まとまり日記

業績をあげるために研究成果を発表する哲学者や歴史学者は、紙を無駄づかいしたり同僚をうんざりさせたりすること以外にはほとんど害をなさない(『動物の解放』人文書院、101頁)

酸素の発見についての四冊

科学史」の授業のために酸素の発見史についていくつか読んだので、その感想。ただし酸素の発見史に一冊すべて充てている本は日本語ではないと思うので、以下の感想は「化学史の入門書の中で酸素の発見史の部分に関するもの」ということになる。

化学史への招待

化学史への招待

今回紹介する本の中ではこれが一番勧められる。この本は日本の化学史家が化学史のトピックについて書いたものをまとめたもので、酸素の発見史は一章を充てられている。発見史の主要登場人物(シェーレ、プリーストリ、ラヴォアジエ)には一節以上割かれており、発見史の全体像を知る上ですぐれている(ただし各節は異なる化学史家によって書かれているので内容の重複はある)。またジェンダーと化学史の関わりとしてラヴォアジエ夫人にも一節を割かれていてその点も目配りがきいている。記述のレベルは平易で、化学の知識がほとんどなくてもついていける。

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

  • 作者: 中根美知代,小山俊士,三村太郎,矢島道子,中澤聡,隠岐さや香,河野俊哉,有賀暢迪,大谷卓史溝口元
  • 出版社/メーカー: ベレ出版
  • 発売日: 2013/11/01
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
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この本は若手の科学史家が科学史の様々な時点のトピックについて書いたもの。第6章「酸素はラヴォワジエによって『発見』されたのだろうか?」が酸素の発見に充てられている。上の本とは異なり一章で酸素の発見史についてまとめていることもあり、ラヴォアジエに焦点を当てている。記述は平易で読みやすい。ただ、題名からも示唆されるようにこの本は偶像破壊を目的にしているところがあり、それが少しいきすぎているように見受けられるところがあった。例えば結論部で「『酸素』は、ラヴォワジエによって『発見』されたのではなく、むしろ『新化学体系』の象徴として『発明』された言葉だと言えるのです」(152頁)とあるが、ここでは「酸素」という言葉が言葉自身とその指示対象の二重の意味を持って使われていて、初学者に向けて書くにはミスリーディングと思う。

科学史・科学論 ―科学技術の本質を考える―

科学史・科学論 ―科学技術の本質を考える―

この本は上の二冊と異なり一人の著者の単著である。各登場人物の実験や理論について上の二冊より詳しく書かれている。その分レベルは高く、初学者向けの授業でそのまま使うことはできない。また分量が多いので、全体の流れはやや見通しにくくなっている。ただし授業準備をするときにわからないところを確認するのには役に立った。

物質理論の探求―ニュートンからドールトンまで (岩波新書 青版 970)

物質理論の探求―ニュートンからドールトンまで (岩波新書 青版 970)

これは1970年代の著作で、上で取り上げた著者よりはだいぶ世代が上にあたる。全体としてはまとまりのない記述で、授業の準備に必要な「だれが酸素にかかわるどういう知見をいつ手に入れたのか」というわたしの知りたいことを理解するにはたいして役に立たなかった。(ただし後にニュートン錬金術のところを読むとそこはまとまった記述になっていたので、すべてがまとまりのない記述になっている訳ではない)。

研究費の配分をクジで決める

研究費の配分を(一部)くじで決めているという『ネイチャー』誌の記事を読んだ。これを行っているのはニュージーランドの健康科学評議会(Health Research Council of New Zealand)という政府の組織で、2015年にくじを導入した。

くじで研究費の配分を決めると言っても、すべての申請を一律に箱に入れてくじを引くわけではない。第一段階では申請書をスクリーニングして一定のクオリティに達しているものだけを残す。そして一次審査を通過したものから研究助成金の配分先をくじで選ぶ。

