まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

Live Science誌の種問題についての記事に拙コメントが掲載

先日Natureなどに寄稿経験のある科学ジャーナリストであるAmanda Heidt氏から、種問題についてのインタビューを受けました。

Heidt氏は他の生物学者などにも取材して、種問題の現状についての記事を一般向けオンライン科学雑誌であるLive Scienceに寄稿しましたが、その中でわたしのコメントも紹介されています。

よろしければご笑覧ください。

「科学」になった国際政治学にもやっぱり「知的謙虚さ」が必要だ

以下は先日刊行になった監訳書『「科学的に正しい」とは何か (ニュートン新書)』の宣伝のためにウェブメディアに執筆しようと計画していたものです。しかし事情により計画がうまくいかなかったので、用意していた下書きをブログ用に編集したものを掲載します。

新しい国際政治学は「知的謙虚さ」を欠くか

昨年末より、国際政治学のあり方についてX(旧ツイッター、以下旧名を用いる)上で大きな論争があった。きっかけは著名な国際政治学者である故高坂正堯氏の講演録の出版を契機にした雑誌『フォーサイト』の鼎談だった。この鼎談で、軍事評論家で東京大学専任講師の小泉悠氏が、国際政治学者の多湖淳氏(早稲田大学)の著作『戦争とは何か-国際政治学の挑戦 (中公新書 2574)』に触れて「知的謙虚さを感じさせない」と発言した。また慶応大学教授の細谷雄一氏が同鼎談やそれに続くエッセイにて多湖氏らの実証主義的な研究方法に対して同様の角度から疑念を呈した。

ここでの「知的謙虚さ」がどういう意味なのかは、元々の小泉氏の発言が断片的なので確定的なことは言えない。しかし鼎談の全体の流れから見てみると、国際政治学内に複数のアプローチがあることを前提とした上で「自分のやっていること(自分の研究手法)だけが正しい」とは考えずに、別の研究手法の価値を認めることと思われる。

実際、多湖氏の上記の著作を読むと、多湖氏がその流れに棹さす新しい「科学的」な国際政治学を紹介すると同時に、それと旧来の国際政治学を比較し、後者を批判する箇所がある。多湖氏が唱道する新しい国際政治学では、例えば15世紀から現在までの長期間にわたる戦争や内戦・紛争に関するデータを集め整理して、ゲーム理論的な枠組みや回帰分析などの統計的手法を用いて、「どういう要因が戦争や内戦の発生に寄与するのか」「戦争ばかりしている国・戦争をしていない国にはどういう特徴があるか」といった問いに答えようとする。

これに対して旧来の国際政治学では、例えば戦争が起こりやすい状況についての大雑把な説明はできるが、個別の状況に合わせた細やかな分析はできなかったり、そもそも議論がいくつかの「イズム」に則ったもので証拠に基づく議論になっていなかったという批判がなされている(例えば同書19頁)。

この上で小泉氏のコメントを敷衍した批判をすると、数量的・実証主義的な「新しい」国際政治学だけが正しいというような独善的な態度ではなく、鼎談の参加者が行っているような旧来のアプローチのよさも受け入れることが重要だ、というあたりになるだろう。

「知的謙虚さ」やて、それなんぼのもんじゃい

この小泉氏・細谷氏のコメント・議論に対してツイッターで大きな批判があった。批判の論点は多岐にわたるが、その一つは多湖氏の研究を批判するのに「知的謙虚さ」なるものに訴えること自体を批判するものである。例えば、「知的謙虚さ」でツイッターを検索するとそうしたツイートがたくさん出てくる*1。批判の要点を乱暴にまとめると、研究(者)を評価するときに「知的謙虚さ」のような心構えに言及するのはある種の人格批判になりかねず、評価の手法としては筋違いであるといったところだろうか。

わたしの専門は科学哲学であり、国際政治学ではない。従ってここでは多湖氏や多湖氏のような国際政治学者が知的謙虚さを欠くかどうかは議論しない。しかし、ある研究者を批判するときに「知的謙虚さ」というような心構え・態度に訴えること自体の是非については議論できる。というのは、『ポストトゥルース』(人文書院)で知られる米ボストン大学の科学哲学者リー・マッキンタイアが新刊『「科学的に正しい」とは何か (ニュートン新書)』(拙監訳)で議論するように、ある種の心構え・態度を持つことは科学が成功してきた重要な理由の一つかもしれないからである。

