まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

科学哲学には何が期待されていて何ができていないのか

ダーウィンと進化論の哲学 (科学哲学の展開)』について評論家の山形浩生さんから厳しい書評をいただいた(リンク)。

すでに他の方が指摘されている通り、あの書評には個々の論文について指摘された「問題点」について事実誤認や的はずれのところがある。他の論文についてその著者のかたに譲るとして、わたしの論文について言うと、やまがたさんの一つのポイントは議論が哲学的ではないということだ。

わたしにとってこれは意外な点だった。というのは論文の謝辞で示唆したとおり、あのプロジェクトは元々留学中のゼミで発表したものが素材になっており、それがああいった形で論文になるには仲間の哲学者からの「おまえこのプロジェクト面白いよ」という励ましが必要だったからである。また、前のエントリで紹介したように「哲学=別の手段による科学の継続」、つまり哲学は「自然についてのわれわれの知識の増大」という目標を科学と共有しているという見解は哲学についての有力な見方の一つであり、わたしのプロジェクトもそうした見方に沿ったものといえる。

もちろん、「あの論文が『日本の生物学の哲学の一大成果』として載る」ということに物足りなさを感じるとすれば、それはわたしの非力を恥じるほかないが、しかしそれと「拙論が<哲学>か否か」とは別のことだ*1

科学哲学には何が期待されていて何ができていないのか

しかし、このエントリで言いたいことは、やまがたさんの書評には的はずれな点があることを指摘することではない。というのは、あのエントリでのあの本の「問題点」の指摘について色々微妙なところがあるにしても、問題は「じゃあその事実関係を正すとやまがたさんが感動して考えを変えて朝日の書評に取り上げるか」というと絶対ノーだからだ。

だから哲学者として、あの書評の問題点を指摘してハイおしまいとして忘れることにするのはあまりうまくない。「やまがたさんが(科学)哲学に何を期待しているのか」「どうしてそれがあの本では満たされなかったのか」を探ることがそれよりももっと大切だろう。

言い換えると、あの書評を書く前後のやまがたさんの心の動きは

  1. ダーウィンと...』本を期待して読む
  2. 期待を裏切られたと感じる
  3. なぜこの本がダメか期待か書評で説明する

という感じではないかと想像するが、3.の説明がうまくいっておらず誤解を含んでいるとしても、それを正されたからといって2のがっかり感が癒されるわけではないのである。

そしてやまがたさんがどうしてがっかり感をもったのかというヒントは書評の中にいくつか書かれている。

 「前半は進化論入門レベル、後半はほとんどが哲学者様たちにご登場いただいたことがまったくプラスになっていない分野についてのぬるい紹介と、この分野においては周縁的な小ネタとしか思えないものを扱う論文ばかり。

[やまがたさんの考える論文のイメージを述べたあとで、しかしそれに対して]本書の「論文」の一部は

本稿ではXXについて考えてみたい(But, why? What for?)。これについてだれそれはナントカと言っている。これについてはこんな反論がある。ここの部分をちょっとモデル化してみたり細かくしてみたりした。なるほどだれそれの言うことはもっともだが少し問題もあって反論にも一理あるかも。というわけで考えてみたがおもしろいテーマかもしれない。今後さらに検討してみよう。おしまい。

こんな感じで、何よりもその研究をするための目的意識というか市場性というかニーズというものがまったくわからないのだ。

ここでの論点をわたしなりにパラフレーズすると「哲学者は(ダーウィン)進化論の基本的な部分の解説を超えたらちょうどうでもいい瑣末なことにかまけている。もっと大きな射程から切り込むようなことができないのか」ということ。非・哲学者がみて「ほう」と思えることを哲学者が言えているのか、その反省が足らないんじゃないのということだ。

そしてこれはじつはやまがたさん一人だけがもっている懸念ではない。たとえば次のことばを見てほしい。

 こうしたある意味で過剰な期待に応える形で哲学のサバイバルを図るということは、ようするに次のようなことだ。大学での教員研修のあり方について、脳科学の最前線について、ベンチャー起業の哲学的意味(!)について、ヴァーチャル・リアリティについて、企業の倫理綱領について、...などなどありとあらゆる「雑多」な話題が割り当てられる。その都度「やっぱり、哲学者の話はひと味ちがって面白いね」と言われるような、スルドイ分析、広い歴史的視野、斬新な発想に基づく話が必ず哲学者側から提供される...。(戸田山和久「科学(者)のなかの哲学(者)」p. 16)

ここで「大学での教員研修のあり方について、脳科学の最前線について...」を「ダーウィンや進化論にまつわる哲学的話題」に入れ替えると、これはそっくりそのままやまがたさんが哲学者に求めていることだ*2

つまりやまがたさんの感じたがっかり感というのは、じつは哲学者に外部から今まで言われてきたことの変奏であって、それは哲学者がいまだにそうした期待に応えていないということである。わたしがやまがたさんの問題提起を真剣に受け止めるのは、それがやまがたさんからだからではない。似たようなことが立場の異なる様々な人から言われてきたからだ。

では、どうすればよいのか

しかしではどうすればよいのかと言われると困るわけで、だいたいうまくいっていればあqwせdrftgyふじこlp;。また人が何かを「面白い」と感じるのはその人の知識と関心に相対的なので、著者が簡単に予測できるわけもない*3。ただ書評で言及して頂いたエントリのように、潜在的読者がいると予測されるところにわたしが面白いと思ったものを投げて反応を見ることをつみかさねていくぐらいしかいまのわたしにはできることはないので、それを当面はやっていきたい。

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*1:あと瑣末なことだが、わたしは現在科研費に関係する仕事はしていない。

*2:もう一つの例は前著『進化論はなぜ...』に対するアマゾンの書評の結論部を参照。

*3:ブログを書く人なら皆わかっていると思うが、すごく力を入れて書いたエントリがxぶくまで、鼻歌を歌いながら書いたどうでもよいエントリがyぶくま(x<