まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

棄権しても世の中は変えられる

選挙がちかくなると、「棄権していては、世の中は変わらない」とか「棄権は現状肯定にすぎない」という意見がよく聞かれる。これは間違っていると思う。

というのは投票率(棄権率)はマスコミの関心事であり、政府も投票率を向上させようとするインセンティブをもっているからだ。例えば期日前投票という制度ができた背後には、投票率を増やしたいという政府の意図があるわけで、いわばこの制度は過去の選挙で棄権した人々によってできたといってもよい。だから、いまの選挙では投票がしにくく、期日前投票制度の拡充を求めるなら、棄権することは(それが十分集まれば)世の中を変える力をもつ。

また「棄権は現状肯定にすぎない」という意見もおかしい。この意見は二つの仕方で解釈されるが、そのどちらも間違っている。一つは「棄権は、権力側から全くの現状肯定と解される」という読み方で、もう一つは「棄権はあなたが現状をまったく肯定していることを表している」という読み方だ。

一つ目の解釈がヘンなのは、そうであるなら、権力側は何とかして選挙に行く人を減らそうとするだろうが、現実はそうなっていないからである。「無党派は寝ててくれ」といった人は、そうすると自分の党が勝利するからそういったのであって、棄権した人を全くの現状肯定派だと見ているわけではない。もし棄権が現状肯定の意思表示なら、どうして独裁国家が国民に投票を勧めるのかわからなくなる。

また「棄権は、あなたが現状をまったく肯定していることを表している」というのも誤りにおもえる。たとえば民主主義全体を否定するのなら、選挙を棄権をすることはその明らかな意思表示になる。あるいは、独裁政府下の選挙で棄権する人に同じことはとうてい言えないだろう。もし棄権が現状肯定の意思表示なら、棄権したことを発見されて独裁政府により強制収容所に送られたときにあなたが流す涙は、政府が自分の意図を理解してくれないのを悲しむ涙だということになる。

あと、「現在の政治全体に不満があるなら、棄権ではなく白票を投じるべき」という人もいるが、これもよくわからない。なぜなら、現在の状況では、白票の数が公表されていないか公表されていてもそれに注目する人がほとんどいないので、白票が世の中に与えるインパクトはかぎりなくゼロにちかい。それなら、投票率に注目する人はそれに比べるとずっと多いので、まだ棄権した方が政治状況全体に対する「否」の意思表示として意味がある。

もちろん、棄権することで自分の思ったように世の中が変わらないこともある。もし夫婦別姓制度の導入が望ましいと思っており、それが一番大切なことだと考えているなら、7月の選挙で棄権することは合理的ではなかったかもしれない。しかし、それは投票をする場合でも同じだ。「自分の思ったように」という要求の水準を高くすると、だいたいどの党に投票しても、自分の思ったように世の中は変わらない。

たぶん「棄権していては、世の中は変わらない」といったことをいう人は、本当は「民主主義の下では棄権よりも投票を通じて意思表示をすべきだ」といったことをいいたいのだとおもう。しかしこれは「べき」論の話で、「棄権に世の中を変える力があるかどうか」という事実の話ではない。それが望ましいかどうかは別として、棄権には世の中を変える力がある。