まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

外的世界の証明(抄)

授業で使うためにムーアの有名な論文「外的世界の証明」(pdfファイル)のキモとなるところの翻訳を作ったのでご笑覧ください。

例えば、わたしは今、二本の人間の手があることを証明できる。どうやってか。それは二つの手を上げて、右手でジェスチャーをしながら「ここに一本、手がある」と言い、そして左手でジェスチャーをしながら「ここにもう一つある」と付け足すことによってである。そしてもし、こうすること、まさにこのことによって外界の事物の存在を証明したのならば、わたしが同じことを数々の別の仕方によって行うことができることをみなさんは理解するだろう。ゆえに例をこれ以上増やす必要はない。
しかしわたしはたったいま人間の手がそのとき存在したことを証明したのだろうか。わたしはそうだと言いたい。そしてわたしが与えた証明は完全に厳密なものだと。そして何についてもこれよりも優れたそしてより厳密な証明を与えることはおそらく不可能だということも言いたい。もちろん、[以下の]三つの条件が満たされなければ、それは証明ではない。すなわち、(1)結論を証明するために持ち出した前提が、証明しようとする結論と異なること、(2)わたしが持ち出した前提が、わたしが事実だと知っていたことであり、単にわたしが信じていたが決して確実ではない事柄だったとか、また実際真だったがそれをわたしが知らなかったような事柄ではないこと、(3)結論が本当に前提から導き出せること、である。しかしわたしの証明はこうした三つの条件をすべて満たしている。(1) 証明の中でわたしが持ち出した前提は結論とは異なることは全く確実である。というのは、結論は単に「二本の人間の手がこのとき存在する」と言うことであるが、前提はこれはよりももっと細かなこと、つまりわたしが皆さんにわたしの手を見せてジェスチャーをして「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」と言うことで表したかったことだからである。この二つのことが異なるのは全く明らかなことである。というのは、前提が偽であったとしても結論が真であった可能性があることは全く明らかであるからである。前提が真であることを主張しているとき、わたしは結論が真だと主張しているときよりももっと多くのことを主張しているのである。(2) わたしはあるジェスチャーをしながら「一本の手がありここにもう一つの手がある」と言うことで表したことをそのとき確かに知っていた。わたしは、最初に「ここに」と言いつつジェスチャーをすることで示した場所に一本の手があること、そして二回目に「ここに」と言いつつジェスチャーをすることで示した、前とは異なる場所にもう一本の手があることを知っていた。わたしがそのことを知らなくて単に信じていただけだとか、上で言ったことが事実でないというなんて、どれほどばかげているだろうか! あなたは、わたしが今立って話していることを知らない(結局のところもしかしたらわたしは立っていないかも知れないのである)とか、わたしが立っていて話していることは全く確実ではないと言うのであろうか! そして(3) 結論が前提から導き出されることは全く確実である。それが確実であるのは、いまここに一本手がありここにもう一本あるなら、いま二つの手が存在していることと同じくらい確実である。

[…]

しかしわたしは以下のことに完全に気づいている。すなわち、わたしが述べたことすべてに反して、多くの哲学者が問題となる事柄についてわたしが満足のいく証明を与えていないとなおも感じているだろうということである。最後に短く、わたしの証明についてのこの不満がどうして感じられるのかという理由について述べたい。