科学的態度が「科学の特別さ」を説明する

これはどういうことだろうか。この本でマッキンタイアは、尊敬できる科学者は特別な種類の心構えや態度を身につけており、それが科学を科学たらしめ、科学の成功を作り出しているのだと論じる。その態度とは、自分や他の人の説を経験的証拠に照らして吟味する態度であり、さらに自分の説が証拠に反することが分かった場合はそれを投げ捨てることを厭わない態度である。マッキンタイアはそれらを一括して「科学的態度」と名づける。

これがなぜ重要なのだろうか。マッキンタイアによると、「科学的態度」を試金石にすることで、これまで科学哲学者が成功してこなかった「科学」と「科学のまがい物」を分けるという課題が解けるというのである。「科学のまがい物」とは、創造論*2のような疑似科学陰謀論、人為的気候変動の否定論のように、「自分の意見は科学的に正しい」と主張するが実際は証拠に基づいた議論になっていないものである。科学哲学では「科学」と「科学のまがい物」を区別できる基準を長年探してきた。これは「線引き問題」(境界設定問題)と呼ばれるが、これまでの議論により両者を分ける境界線は簡単には見つからないことが分かっている。

これに対してマッキンタイアは、そうしたものを支持する人たちが総じて上の「科学的態度」に欠けていることを指摘する。例えば陰謀論者は自らの説と反する証拠を突きつけられても、「それは政府によるでっち上げだ」と証拠をあまりにも簡単に退けてしまいがちだ。こうした対比が成り立つのなら、この科学的態度の有無から「科学」と「科学のまがい物」をうまく区別することができるようになる。

それだけではない。マッキンタイアによると、この科学的態度を持っていたことが、科学が多大な技術的成功に結びついた大きな要因でもある。マッキンタイアはこれを医学の発展史から示そうと試みる。医学という分野は今でこそ人々の健康に大きく寄与するとされているが、19世紀半ばまでは非常に悲惨な状態で、瀉血に代表される医師が行う施術の多くは実際は患者に悪影響を及ぼすものだった。しかしマッキンタイアは19世紀後半から20世紀前半の米国を例にして、科学的態度を尊重できる体制が医学界の中で整うことで医学がいかに変わってきたかを描写し、こうした態度を科学者集団が身につけることがその分野が成功するために必要であることを示そうとする。

したがって、マッキンタイアが正しければ、きちんとした「心構え・態度」を持つことは科学や科学者にとって大切だということになる。

国際政治学に必要な「知的謙虚さ」

こうした観点から見てみると、ある研究分野における研究者の態度や心構えを云々することには立派な意義があり得ることが分かってくる。もちろん、マッキンタイア自身が議論するのは「科学的態度」だけで「知的謙虚さ」は扱わないので、彼の議論が国際政治学の状況にストレートに当てはまるか考える必要はある。しかし、上でいうような知的謙虚さが国際政治学にとって大事であることを見るのはそれほど難しくない。

というのは、国際政治は多数の要因が複雑に絡み合っている領域であり、また国際政治学はその研究で得られた学術的な知見を現実世界に応用することを一つの目的としているからだ。実際多湖氏の著書でも現在日本への政策提言が試みられている。すると従来の研究からの知見が全く的外れであることが示されない限り、従来型の研究を一刀両断的に退け外部からの声に耳をふさぐことは、有益な考え方や証拠のリソースの活用の道をふさぐに等しい。その意味で、国際政治学が「科学」として歩みを進めるためにも知的謙虚さが重要になる場面はあるだろう。

「無知」と「無知の知」の間で

ここまで「態度」や「心構え」が「科学」になろうとする国際政治学にとっても重要であることを述べてきた。しかし「態度」に訴えることを批判する研究者の考えにも一理ある。というのは、こうした「態度」をある人が持っているかどうかの判定は本質的に曖昧なものにならざるを得ないからである。するとこうした態度の有無で研究者個人や分野全体を裁断すると、結局のところある種の水掛け論になってしまうという危惧が生じるからだ。