この方式をとる一つの理由は、非常に優れた研究計画と非常に劣った研究計画を見分けるのは審査委員にとって容易だが、多数ある中くらいのクオリティの研究計画に逐一順位をつけるのは難しいことがある。しかし配分先をすべて人為的に決める場合はそうした申請の間に差異を見いだして無理矢理にでも順位を決めなくてはいけず、それには多大な労力が審査員にかかる。またそうした審査の末落とされた申請者にも(実際のところたいした違いがないところで無理矢理違いを指摘されて落とされたものだから)不満が残る。

これに対してくじに委ねるやり方ではそうしたhair-splittingな(些細な)違いを見分ける必要は審査員に生じないので、彼らの労力を節約することができる。また「落とされた」申請者のほうも、自分の計画がある程度の水準に達していたことがわかり不満は出ていないという。

またくじを導入するもう一つのメリットは助成金配分におけるバイアスが軽減されることだ。いろいろな研究で明らかになっているとおり、科学者の人生の様々な局面でマイノリティに属する人たちは不利を強いられる。助成金の審査も例外ではない。しかしくじの導入で、少なくとも第一次選考を突破すれば採択されるかどうかは平等になる。

また審査員による選考ではどうしても着実で「堅い」研究計画に評価が偏りがちで、ハイリスク・ハイリターンな研究には不利になる。これもランダム性を導入することで、そうした研究が採択される可能性は高くなる。

記事によるとくじによる選考はニュージーランドだけでなくスイスや独の公的・私的助成金でも用いられているという。

記事の最後にはくじを導入するメリットとして採択された研究者にhumility(謙虚さ)をもたらすことが挙げられている。誰しも経験があることだが、自分の研究計画が採択されると研究者は「我は世界の王なり」といった気分になる。しかし採択にあからさまに偶然がかかわっていることがわかるとそうした傲慢さを持つことは少なくなる。「それがまさに科学に必要なものなのです」とこのアイデアの支持者である経済学者のMargit Osterloh氏は述べている。

"I insist that ..."は「わたしは・・・と主張する」ではない

日本語の哲学の論文を読むと、英語の要約部分で結構な確率で「I insist that p」が使われているのを目にする。例えばciniiで"I insist that"で検索すると、500件ぐらいヒットする。

英和辞書を読むとinsist that pは「~と主張する」と書いてあるので、著者の方はたぶん「わたしは~と主張する」という意味でこれを使っているのだと思う。

しかし"insist"はそういうニュートラルな意味での「主張する」ではない。わたしの語感ではinsistは、自分の立場に対する反対意見を聞いてもなおも(もしかしたら無理気味にでも)自説に固執する時に使う単語である。

これは英英辞書を見るとはっきりする。例えば

Longman Dictionary of Contemporary English (6E) Paperback & Online (LDOCE)

Longman Dictionary of Contemporary English (6E) Paperback & Online (LDOCE)

という学習者向けの辞書を見ると"to say firmly and often that something is true, especially when other people think it may not be true"と書いてあり、特に他人が自説が正しくないと考えている時に使うと書いてある。

この点はまたシソーラスを見るとさらにサポートされる。この辞書の類義語欄に挙げられているのはargueとかmaintainといった「論じる」に対応する定番の動詞ではなくて、demand, require, be adamantといった単語・フレーズである。

また"I insist that"は英語論文では他の類似のフレーズに比べてほとんど使われない。例えばgoogle scholarでこのフレーズを検索すると1万5千件あまりしかヒットしない。これに対して"I argue that"だと約54万5千件になる。出典欄にphilosophyを入れると差はさらに広がり"I insist that"は370件あまりに対して"I argue that"は2万600件とその差は55倍以上になる。

英作文上のこういう問題を避ける方法のひとつは、(月並みなアドバイスではあるが)疑問に思ったら英英辞書を引いてみることだ。英和辞書だと英単語の理解がどうしても日本語訳語のニュアンスに引きずられてしまうが、英英辞書だと単語の意味をほぼ正確に説明してあるので、こうした誤解をすることは少なくなる。もちろん英語のインプットをたくさんすることも重要で、「こういう局面ではこの単語を使う」という暗黙的理解が形成されると、場にそぐわない単語をみると「おかしいな」と感じることになる。

