まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

害虫の誕生

害虫の誕生―虫からみた日本史 (ちくま新書)

害虫の誕生―虫からみた日本史 (ちくま新書)

という本を著者よりいただく。ありがとうございました。

虫、特に不快で有害な虫と人間との関わりの歴史を描いた本。目次は以下の通り。

第一章 近世日本における「虫」
第二章 明治時代における近代化と「害虫」の誕生
第三章 害虫と病気
第四章 害虫と戦争

最初の二章では、江戸時代から明治に掛けての日本人の虫とのつきあい方の変遷をたどる。その中で著者は実は「害虫」という言葉は、江戸時代にはほとんど使われていなかったこと、特に近代以前の人には「不快で有害な虫は人の手で駆除できるし、そうすべきだ」という発想がなかったことを明らかにする。近代以前の人にとっては、虫は自然発生によって現れてくるものであり、そのこと自体は不快で有害なことであったが、それを取り除くには基本的に神頼み以外になかった。そうした考え方を表しているのが「虫送り」という風習である。これは、「害虫」が発生したときに村人がたいまつなどを持って村中を練り歩き、害虫駆除を祈願するというものだ。つまり彼らにとって害虫の発生は、台風などの自然災害と同列におかれていたのである。

それが明治維新以降の近代化の進展によって変わっていく。明治政府は、すでに西洋に成立していた「応用昆虫学」を輸入し、虫による農作物などへの害を「害虫」によるものと規定し、それを排除する手段を一般の国民・民衆に伝えようと努力した。しかし民衆の側では、そうしたやり方は今までの虫害に対する考えとはほとんど相容れないものであり、政府の施策に激しく抵抗した。第二章はそうした「政府による上からの近代化vs.民衆」の対立を概観し、さらに名和昆虫研究所といった民間の昆虫研究所が上からの近代化の中で意外と大きな役割を果たしたことを見る。

第三章では、害虫と病気の関係について、主に植民地および都市の衛生という観点から考える。このうち都市の衛生について著者は、大正から昭和に掛けて行われた、都市住民からコレラなどの病気を駆逐する行政のキャンペーンの中で、「害虫」を駆除し生活から排除していくという発想が広められたと述べる。第四章では、害虫研究と戦争との関わりが、マラリア対策や熱帯医学と戦争、占領後の伝染病対策だけではなく、敵を「害虫」にたとえて戦意を高揚させるプロパガンダといった観点からも論じられる。

エピローグでは、それまでの議論から連想される著者の立場に対するありがちな誤解を解く。たとえば、本書の前半で「害虫」という概念の成立の歴史を追ったことから、著者は「害虫」という概念そのものに対して批判的だと思われるからもしれない。しかし、著者は最近の議論を引きながら「西洋=自然破壊的」vs.「東洋=自然融和的」という二元論を乗り越えることを説く。最後に著者は、自然に対するさまざまな考えに社会的な次元が入っていることを主張する。

江戸時代以前の日本人が現代とはまったく異なる虫に対するとらえ方をしてきたことを明らかにする第一章・第二章はとても興味深く、引き込まれる。随所にフックとして挟まれるトリビアもきわめて印象的である。著者とは同じ大学院にいたので、本書に出てくる話の一部は読んだり聞いたりしたことがあると思うが、それでもおもしろく読めた。

ただ一つだけよくわからなかったのは、エピローグで著者が頻用する「社会的次元」という言葉の意味である。著者はエピローグで、ウィルダネス(wilderness、原生自然)という概念の例を引きながら、何が望ましい自然かは社会的な状況に依存し、社会的な次元が入り込んでいると主張する。また著者が害虫防御技術を安易に「自然破壊的vs.エコロジカル」という二分法から理解することに警鐘を鳴らす際にも、天敵利用や誘蛾灯のような「エコロジカル」にみえる技術も産業化した農業の産物であることを指摘し、技術そのものの中に社会的次元が入り込んでいると述べる。

しかし、こうした点で「社会的次元」を強調することがどういう展望をもたらすのか、今ひとつはっきりとわからなかった。例えば、第一の点が意味するものが「望ましい自然と見なされるものは、時代や社会によって異なる」ということなら、何というか、当たり前という気がしないでもない。また、第二の点についても、「技術の中に社会的次元がある」と言うことが「誘蛾灯が産業化された農業の産物である」という主張に何を付け加えるのか、よくわからなかった。おそらくこの点についての著者の思考はもっと複雑で、ここではそれがやや簡潔に表現されているだけなのだろうが、「社会的次元」の意味について、もう少し掘り下げがあるとよかったと思う。