マッキンタイアも認めるとおり、ある人が特定の態度をもっているかをきちんと判定するのは時に難しい。それでも創造論者や陰謀論者については多くの人が「科学的態度をもっていない」と言いたくなるのだから、この概念を使ったからといって、自分の思うがままに他人を裁ける訳ではない。

また、「知的謙虚さ」に訴えること、そして自らの知的謙虚さを誇ることが従来型の国際政治学に対する完全な免罪符になるわけではないことも述べておく必要があるだろう。本稿で問題にしてきた「知的謙虚さ」はある種の「無知の知」とも解釈できるだろうが、しかし研究者として、学問の徒として、無知に安住していても前進はないからだ。その意味で「無知」と「無知の知」の間を我々は歩んでいかなくてはならないのである。

*1:例えば、これ(同じ著者のこれも参照)、これこれ(同じ著者のこれも参照、これなど。

*2:生物の究極的な由来を神のような存在者による創造にあるとし、進化論を否定する議論。

科学的態度の重要性と科学否定論者との対話

(タイトルなどはAIに考えてもらいました)

最近ほとんどエントリを書けていませんが、多少は仕事をしておりまして、本日監訳をした書籍が出版になります。

これは科学哲学者かつ前著『ポストトゥルース』が話題になったリー・マッキンタイアの本です。この本については後でエントリを書くつもりですが、一言で言うと科学者がもつ「態度」に着目して、科学と非科学にまつわるさまざまな問題を分析していく本です。

「科学と非科学」というと、科学哲学に知識のある人は線引き問題(境界設定問題)を思い浮かべると思います。これは科学と科学でないもの(占星術創造論、陰謀説など)を区別するような基準を探し求める問題で、前世紀の科学哲学では主要な問題の一つでした。これが議論された背景の一つが、アメリカでの創造論の隆盛を背景に科学と疑似科学を区別することが社会的な意義を持ったことがありました。

しかし伊勢田哲治さんの本『疑似科学と科学の哲学』で描写されているように、両者を区別することは簡単ではなく、さまざまな試みが提案されてきましたが、いずれも批判に曝されてきました。

本書ではマッキンタイアは科学者が持っている二つの態度――経験的証拠を重視する態度、そして自説に不利な証拠が出た場合に自説を破棄することも厭わない態度――を「科学的態度」と名づけて、科学を疑似科学陰謀論などから区別するものとして重要であると主張します。

本書の後半ではこの「科学的態度」という概念を用いて、科学とそうでないものの境界線にある問題――気候変動などについての否定論、陰謀論、研究不正、社会科学の科学性――などについて分析していきます。

ということで、科学とそうでないものの境界線に関わる問題に関心のある読者にとっては興味のある論点が詰まった本です。書店などで手にとっていただければ幸いです。

なおマッキンタイアについては来月にももう一冊訳書が出版される予定です。

こちらは出版社からの紹介を見ると、本書で「科学的態度」を持っていないとされた人々――否定論者、陰謀論者、疑似科学支持者など――とどう対話するかについて書かれているようです。本書ともどもよろしくお願いします。

ChatGPTは数字語呂合わせの文章を適切に作れない

ChatGPTに数字の語呂合わせになる文(「いい国」→1192のようなやつ)を作ってくれるように頼んだが、全然できなさそうなことがわかった。言語系のタスクは得意だと思っていたので(また語呂合わせになる文を作るプログラムを組むのは簡単だと思うので)意外だった。

数字語呂合わせのなんたるかをわかっていないchatGPT

不満研究事件・「『わが闘争』論文」について

さて以前のエントリで述べた不満研究事件だが、このプロジェクトのメンバーのプラックローズとリンゼイが書いた本が翻訳されるという(原著についてもわたしは未読)。この本が話題になる理由の一つには彼らがこの事件を起こしたからだろう。しかしわたしは、少なくとも不満研究事件に関するかぎり、彼らの主張の解釈にはかなり注意が必要で、きちんとした検討なしに額面通りうけとることはできないと考えている。このエントリではそれを一つの偽論文を題材にして述べる。

