まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

How Languages Are Learned:第二言語習得理論について

前のエントリ、つまり

How Languages Are Learned (Oxford Handbooks for Language Teachers)

How Languages Are Learned (Oxford Handbooks for Language Teachers)

の紹介の続き。

さて前回のエントリでは外国語早期教育について紹介したが、今回は第6章の第二言語習得(SLA)・教授理論についての議論を紹介する。

ここでは主な第二言語習得理論を6つあげて、関連する研究を挙げた上で著者の評価を下している。取り上げる理論は以下のものが含まれる。

  • 文法翻訳(grammar translation)
  • オーディオリンガル方式
  • インプット仮説
  • 発達順序理論
  • イマージョン理論
  • フォーカスオンフォーム

著者はこうした方法について関係するリサーチを紹介しながら検討していく。

文法翻訳・オーディオリンガル


この二つは伝統的に学校で行われてきた方法に近い。文法翻訳はいわゆる文法訳読に近く、オーディオリンガル方式は――名が体を表していないので理解するのがちょっと難しいが――文法ドリルとか文変形のパターンプラクティスとかを中心とした教え方だと思う。著者はこれらの方式には非常に冷淡である。たとえばいくつかの研究によると、ドリルである文法規則を習っても全然長続きしない(次のセクションに移行して別の規則を習う頃には忘れてしまう)。文法翻訳については、古典語学習の方式を持ち込むものでうまくいかない、この方式で習得した人がいるとしても、だいたいどんな方式でも習得する人は一定数いるから積極的な証拠にはならないとにべもない。

発達順序(developmental sequence)理論


発達順序理論は、「文法事項をマスターする順番には規則性がある」という第二言語習得論の主な成果の一つに基づく。たとえば三単現のsは規則自体は単純だが、比較的習熟度が上がるまでマスターできないことが多くの研究で確かめられている。つまり文法項目をどの順番で教えようが、実際に生徒がマスターする順番には規則性があり、これは第一言語学習についても第二言語習得についても同じである。この指導法は、そうした順序に従って文法事項を教えていこうというものである。

著者はこの説の可能性を認めつつも、現在ではそうした順序についてわかっていることは多くはなく、それに沿ってカリキュラムを組むことは時期尚早であるとコメントする。

インプット仮説


インプット仮説は、クラッシェンによって唱えられた日本ではたぶん一番知られたSLA理論の仮説だ。彼の理論はいくつかの仮説に分けられるのだが、その全体的な理論をおおざっぱに言うと、語学習得の肝は「理解可能なインプット」(文法・語彙からして正確に理解できなくとも、文脈などの言語外的情報を用いて理解できるレベルの文)を大量に与えることで生じる無意識的学習であって、文法を意識的に学習することはきわめて限られた役割しか果たさないという説だ。

この説はいわゆる「多読」運動(教室内外で多量の(一つの目安は10万語〜100万語)の英語の簡単な本を読ませるという指導方法)の背後にある考え方で、クラッシェンは英語の多読を薦める本ではたいてい言及されるa house hold nameだ。ところが著者はクラッシェンの方法にも意外と冷淡で、彼の方法は「せいぜいのところ、学習をはじめるための非常によい方法であり、またもっと進んだ学習者にとっては補助的な学習方法と見られるかもしれない」(165頁)と述べる。

これはクラッシェンの方法には利点もあるものの、限界を示す研究結果も存在するからだ。
大量のインプットが習得を促すと解釈される例は確かにある。たとえば

  • カナダ・モントリオールのコミュニティセンターで大人の移民に大量の読書を行なわせたプログラム。これを行った大人たちはたったの6週間で読書に起因する語彙の成長が見られた。

しかしそうした習得には限界があることを示唆する研究もある。

  • 大量のインプットでは母語の干渉などで頻繁に出る文法項目の間違いを訂正できるわけではない(新しい文法規則を習得することはできる)。これは特定の文法項目が出てくるインプットを集中的に与えても同じ。
  • ただし工夫された読書と明示的な指導を組み合わせると、文法項目の習得に有効。たとえば「プロセシング・インストラクション」と呼ばれる方法では、ある文法項目にフォーカスした読み物が与えられると同時にその項目についての明示的な説明が与えられる。「ある文法項目にフォーカスした読み物」というのは、単に文に文法項目が含まれているだけではなくて、その項目をきちんと理解しないと文意を理解できないような文章である。そうした方法で学んだ子供は会話といったアウトプットだけでなくてインプットを理解する能力においても進歩が見られた。