瀧本哲史著『ミライの授業』のメンデルの記述は大幅に間違っている

以下は瀧本哲史著『ミライの授業』のメンデルの項について準備していた文章である(文章については公開に当たってかなり手を入れているが、全体の構成については七月の段階でできていた)。そこでは同書の誤りについて説明し、そうした誤りがかなり簡単に気づけるものなので、著者にも幾ばくかの責任があることを述べている。

既報の通り著者の瀧本氏は逝去された。また著者に近しい人の回想によると、著者が本書を書いたのは深刻な病気からいったん回復した後のことであったようだ。この意味で以下で述べる誤りの責任についてはある程度の情状酌量ができるかもしれない。

しかしそうであっても誤りは誤りであり、可能であれば何らかの形で誤りを訂正してもらうのが適当だろう。この文章を公にすることにしたゆえんである。

高校生に出張授業をする準備のために『ミライの授業』

ミライの授業

ミライの授業

という本を読んだ。この本は中学生に向けて「なぜ勉強するのか」「〈成功〉するにはどう生きていったらよいか」を解説したものだ。わたしは著者の著作をいくつか読んできているが、この本は他の本よりも「煽る」部分が少なくもっとも出来がよかったと思う。特に最初のフォードやナイチンゲールから森鴎外に至る部分はとても啓発的である。

しかしこの本のメンデルにかんする部分(204-210頁)は大幅に間違っている。著者はメンデルについて次の三つのことを述べている。

三つの大きな問題

一つはメンデルが有名なエンドウマメの実験をダーウィン進化論の正しさを示すために行ったとしていることだ。著者はこう述べる。

さて、留学期間が終わり、地元の修道院に戻ったメンデルは「遺伝」の研究に取りかかります。当時、すでにイギリスの自然科学者ダーウィンが『種の起源』という本を出版し、進化論を唱えていました。...

しかし、ダーウィンの進化論にはどうしても説明できない難問がありました。

たとえば、赤い花と白い花を交配させたとき、その花はピンク色になるはずだ、というのがダーウィンたちの考えでした。ところが実際にはピンク色の花なんて生まれません。赤い花が生まれたり、白い花が生まれたり、結果はまちまちです。

ここに数学的な答えを与えることができれば、進化や遺伝の謎が解けるのではないか。

そう考えたメンデルは、壮大な実験に着手します。(206頁)

しかしこれは誤りであり、しかも誤りであることは簡単に示せる。というのは、メンデルの上述の実験が始まったのは1855年(前後)であり、ダーウィンが自説をはじめて公にしたのは1858年(ロンドンのリンネ協会においてウォレスの説と同時に発表)だからである。したがってメンデルが実験を始めたときには彼はダーウィンの進化論を知らなかった。当然のことながら、知らない説の正しさを示すために実験をすることはできない。*1

もう一つは、メンデルの業績が長い間顧みられなかった理由である。よく知られている通り、メンデルは自説を論文として1866年に発表したが(口頭発表はその前年)、学会からの評価は芳しくなく、1900年にメンデルの業績が「再発見」されるまで半ば無視されていた。この理由の一つとして、『ミライの授業』ではメンデルの実験結果が彼の理論からの予測値と合いすぎていたことがあると述べる。

しかし、学会ではまったく相手にされません。あわてて今度は、遺伝の法則について書いた本[ママ]を出版するのですが、これもみごとに無視されます。

なぜだと思いますか?

[...]

