まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

科学の継続ではなく科学の解釈

授業の関係で読んでいるギャリー(Giere)の

Scientific Perspectivism

Scientific Perspectivism

に科学哲学に関わる一節があったので紹介。

ギャリーは科学哲学とは何かという問に答える二つのビジョンを比較する。一つは前のエントリで紹介した「科学哲学=科学の継続」という自然主義的なビジョン。しかしギャリーはこれを「よくてわれわれを誤った方向に導くものであり(misguiding)、悪い場合だと傲慢だ」と述べる。ここでのギャリーの批判を一言で言うと、科学者になるためには(そして科学者の共同体の仲間入りをするためには)高度な、そして長年にわたる訓練が必要なのであって、そうした経歴を欠いた者のいうことを科学者は一般に相手にしない、というものだ。そして「物理学の哲学」「生物学の哲学」という看板を掲げていても、実際に起こっているのは哲学者と科学者の共働ではなく

哲学者が――量子力学の哲学といった――[科学者とは]別のコミュニティを作り、そのメンバーはもっぱらメンバー同士でコミュニケーションをとり、物理学の理論家のコミュニティとのコミュニケーションはあくまで薄いものにとどまる(p. 38)

ということになってしまう。

これに対してギャリーが推奨する見方では、科学哲学者は「科学の実践と成果をよりひろい観点から記述して、教養のある素人および科学研究のコミュニティ(科学史家、科学哲学者、科学社会学者)が理解できるようにする」。言い換えると、科学哲学者の仕事は科学者が取り組んでいる課題を肩代わりする(あるいはした気になる)ことではない。むしろ科学者がたどり着いた時点から出発して、科学者の研究の意味を異なる観点、よりひろい観点から解釈することが仕事になる。

ギャリーの例は色彩科学だ。ギャリーは色彩科学の成果――ヒトには三つの色彩受容器(円錐)があること、異なる波長の光が受容器にどのように受け止められるか、異なる色あい(hue)の関係、刺激(光)の受容のありようとわれわれが実際に感じる色の関係、色彩の安定性、条件等色(metamerism)など――を所与のものとして受け取る。その上で、色の存在論的地位(色は客観的に実在しているか主観的なものか、という問題)について論じる。しかしこれは色彩科学者の領分を侵すことにはならない。色の存在論的地位は色彩科学そのものではなくて、色彩科学の成果をどう解釈するか、という問題だからだ。

 ...例えば色彩科学者が、色は「主観的」で「心理的」で、「脳のなかのプロセス」であると主張するとき、彼らは色彩科学[の見解そのもの]を提示しているのではなくて、色彩科学のより一般的な描写を出しているのである。こうしたより一般的な描写は色彩科学者の専有物ではなく、彼らは正当な批判を外部にいる者――実際のところこうした一般的な主張から何が導かれるか、よりよく理解しているかもしれない人たち――から受けるかもしれないのである。(同上)

ギャリーはこうした主張を物理学にも当てはめて、最後にこう述べる。「こうした描写は物理学の一部ではなく、物理学者がやっていることの解釈である。これについては知識を持った外部の者が正当な批判を行うことができるのである」。