まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

にっちもさっちもいかないところまで

この間(コンピュータを遅くしない方の)ノートン先生ページを見ていると、おもしろいことが書いてあったのでちょっと翻訳。

にっちもさっちもいかないところまで

科学哲学の新しいトピックについて読み始めるとき、何を探していけばよいだろうか。ポイントは、中心的な論題と議論を見いだすことに向けられるべきだ。しかし、どのくらい深く読んでいけばよいだろうか? わたしには一つの経験則がとても役立ってきた。どんな分野でも簡単に得られる明らかな成果がある。そうした成果は早い段階でつみ取られ論文となるものだ。そうした成果がなくなってしまったことが、ある分野が成熟したという印だ。[分野が成熟すると]むしろ、さらなる前進を阻む深いどうにもならない困難(intractability)があるという感じを抱くようになる。あなたがするべきなのは、このどうにもならない困難がある地点まで読書を進めていくようにして、そのどうにもならない困難がどのように生じるのか見いだすよう試みることだ。それは一般的には「にっちもさっちもいかない」というダイナミックスの中に現れる。さまざまな見方がどんどん提起され、それぞれに困難を回避しようとデザインされているが、どれも一致した同意を得られないのである。

古典的な哲学的問題の代表であるヒュームの帰納の問題がこの例となる。帰納的推論をどのように正当化することができるだろうか。正当化のための試みはすべて、帰納についての別の正当化に訴えざるを得ない。なのでそうした試みは循環に陥るか無限後退を引き起こす。あるいは、もしどの正当化も受け入れられないことをみとめるなら、帰納的推論を信じるいかなる理由もわれわれはもっていないように見える。では帰納を正当化することはできるだろうか。正当化しようとしてもしなくても、困ったことになるのだ。

科学哲学において、新しい領域に入ったときに決まっておこることは、簡単に得られる成果をたくさん見いだせるということだ。そうした成果は、簡単に得られるというまさにその理由において、広く知られていることだろう。にっちもさっちもいかないように見える問題によって、進歩が阻まれてきたことを見いだしたら、それに対して返答せよ! あなたはそこで新たな貢献が可能な地点まできたのである。