち立てるよう促したりすることは重要である。また専門家の支持がほとんど得られていない政策を行うのはリスクが大きい。しかし専門家(マクロ経済学者)の全会一致的な合意をマクロ経済政策履行の前提とするのは、他の科学技術政策からのアナロジーを使えば、やや慎重にすぎるだろう。

*1:ただしここは、直感に頼っているのでまちがっているかもしれない。