つまり、文法項目の習得には、クラッシェンのいうようなインプットのみを通じた黙示的学習だけでなく、学校でやるような明示的な学習も有効(というか必要)であるらしいのである。

イマージョン理論


イマージョン理論では、平たくいうと児童や生徒を「英語漬け」にて「英語で」教科を勉強させていくやり方である。こうしたイマージョン教育が盛んな国の一つがカナダで、英語とフランス語の両方を使って初等教育を行っているという。たとえばブリティッシュコロンビア州では日常生活では英語しか使わないが、初等教育ではフランス語のイマージョン教育を行い、わたしの経験でも結構な人が流暢なフランス語の使い手でもある。ということでイマージョン教育の効果はかなりあると思われている。

しかし著者たちは、このイマージョン教育の評価には盲点があると述べる。というのはそうした子供たちが流暢に会話に興じているのを見ると多くの人は彼らの運用能力は非常に高いと考えるが、しかしそれはあくまでインフォーマルな文脈における流暢さであって、複雑な教材を勉強するときのようなフォーマルな文脈における能力はまた別だからである。そして著者はイマージョン教育を受けた子供たちはそうしたフォーマルな文脈の能力では置いてけぼりになっている可能性を指摘する。たとえばこうした教育を観察した研究者は、教師の質問に答える生徒たちは非常に短い答えしか与えず、また正確な文を使うように求められることもまれであることを見て取った。

また香港における英語のイマージョン教育では、生徒は英語を最小限の仕方でしか用いていなかったために、難易度を大幅に下げた指導方法を持ちいらざるを得ず、英語能力は中国語に比べて低いままだった。さらに前のエントリで紹介したように、特にマイノリティへのイマージョン教育は母語への影響や指導について行けない生徒を作り出す危険性がある。

したがって、イマージョン教育は場合によっては有効であるが、限界もあると著者たちは指摘する。

フォーカス・オン・フォーム


ここまでそれぞれの方法に批判的なコメントを残してきた後で、著者たちはさいごにフォーカス・オン・フォームという方法を取りあげる。これは、今まで見てきた文法中心的教え方と意味中心的教え方のいいとこ取りを目指した方法だ。つまり、

  • 基本的にはイマージョン理論にのっとって意味中心の教え方をする。つまり文法項目を一つ一つ教えていくのではなく、自然な文脈の中でターゲット言語の使用を埋め込んで、多くの時間その言語に触れさせることを目標とする。
  • しかしそれだけでは終わらない。フォーカス・オン・フォームは、意味中心の学習の中に文法(フォーム)に着目させる時間を埋め込むことで、ターゲットとなる文法的特徴に「気づき」を与えることを目標とする。
  • 以前の文法翻訳・オーディオリンガルと違うところは、(i)以前の方法では学習の最初から文法の勉強をするが、フォーカス・オン・フォームではまず意味中心の学習からはじめる(ii)また文法翻訳・オーディオリンガルでは文法用語を多く用いて教授していくが、フォーカス・オン・フォームではそうした用語をいつも使うわけではない。
  • 逆にクラッシェンとは異なるところは、文法的な誤りを訂正して練習することの重要性を無視しないということだ。(よく言われるようにクラッシェンは、文法的誤りなどを訂正して練習することは言語習得には直接的には何の役割も果たさないという立場を取る)。

この立場をサポートする経験的研究の一つでは、ESLの生徒が科学を題材にして英語を学習した例がある。ここでは過去形と条件法が問題になった。このクラスでは生徒は科学のレポート(詳細は書いていないが、科学雑誌の記事のようなものだろうか)に関係する活動(読み書きだけでなく話す聞くという活動)を行った。教師は生徒が活動する中で、上の二つの項目について、誤りを犯したときにフィードバックを明示的・黙示的におこなった。こうしたフィードバックを受けたグループは、対照群よりもこのプログラムの直後および2ヶ月後のテストにおいて優位な成績を残した。

ということで著者は、「文法中心vs.意味中心」という対立軸では、どちらも必要という立場に立つ。これは口で言うのは簡単だが、実際にimplementとしようとすると、どのようにやるかがいつも問題になる。教師への「課題は、意味中心的な活動と形式中心的な活動のバランスを取ることである」(196)。