そしてもうひとつの理由は、メンデルが提出したデータが、あまりにも「できすぎ」なものだったこと。つまり、メンデルの「分離の法則」に従うと、4000個のエンドウ豆のうち背の高い3000個と、背の低い1000個が生まれることになります。

でも、「背の高い苗はぴったり3000個でした」と発表されたら、逆にあやしく感じますよね?...ところがメンデルが提出したデータは、「ほぼぴったり」の数字で、自分の法則を裏付けるものでした。(207-209頁)

しかし、これも全くの誤りである。たしかに、メンデルの実験結果が彼の理論からの予測値と合いすぎているという指摘はあった。しかしこの点に触れたのはW・F・R・ウェルドンが1901年にカール・ピアソンへの手紙で言及したのが最初とされている。*2。したがってメンデルの実験が1900年までに無視された理由にはなり得ない。*3

第三の主張は、エンドウ豆の実験に対する学会の反応を受けたメンデルの対応、およびメンデルの実験が学会で無視され続けた理由についてである。よく知られている通り、メンデルはエンドウ豆の実験について1865年にブルーノ自然科学会で発表し、その上でその成果を1866年に論文にしたが、学会の反応は芳しくなかった。例えばメンデルは当時の植物学の権威であるネーゲリに論文を送り、さらにエンドウ豆の実験の追試を行うことを依頼したが、ネーゲリはそれを実際には行わなかったらしい。『ミライの授業』では、メンデルの説がその後も受け入れられなかったのは、自説の正しさにひとりで満足し、それに閉じこもったメンデルの態度にあったとしている(209-210頁)。

一方、優秀であるがゆえに周囲の協力を求められない人がいます。

自分は絶対に正しいのだし、正しいことをやっていれば、かならずいつかは認められる・仲間なんて必要ない、と考えてしまう人です。

その代表例ともいえる人物を紹介しましょう。「メンデルの法則」で有名な植物・遺伝学
者、グレゴール・メンデル[...]です。(205頁)


彼はシャイな性格で、あまり人との交流を好みませんでした。数学的な正しささえ証明すれば、いつか認められるはずだと考えていました。パートナーを求めず、「仲間」をつくろうとせず、孤独に研究を続けていたのです。(209頁)

しかし、これにも問題がある可能性が高い。というのは、手元にある日本語で読める生物学史の本(中村禎里『生物学の歴史』、矢杉龍一『生物学の歴史(上)(下)』、ボウラー『進化思想の歴史(上)(下)』、木村陽二郞『原典からの生命科学入門』、メンデル『雑種植物の研究』訳者解説)を見ても、メンデルが自説に自己満足し、仲間を求めなかったことが学会に広まらなかった原因だといったことはまったく書かれていないからである。

誤りの責をどこまで著者に向けるべきか

このように『ミライの授業』のメンデルの記述には大きな問題がある。ただしこれには情状酌量の余地もある。著者は科学史家ではないので、既存の文献をもとにメンデルについて記述している。実際、メンデルの項目に関する参考文献として

神が愛した天才科学者たち (角川ソフィア文庫)

神が愛した天才科学者たち (角川ソフィア文庫)

を挙げているが、この本もメンデルの実験の意図として同じことが書かれている(161頁)。しかもこの本の紹介によると、この本の著者である山田大隆氏は「科学史学会の北海道支部長」を勤めており、肩書きだけから見ると信頼できそうである。その意味で科学史の専門家でない瀧本氏がこれを信じてしまうのはやむを得ない面もある。

しかしだからといって氏が全面的に免罪になるわけではない。第一に、上の誤りは「通説では○○と書かれていたが、最近の研究ではそうではないことが明らかになった」というような誤りではない。例えば(ちょっと古いかもしれないが)進化論史や生物学史の通史として有名で、日本語で書かれている本

生物学の歴史 (上) (NHKブックス (468))

生物学の歴史 (上) (NHKブックス (468))

には上で述べたようなことは書かれていない。

第二に、確かに参考にした本が信頼できなかったのは不運だったが、上で書いた誤りは別のルート(そして上で挙げた通史よりももっとアクセスしやすい資料)をチェックするとすぐにおかしいと気づく類の誤りだからだ。

例えば日本語のウィキペディアメンデルの項を見ても、ダーウィン進化論を証明しようとメンデルが実験をしたということはまったく書かれていない。またメンデルの観察値が理論値に近すぎるように見えるので(再発見されるまで)顧みられることがなかったといったことも書かれていない(さらにこの点については英語版のウィキペディアをみるとフィッシャーの論文に言及されている)。