なおこのエントリは長くなってしまった(一万字を越えた)ので目次を付けた。

不満研究事件と偽論文の概要

事件全体については詳しくは以前のエントリを見てほしいが、簡単に説明すると上の二人にボゴシアンを加えた三人(以下BLP)が、彼らが「不満研究」と呼ぶ学問分野(ジェンダー研究など)を対象にして学術雑誌に偽論文を投稿し、その一部が採択されたというものだ。彼らによると、これらの偽論文は方法的・倫理的に大きな問題がある一方、不満研究が支持するイデオロギーに沿った主張をしている。したがって偽論文の採択はこうした分野がイデオロギーに駆動されて腐敗していることを示すとする。

とくに「フェミニストの『わが闘争』論文」(FMK)*1は、3600語近くがヒトラーの『わが闘争』からのリライトから構成されているにもかかわらず、Affiliaという女性学・ソーシャルワークの学術雑誌に採択されたという。

この論文が採択されたことは相当にインパクトのある事柄だと見なされているようで、日本語でこの事件について書かれている文章でも必ずといってよいほど言及されている*2。その意味でこの論文はBLPのプロジェクトのフラッグシップ論文の一つといってよいだろう。

しかしわたしはこの論文がBLPの主張を立証しているかはかなり微妙で、少なくとも彼らの主張を額面通り受け取ることは難しいと考える。

まずBLPの主張を整理しておこう。彼らはこの偽論文が採択されたことは不満研究(この場合はフェミニズム)の学術的腐敗を示すと主張する。その理由はおそらく〈『わが闘争』はどの部分をとっても検討に値しないほど倫理的・学術的に問題であるにもかかわらず、フェミニストは政治的な流行に乗った議論と学派内の文献を踏まえてさえいればヒトラーの本の叙述そのものであっても受け入れることを示す〉からだろう*3。問題はこの論文が採択されたことがこの結論を導くかどうかである。

偽論文は『わが闘争』とどこまで似ているか

まず問題になるのは、この論文の採択版と『わが闘争』*4がテキストの点でどのくらい似ているかだ。このためにわたしは両者を剽窃発見のための比較サイトで比較してみた。すると19個の段落で類似した部分が見つかった*5。その例をいくつか紹介する。

採択された論文(拙訳) 『わが闘争』の記述(平野・将積訳)*6
したがって、解放運動としてのフェミニズムの有効性の改善(あるいは、現時点では、有効性の回復)の問題は、根っこでは他の被抑圧者のグループとの団結を維持する問題なのである。これが正しいのは次のような理由からに他ならない。すなわち、運動の成功はパフォーマティビティに由来するのではなく、はっきりと認識できる道徳的方向性に由来するからである。*7 民族の政治的力の回復の問題は、第一に次のような理由からしてすでにわが国民の自己保存衝動を健全にする問題である。つまり、あらゆる準備されつつある外交政策や国家自体の評価というものは、経験からすれば、現在保有している武器によるよりも、認識されているか、あるいはとにかくも想像されている国民の精神的抵抗能力によって一層大きく左右されるものである。(433頁)*8
どんな人でも、自らの行動が他人の苦境を悪化させるかもしれない可能性を考慮せずに、自らの主張だけに資するような欲張りな要求を出す場合は、同胞性に基づく運動を「犯す」ことはたしかであるが、だが、チョイスフェミニストがその影響を自らの利益のために利己的・搾取的に用いるならば、彼女らもまた同胞との感情的絆を破壊するものである。[…] その時は、そうしたチョイスフェミニストは自身を抑圧に抗する者と考える本当の権利はなく、被抑圧者のコミュニティとの同胞性を主張する自らの権利を害するのである (Gibson, 2014)。むしろ彼女は自らの特権の扱いに失敗し、同胞性を損ない、社会的不正義を持ち込む (Greenberg, 2014)。そして彼女は同時に将来の対立を誘発し、ほとんどの場合に抑圧を改善する努力にとって損害をもたらすことになるのである。*9 (六) [...] もし労働者が公共の福祉や国民経済の存続を考慮せずに、自己の力に頼ってゆすりのように要求を出せば、かれらはほんとうの民族共同体の精神を犯すことはたしかであるが、だが、企業家が非人間的、搾取的な経営管理をして国民的労働力を濫費し、その汗の結晶から数百万の金をぼろもうけするならば、かれらもまたこの共同体をはなはだしく破壊するものである。その時は、かれらは自分が国民的であると振舞う権利も民族共同体について語る権利もなく、かれらは利己主義的なルンペンに過ぎない。というのも、かれらは社会的不和をもち込むことによって、どっちみち国民にとって損害になるに違いない後の闘争を誘発するからである。(442頁)*10
言い換えると、もし我々フェミニストが選択の誘惑や新自由主義の虚飾や男性からの承認に惑わされず、抑圧された人々(とくに人種差別、植民地主義帝国主義障碍者差別、同性愛者嫌悪、階級主義およびフェミニズムと交差するほかのすべての形の抑圧によって支配された人々)の利益を断固として守っていたならば、そしてまた、社会を作り替えるという関心事においてフェミニストが女性の選択への自らの意思を守るのと同じ強さでもってあらゆる形の抑圧に反対することにコミットすることを誓っておれば、そしておなじ意志の固さでもって抑圧されたすべての人々の解放を要求していれば、非常に高い確率で今日我々は平等であるだろう。*11 (一)[...] もし、ドイツ労働組合が戦時中に少しの容赦もなく労働者階級の利益を守ったとすれば、また、もし組合が戦時中でさえも当時の配当金に貧欲な企業家階級に対してひんぱんにストライキでもってかれらが代表している労働者の要求に同意することを強いていたならば、さらにまた、もし組合が国家の防衛という関心事についても同様に熱狂的に自分のドイツ主義信奉を公言し、また、もし組合が同じように他のことを顧慮せず祖国に属するものを祖国に与えていたとするならば、けっして戦争に負けていなかったことだろう。(437頁)*12