一つの理由はこれだ。「外的世界の証明」ということで、人によってはわたしが証明しようとしなかったこと、また証明しなかったことの証明を含むものだと解するのである。そうした人が何を証明して欲しいと思っているのか――それについての証明が得られなければ外界の事物の存在の証明を持っているといわないようなものは何なのか――を言うのは簡単ではない。しかし、以下のように言うことで、彼らが求めているものが何かを説明することに近づくことができる。つまり、わたしが二つの証明で前提として用いた命題をすでに証明していたならば、もしかしたら彼らはわたしが外界の事物の存在を証明したことを認めてくれていたかもしれない。しかしそうした証明(もちろんそれをわたしは与えなかったし、与えようともしなかった)がなければ、外界の事物の存在の証明で彼らが意味することをわたしは与えなかったと言うだろう。言い換えると、わたしが自分の手を上げて「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」というまさにそのときにわたしが主張している事柄の証明を求めているのである。もちろん、彼らが本当に求めているのは単にこれら二つの命題の証明だけではなくて、この種の命題すべてがどのようにして証明されるかについての一般的な言明のようなものである。こうしたものは、もちろんわたしは与えなかった。そしてこうしたものが与えられるとはわたしは思わない。もし外界の事物の存在の証明が意味することがこのことならば、外界の事物の存在についていかなる証明も不可能であると思う。もちろん、こうした命題に外見上似た命題の証明と呼べるようなものが得られる場合もあるだろう。もしあなた方の一人がわたしの手の一つが義肢ではないかと疑うなら、こちらに来て、疑わしい手を近くで調べて――ことによっては手に触ったり押したりして――それが本当に人間の手であることを確かめることで、「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」という命題の証明を手に入れると言われるかもしれない。しかしわたしはほとんどすべての事例においていかなる証明も可能だとは思わない。ではどうやって「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」ということを証明するのか。そうしたことが可能とはわたしは思わない。そうするためには、例えばデカルトが指摘したように、わたしがいま夢見ていないことを証明する必要がある。しかしわたしが今夢を見ていないということをどうやったら証明できるのか。疑いなくわたしは「わたしは今夢を見ていない」と主張するための決定的な理由を持っている。わたしは「わたしが目覚めている」ことの決定的な証拠を持っている。しかしそのことはそれについて証明できるということからは非常に異なった事柄なのである。わたしが持っている証拠のすべてがどんなものかわたしはあなたに伝えることはできない。そしてあなたに証明を与えるためには、少なくともそうしたことができなくてはならないのである。

しかし、わたしが思うに、わたしの証明に不満足な人々がいるもう一つの理由は、単に彼らがわたしが与えなかったようなものの証明を求めていることだけにあるのではない。そうではなくて、もしわたしがそうした追加の証明を与えられないなら、わたしが与えた証明は決定的なものでは全くないのだと彼らが考えているからである。わたしの考えによればこれは明らかに間違っている。彼らは次のように言うだろう――「もしあなたがあなたの前提である『ここに一本の手があり、ここにもう一つある』ということを証明できないのなら、あなたはそのことを知らないのである。しかしあなた自身が、もしそれを知らなかったのなら、自分の証明は決定的なものではなかったことを認めてきた。従ってあなたの証明は、あなたの言うところに反して、決定的な証明ではなかったのです」。わたしの見解では、この見方、つまりこうした事柄をわたしが証明できないのなら、わたしはそうしたことを知らないという見方は、この講義の冒頭にわたしが引用した文章でカントが表明していた見方である。このときカントは、我々が外界の事物の存在についての証明を持たない限り、そうした事物の存在は、単に信念(faith)によって受け入れられなくてはならないことを示唆している。わたしの考えでは、彼が言いたいことは、もしわたしがここに手があることを証明することができなかったら、わたしはそれを単に信念の問題として受け入れなくてはならない――つまりわたしはそれを知っているわけではない、ということである。こうした見方は哲学者の間では非常に一般的なものである。しかしわたしはこの見方が誤りであることを示せると思う――ただしそれは、(もし外界の事物の存在を我々が知らないならば)真だとは知られていないような前提を用いることによってであるが。わたしは証明できない事柄を知ることができる。そしてわたしが――たとえ証明することができなくとも(そしてわたしは証明できないと思っているのだが)――確かに知っている事柄の中には、わたしの二つの証明の前提が含まれているのである。したがってわたしは、わたしがこうした証明の前提を知らないと言うただそれだけの理由でこうした証明に不満足な人は(もしそうした人がいるならば)、その不満にはまともな理由がないと言わなくてはならない。