もちろん、(すべての大学教員が強調するように)ウィキペディアは学術的には必ずしも信頼できないので、これらのエントリを読んだだけでは上の誤りがきちんと証拠立てられたとは言えない。しかしこうしたエントリを読んで「何かおかしい」と気づくことを求めるのは過大な要求ではない。

(これは山田氏については瀧本氏よりももっと罪が重いということを意味する。率直に言って、学会でそこそこの地位に就いている人が上のような初歩的な誤りを書くことは信じられないし、山田氏の専門家としてのクレディビリティを揺るがすものである)

また第二の点については、著者が参考文献欄にあげているもう一つのメンデルに関する本、つまり

に書かれている。しかしこの本ではこの疑惑がメンデルの研究が忘れ去られた原因だとは書かれていない。ただしこの疑惑についてこの本は(すこしだけ)ややこしい書き方をしている。というのはこの本の疑惑のついての記述の前後の流れはこのようになっているからだ。

  • なぜダーウィンではなくメンデルが遺伝の法則を見つけられたのか(55-58頁)
  • メンデルの疑惑(59頁第一段落)
  • 1865年の学会発表における聴衆の(芳しくない)反応(59頁2段落目以降)

このような並びになっていると、斜め読みしかしなかった読者はメンデルの疑惑とメンデルの研究の受容に関係があると思うかもしれない。

しかしこの点からの情状酌量の程度は限られている。というのはゴールドスミスの本は(書影から推察されるように)子供向きの本としてかなりわかりやすく書かれており、すこし丁寧に読めば上のような誤解はしないはずだからだ。子供向けにわかりやすく書かれている本の論旨を正確に理解するのは、著者に課するには決して高いハードルではないだろう。

第3の点については、著者に責をどのくらい求めればよいのかわからない。というのは、著者の記述が何に基づいているのかわからなかったからだ。本書の参考文献欄にあげられている本の中でメンデルの記述がありそうな本は上で取り上げた二冊だが、それらにはこのことは書かれていない。日本語で比較的手軽に読める生物学史・進化論史の本に上述の点が書かれていないことはすでに述べた。

したがって、この点についての著者の責は、もしかしたらまったくない可能性もある(わたしが間違っている)し、きわめて軽い可能性もある(例:記述を信じても仕方がないような本に書かれていたことを参考にしている)し、きわめて重い可能性もある(例:資料に基づかない全くの想像で書かれている)。

まとめ

これまで『ミライの授業』のメンデルの項における誤りについて述べてきた。また、(専門家に見える人の本に誤りがあったという不運もあったが)日本語の文献やウィキペディアを読むだけで、少なくとも「何かおかしい」ということに気づく機会があったことも述べた。そういった意味で、この誤りの責任は著者にもあると思う。

*1:また最近のメンデル研究では、メンデルは自らが遺伝の研究をしているつもりはなく、当時盛んだった雑種の研究の中に自らの研究を位置づけていたという。これについては松永俊男: メンデルは遺伝学の祖か. 生物学史研究 94:1-17,2016を参照。

*2:その後R・A・フィッシャーが1911年の講演でこの点を追求し、1936年に論文の形で公表した。

*3:この点については

Ending the Mendel-Fisher Controversy

Ending the Mendel-Fisher Controversy

  • 作者: Allan Franklin,A. W. F. Edwards,Daniel J. Fairbanks,Daniel L. Hartl,Teddy Seidenfeld
  • 出版社/メーカー: Univ of Pittsburgh Pr
  • 発売日: 2008/03/28
  • メディア: ペーパーバック
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を参照(16-18頁)。この本はインターネットで見られる。なおこの本によれば、メンデルはこの点において不正を犯したわけではないということだが(p. x)、わたしはこの本を詳細に読んでいないので、これ以上コメントしない。