では両者はどのくらい似ているだろうか。わたしが最初に感じたのは「なんか微妙」ということである。両者は確かに似てなくもないが、フェミニズムの専門用語や引用などを入れ込んでいるお陰で両者の類似性はよくわからなくなっている。

ただしこの点については二点注釈が必要である。一つは、BLP自身もこの点をある程度認めて予防線を張っていることである*13

もう一つは、採択された論文における文章はAffilia誌に最初に投稿した際の草稿とは異なっている可能性があることである。査読報告を読めばわかるように、BLPはこの雑誌の査読者の求めに応じて元の草稿を(それなりに、あるいはかなり)改変している。BLPは査読報告のファイルの中で査読者への返答を載せているので、そこで改変が明らかになっている部分については上では引用しなかった。しかし査読者への返答でBLPは「全般的に書き方を見直した」と述べている箇所があるので、それでも元の草稿と同じかどうかはBLPがもとの原稿を公開していないため確言できない。ただし上の注でも述べたように、三番目の文章はAffilia誌の査読者が査読報告の中で引用しているので、こうした変更がなされる前の原稿であると推定できる。

ただ以下のことは言える。上の左の列だけを見てこれらが『わが闘争』の文章から由来することを見抜くのはほとんどの人にはほぼ不可能である。『わが闘争』を暗記するほど読み込んでいる人ならば気づくかもしれないが、そうでない人が両者の類似性に気づけると期待するのは全く現実的ではない。さらにBLPは『わが闘争』からの模倣文の間に自らが書いた文章を挟み込んでいるので(上の引用で「[...]」とした部分)、ますます気づくのは難しくなる*14

したがって、雑誌の編集者・査読者をこのテキストが『わが闘争』由来であることを見抜けなかったからといって非難することはできないし、偽論文のテキストを『わが闘争』とほぼ同じと考えるのもかなり微妙であるということができる。

偽論文が採択されたことはどこまで問題か

もしかしたら読者の中には「学術論文と『わが闘争』では文体が違うのだから、仮に模倣元を特定できなかったとしても、『何かがおかしい』ことは気づいてしかるべきだったのではないか」と考える人がいるかもしれない。

しかし雑誌の査読者の中にはまさにそのことに気づいていた人がいたのである。じつはこの論文はAffilia誌の前にFeminist Theoryという雑誌に投稿されて却下されている。そしてこの雑誌の査読報告を見ると、二人の査読者がともにこの草稿のトーンが学術論文とは合わないことを指摘しているのである。例えば一人の査読者は草稿中のあるフレーズが「アカデミックなテキストにしてはすこし大げさかもしれない」と指摘しており*15、(このことだけが理由ではないだろうが)この雑誌では却下されている。もちろんこの論文が別の雑誌で最終的に採択に至ったのは事実だが、査読者の中にトーンの違いに気づいていた者がいたこともまた事実である。

倫理的問題?

