まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

「言語技術」が日本のサッカーを変える

「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

を読んだ。サッカーについての新しい考え方を示した本だが、少しつっこみ不足のところもある。

著者の言う「言語技術」とは、一言で言うと、自分のプレー・考え・感情を他人に筋道だった仕方で説明できることである。そして欧州と比べたとき、これが日本のサッカーにもっとも欠けているものの一つだと著者は考える。これは、ワールドカップで一人の選手が退場し10人でプレーしなくてはいけなくなったときにベンチを見もしなかったイタリアの選手と、ゲーム形式の練習で進行を止めてプレーの意味を尋ねたときに視線が宙を舞う日本のユースの選手を比べたときに明らかである。

著者はこうした言語技術は若い頃からの訓練によって身につけさせるのが効率的と考え、中学生のサッカー選手を集めトレーニングをするJFAアカデミー福島という施設で、言語技術を伝授する講義をもうける。本書の一部はその講義の内容の紹介にあてられている。

著者はドイツに留学経験があるが、本書で取り上げられているような日本人とドイツ人のあり方の違いは、哲学者の中島義道が書いた

でも詳しく論じられているので、よく理解できる。そして哲学の技術のなかには、本書で述べられているような「言語技術」も入っている。この二つを組み合わせると、哲学をするとサッカーがうまくなるという結論が出てくるはずであり、グーグルが哲学者を雇っているように日本サッカー協会は哲学者を雇うべきなのである。

そこまではよい*1のだが、本書にはややつっこみ不足のところがある。それは、本書では「言語技術を身につけるとほんとうにサッカーがうまくなるのか」という問いには証拠が提供されているが、「言語技術を身につけることでどういう風にしてサッカーがうまくなるのか」ということがあまりかかれていないからである。前者の問いについては日本と欧州の比較がある程度の答えを示唆する。しかし、どのようにして言語技術が役に立つのかについては、「サッカーのうまい国の選手は「言語技術」を身につけているが、日本人選手はそうではない」を大きく超えることが書かれているわけではない。

また、著者はこうした見方をサッカーに対するかなり斬新な見方として提示しているが、ほんとうにそうだろうか。野球に目を転じれば、何人もの方が指摘しているとおり、いわゆる「野村野球」との類似が見て取れる。野村克也監督も選手に考えるプレー、一つ一つのプレーをきちんと説明できることを求める。このことが重要なのは、著者が、本書で述べているような「言語技術」は小さい頃から習慣化しないといけないと強調しているからだ。しかし、いうまでもないことだが「野村の考え」を身につけたひとは成人の野球選手である。こう考えると、著者のいう「言語技術」がそこまで特殊な技能なのか、疑問を覚えなくもない。

さらに、本書の最終盤では「什の掟」という江戸時代会津藩で継承されてきた青少年への教えが紹介されているが、その教えはそれまで論じられていた事柄と真っ向から対立するように思われる。たとえば、著者は什の掟の「一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。...ならぬことはならぬものです。」を元にして、6-10才という若い時期に「ならぬことはならぬ」という人間としての基本を埋め込んでいくことが大事であり、またこの掟は武士道の表れであり、日本流のサッカーを作っていくときに参考にするにふさわしいと論じる。

たしかにそれぞれの国のサッカーがその国の伝統を何らかのかたちで帯びたものになるという主張は、わからなくもない。しかし、「年長者の教えに背いてはいけない」というのは、これまでの主張と180度反するものではないか。こうした議論を受けて著者は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにまじめに向かい合わなくてはいけない日本社会の状況を嘆いているが、著者が手本にするドイツ人はこうした問いを真剣に考えないだろうか。

日本のサッカーが成功した暁にはそのサッカーが何らかの意味で「日本流」のプレースタイルをもつだろうが、しかし著者は「日本流」のサッカーを作るという目標にとらわれるあまり、本書前半との整合性を欠いた主張に落ち込んでしまっているのは残念だ。

*1:そして哲学者にとって都合がよい。