21世紀の哲学教科書

授業準備のために最近

Philosophy: Asking Questions - Seeking Answers

Philosophy: Asking Questions - Seeking Answers

を買ってめくっているが(H/T @kasa12345)、細かいところで工夫があって、21世紀の哲学教科書という感じがする。具体的には以下のような点で工夫を感じた。

  • 冒頭で「哲学は我々の生活に関係している」として、菜食主義の例が挙げられている。
  • また冒頭2ページ目で、この本は西洋哲学しか扱わないことを宣言し、のみならず中国哲学インド哲学などの世界の哲学の入門書を紹介している。
  • エリーザベト3世(ボヘミアのエリザベス)やスーザン・ウルフ、ルース・ベネディクトのような女性の哲学者・研究者を比較的大きく取り上げている。
  • 文中の例で出てくる名前がTomやFredといった西洋式の名前だけでなく様々な文化圏で見る名前が取り入れられている。例えばAshni(ヒンドゥー系)、Mehdi(アラブ系)、Mei(日本系)、Chang(中国系)などバラエティに富んでいる。
  • 「知識とは何か」という章ではゲティア事例の扱いが比較的小さい。
  • 附録で哲学専攻の有名人や哲学専攻者の卒業後の年収を紹介して、哲学を勉強することの俗世間的利益を強調している。
  • 近世の哲学者の原典を引用・参照するときには文字通りの原典ではなくてEarly Modern Textsを挙げている。

齋藤孝「質問力」

質問力 ちくま文庫(さ-28-1)

質問力 ちくま文庫(さ-28-1)

を読んだ。よい質問をするための方法を教える本。著者はこれからの社会を生き抜くためにはコミュニケーション能力が大切で、それは「はじめて出会った人と三分で深い話をする能力」と特徴づける。そしてそうした能力のためには〈深い対話〉へと導くための質問力が重要だと述べ、そうした技法を解説する。

しかしよい質問をするためには、よい質問とはどういうことかを簡単にでも知っておかなくてはならない。したがって著者は何とかして「よい質問」とはどういうものかを説明しようとするのだが、応用に役立つ仕方でうまく説明されていない。たとえば著者は、よい質問とは「具体的かつ本質的な質問」だと言うのだが、それを知っても次からよい質問ができるとは思えない。

本書のもう一つの(そして深刻な)問題は、この「質問力」を身につけてどういう役に立つのかわからないところだ。これは、この本に出てくる例の多くが雑誌の対談である点に現れている。雑誌の対談とは、相手が語るに足るものをもっていてそれを純粋に知りたい、という動機付けがある場合のコミュニケーションである。これは普通の会話、つまりはことばを介したグルーミングとは異なる。

そしてこうした「深い」コミュニケーションをおこなう機会が日本社会の中でどれだけあるだろうか。仕事としてインタビューをする人にはもちろん役立つだろう。しかしたとえば大学生がこうした質問力を身につけて就職の役に立つだろうか。就職の面接でこんな深い会話をする必要はほとんどの場合ないのではないだろうか。

とはいえ、この本ではたくさんの「よい」質問の例を提供しているので、よい質問をしたいと思う読者は――著者の理屈付けに同意しなくても――例にたくさん触れて、その中から自分なりの「よい質問」の仕方を学ぶことができる。

例えばよい質問をする一つの方法は、話から導き出される(ひろい意味での)論理的帰結を考えることだ。黒柳徹子淀川長治にした質問――「(『日曜洋画劇場』で映画を)800本も紹介していたらおもしろい映画ばかりではないでしょう」――がひとつの例になる。これは「800本の映画を紹介した」という淀川についての事実と「よい映画はそう多くない」という一般的な常識を組み合わせることで出てくる。このように「よい質問」の例について「それを思いつくにはどのようにアタマをはたらかせればよいか」を考えれば、よい質問を思いつくための技法を得る役に立つだろう。

英語の固有名詞の発音の表記に迷ったときに

https://youglish.com/

英単語の発音をその単語が実際に発音されているYouTubeのビデオから取り出してくることで教えてくれるサイト。固有名詞の発音を知りたい時には便利そう。