また「『わが闘争』は倫理的にきわめて深刻な問題のある著作なのだから、それを模して書かれた論文には倫理的にきわめて深刻な問題のある事柄が書かれているのではないか」と考える人もいるかもしれない。

しかし上の表の左の列を見てもらうとわかるが、偽論文の記述は――それに賛成するかどうかは別にして――(人種差別のような)きわめて深刻な倫理的問題がある主張にはなっていない。実のところ右の『わが闘争』からの記述もそれ自体で深刻な倫理的問題を含んだ記述にはなっていない。実際模倣元になった第一巻第12章ヒトラーがナチ党の最初の発展時代を描き、併せて党発展のために解決しなくてはならなかった問題を描写する章であり、例えばこの前の章(第11章=ヒトラーの人種思想が前面に出ておりユダヤ人蔑視に満ちあふれている)に比べると「どこをとってもきわめて深刻な倫理的問題がある」というような状態にはなっていない。

政治的アジテーション

もう一つの反論としては、「『わが闘争』というのは結局のところ政治的アジテーションの書なのであり、そこからの模倣文を含む論文はきちんとした議論を含まない単なるアジテーションに過ぎないのではないか」というものがあるだろう。

しかしこの点も複数の査読者によって指摘されていた部分なのである。例えばFeminist Theory誌の査読者はいくつかの鍵概念に十分な説明がされておらず、「○○すべし」と主張する言明がそこかしこでなされていると指摘する。Affilia誌の査読者の一人も偽論文の一つの節の記述は「非理論的過ぎる」と述べ、一般的な学術論文のカテゴリーではなくて「コメント」とか「論説」のセクションに投稿する可能性を示唆しているのである。

また採択された論文の中で『わが闘争』との類似点が見つかった部分は全体の1/5足らずであり(もちろんもっと見つかる可能性があるが)、その他の部分で議論を行っている可能性がある*16

さらに言うと、仮にこの論文がアジテーション的論文だったとしても、このことがただちにこの分野が腐敗していることを示すわけではない。というのは一般に腐敗してないとされている分野でも、アジテーション的論文は存在するからである。例えば日本の哲学者でいうと戸田山和久氏には自ら「政治的パンフレットに近い」と称した論文があるし*17、その他の論文・本についても「特定の哲学的立場をプロモートする」という性格が強い(そしてわたしはこのことを必ずしも悪いこととは考えていない)。

もし「アジテーション的論文が一篇あるだけでその分野が腐敗していると診断する」のが行き過ぎなら、「どういう時に(どういう頻度で)アジテーション的論文を書くのが許されるのか」というのが問題になる。しかしそれについて議論するには分野についての知識がもっともっと必要であり、簡単に「アジテーション的論文があるからこの分野は腐敗している」とは言えない。

結論

こうした点から見ると、「『わが闘争』論文が採択されたことが不満研究の腐敗を示す」と考えるには重大な疑念が残るといわざるを得ない。もちろんこのことは――以前のエントリで述べたように――この事件に際して不満研究側の雑誌編集者・査読者に問題がないとわたしが考えていることを意味しない。例えば論文を採択する際にはもっと綿密な議論をすることを著者に求めるべきだっただろう。しかし「編集者などに問題がある」ということと「分野全体が腐敗している」ということはだいぶ異なる事柄であり、この偽論文から後者を論証されたと言うのはやはり言い過ぎに思えるのである。

*1:これはBLPが論文に付けた愛称・略称。実際の論文名は"Our Struggle Is My Struggle: Solidarity Feminism as an Intersectional Reply to Neoliberal and Choice Feminism"

*2:例えば、上の本の宣伝文でも言及されるようだ。

*3:Project Summary, p. 8.

*4:なお後に述べるように、BLPが模倣したのは『わが闘争』全体ではなくて、その第一巻第12章からである。Project Summary, p. 8.

*5:ただしこの比較は手作業でおこなったので、他にも類似点がある可能性がある。

*6:以下では訳文にある段落分けは省略している。

*7:原文:Thus, the question of improving (or, at this point, regaining) feminism's effectiveness as a liberatory movement is, at root, a question of maintaining solidarity with other oppressed groups. This is the case for no other reason than because movements derive their success less from performativity than from a clearly recognizable moral orientation (Reicher et al., 2006). (p. 8)

*8:以下英訳はここから。The question of regaining our people's political power is primarily a question of recovering our national instinct of self preservation, if for no other reason because experience shows that any preparatory foreign policy, as well as any evaluation of a state as such, takes its cue less from the existing weapons than from a nation's recognized or presumed moral capacity for resistance.

*9:原文:As certain as any given person "sins" against a movement predicated on allyship when, without considering the ways her actions may aggravate the plight of others, she raises acquisitive demands that serve her own causes narrowly, a choice feminist likewise breaks the affective threads of allyship when she applies influence to her own benefit in a selfish or exploiting way. [...]. Such a choice feminist has no real right, then, to designate herself champion against oppression and spoils her right to claim allyship with an oppressed community (Gibson, 2014). Rather, she mishandles her privilege, fails her allyship, and induces social injustice (Greenberg, 2014). And she does this while provoking future conflicts in such a way that too frequently end in harming the effort to remediate oppression. (p.11)

*10: (6) [...] Just as surely as a worker sins against the spirit of a real national community when, without regard for the common welfare and the survival of a national economy, he uses his power to raise extortionate demands, an employer breaks this community to the same extent when he conducts his business in an inhuman, exploiting way, misuses the national labor force and makes millions out of its sweat. He then has no right to designate himself as national, no right to speak of a national community; no, he is a selfish scoundrel who induces social unrest and provokes future conflicts which whatever happens must end in harming the nation.

*11:原文:Put another way, if we feminists had, rather than becoming distracted by seductions of choice, the baubles of neoliberalism, or male approval, implacably guarded the interests of oppressed people --- especially those dominated by racism, colonialism, imperialism, ableism, homophobia, classism, and all other manners of oppression that intersect with feminism --- and if in matters of remaking society feminists had avowed only their commitment against oppression of all forms with equal intensity as they defended their will to female choice, and if with equal firmness they had demanded emancipation for all those oppressed (cf. hooks, 2000), today we would very likely have equality. なおこの部分は採択された論文からではなく、Affilia誌の査読者が引用した部分、すなわちAffilia誌にBLPが投稿した際のもとの原稿から引用している。

*12:If during the War the German unions had ruthlessly guarded the interests of the working class, if even during the War they had struck a thousand times over and forced approval of the demands of the workers they represented on the dividend-hungry employers of those days; but if in matters of national defense they had avowed their Germanism with the same fanaticism; and if with equal ruthlessness they had given to the fatherland that which is the fatherland's, the War would not have been lost.

*13:プロジェクトサマリーで「論文を出版可能にするため、『わが闘争』のもとの書き方と意図をかなり変更している」と書いている(8頁)。

*14:さらにBLPは、スムーズに『わが闘争』の模倣文の部分に移行するために、論文の最初1/3は『わが闘争』から借用していないと述べていることも忘れてはならない。

*15:FMK Reviewers Commnets, p. 18. 仮にBLPがこのコメントに対応してトーンを変えていたとしたら、Affilia誌投稿時には論文の文章は『わが闘争』の原文からさらに離れていたことになる。

*16:ただしこれを行うにはフェミニズムについての知見が必要になるので、現時点では検討できない。

*17:戸田山和久: 科学(者)の中の哲学(者). 哲学の探求29: 15-30, 2001

新刊(共著本)のご案内

論文を寄稿した本が刊行されました。

わたしの章ではこれまで刊行した拙論の議論を踏まえて「種問題がどこまで重要か」という問いを提起しています。ご笑覧ください。