授業のためにどのくらい・どういう準備をしているか

以前「年収160万円」からの脱出、還暦を機に大学教授を目指してみたという記事が話題になった。これは色々突っ込みどころがある記事だが(その続編を見ると著者はたぶんわかってやっていると思う)、一つ気になったのはこういうところだ。

近々の世界の経済史、政治史など数冊を読み込み、応募要項にそった書類を用意し、拙著(無料だ!)とともに郵送したのだ。

賢明な方々が指摘している通り、大学教員の感覚では「近々の世界の経済史、政治史など数冊を読み込」んだくらいでは、大学できちんとした科目を教えることはおぼつかない。とはいえ、実際の講義がどのくらいの準備に支えられているかを明らかにしないと、なかなか想像するのは難しいかもしれない。そこで今回はわたしが過去に行った講義について準備のためにどのくらい資料を読んだかか書いてみよう。

ここで取り上げる講義は以下のようなものである:

  • 対象は農学系の学部の一年生
  • 地域活性化についてのオムニバス授業*1の一回
  • ただしわたしは地域活性化そのものについて授業することはできないので、(学生が関心を持っていそうな)環境問題とビジネスの関わりを倫理的に振り返るという内容*2

授業の構成は以下のような感じだ:

  1. 最初の10分で自己紹介と今回の授業の概要を説明する。また今回の授業で出る課題を明らかにする(授業末尾で描写するケーススタディに自分ならどう考えるかを述べる)。
  2. 次に倫理学とはどういう学問か、そしてどういう学説があるかを述べる。具体的にはトロッコ問題を用いて功利主義とカント主義を描写する。
  3. さらにビジネス倫理学についてそのさわりだけ説明する。具体的には、企業の目的についてのストックホルダー説とステイクホルダー説を紹介して、両説が企業の環境問題への関わり方について引き出す教訓について説明する。
  4. 最後にビジネスと環境の倫理にかかわる二つの事例を描写して、もう一度課題を説明する。

それでわたしが上の各部分を準備する際にどのような資料を読んだかは次の通りだ(以下の番号が上の授業構成の番号と対応している):

  1. 最初の自己紹介や今回の授業の概要の説明については、資料は読んでいない。
  2. 倫理学の説明については、すでに勉強したことがあるのでこの授業のためには取り立てて何か読む必要はなかった。ただしこのくらい倫理学に馴染みになるためにはある程度論文などを読む必要がある。例えば留学したときには
    Moral Philosophy: Selected Readings

    Moral Philosophy: Selected Readings

    に納められた論文は半分以上読んでいるはず。
  3. この部分を作るときには結構資料を読む必要があった。まずわたしはビジネス倫理学については何も知らなかったので、その入門書、具体的には『ビジネス倫理学
    ビジネス倫理学 (公益ビジネス研究叢書)

    ビジネス倫理学 (公益ビジネス研究叢書)

    および『ビジネス倫理学 哲学的アプローチ』
    ビジネス倫理学―哲学的アプローチ (叢書 倫理学のフロンティア)

    ビジネス倫理学―哲学的アプローチ (叢書 倫理学のフロンティア)

    を読んで概要をつかんだ。それを読んで企業の目的についての話が使えそうだと思ったので、上の二説を展開したフリードマンとフリーマンの論文を読むことにした。それらは以下のビジネス倫理学のアンソロジー
    Business Ethics: Readings and Cases in Corporate Morality

    Business Ethics: Readings and Cases in Corporate Morality

    • 作者: W. Michael Hoffman,Robert E. Frederick,Mark S. Schwartz
    • 出版社/メーカー: Wiley-Blackwell
    • 発売日: 2014/02/10
    • メディア: ペーパーバック
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    *3にあるので、それを読んでいる。またこの本にはビジネス倫理と環境問題を論じた論文を集めた章もあったのでそこに含まれる論文も二本読んでいる
  4. この授業では各回ごとに課題を出す必要があった。課題の形式については、ケーススタディをいくつか出してそれについて考えてもらうというアイデアがすぐに浮かんだので、余り悩まなかった。ただしケーススタディ自体を見つけるのには少し苦労した。上の中谷『ビジネス倫理学』にはケーススタディがいくつかあったが、今回の授業に援用できそうなものは一つしかなかった。わたしとしてはケーススタディを複数出したかったので、もう一つ見つける必要があった。ビジネスと環境の倫理に関するケーススタディを集めた本には
    Case Studies in Business Ethics

    Case Studies in Business Ethics

    Taking Sides: Clashing Views on Controversial Issues in Business Ethics and Society (3rd ed)

    Taking Sides: Clashing Views on Controversial Issues in Business Ethics and Society (3rd ed)

    Case Studies in Environmental Ethics

    Case Studies in Environmental Ethics

    があることがわかった。前二者については環境にかかわる部分、最後のものについてはすべてのケースを読み、適当なものを最終的に一つ選んだ*4

ということで、この授業をするために読んだのは

  • 日本語の本二冊
  • 英語の論文二本(授業で使用)、二本(不使用)
  • 英語の本三冊(二冊は部分読、もう一冊は通読)

で、強調しておきたいのは、この準備は一回の授業(90分)のためのものである。90分やって学生を退屈させないためには、このくらい準備が必要なのである。

ただしわたしはすべての授業でこのくらいの準備をしているわけではないことも付け加えておく必要がある。この授業でこれほど準備が必要なのは教える内容が定型化しておらず、いろいろなソースをパッチワーク的につなぎ合わせてストーリーを作る必要があったためである。それに対して内容が定まった授業ではこれほど準備するわけではない。例えば大学一・二年生向きの「倫理学」の授業で功利主義について教える場合は、教える内容は大体決まっている。すると、授業のストーリーを一から考える必要はなく、定番の教科書を組み合わせると流れができあがる。

*1:一つの科目を複数の教員が教える授業。

*2:なおわたしは現在はこの内容で教える授業を担当していない。

*3:但し二つの論文の邦訳は

企業倫理学〈1〉倫理的原理と企業の社会的責任

企業倫理学〈1〉倫理的原理と企業の社会的責任

にある。

*4:ただし最後の本は別の授業準備にもなっていたことを付け加える必要がある。

研究不正に関する本、四冊

授業で教えるために研究不正についての本をいくつか読んだので紹介。

背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか?

背信の科学者たち 論文捏造はなぜ繰り返されるのか?

研究不正関係文献の古典。研究不正の古典的事例(アルサブティ事件・キナーゼカスケード事件など)について詳しく述べるほか、不正を促す様々な要因(査読制度の不具合、徒弟制度の失敗など)を取り上げている。またこの著作は科学に対する偶像破壊ももくろんでいて、マートンや科学哲学による理想化された科学の描像にも批判が加えられる(研究不正についてだけ知りたい人にはそれが余計だと感じられるかもしれない)。原著は80年代に出版されたので最近の事例の記述は本文にはないが、訳者あとがきで著名な事例は簡単に触れられている。

科学の罠―過失と不正の科学史

科学の罠―過失と不正の科学史

研究不正関係のもう一つの古典。原典の題名が"False Prophets: Fraud and Error in Science and Medicine"であるように、不正だけでなく誤りについても書かれている。わたしは一章と四章を読んだだけだが、歴史的事例の取り扱いについては、『背信の科学者たち』が科学者に厳しい判断を下している(研究不正を犯したと判断する)のに対して、コーンは「不正はなかった」と判断している事例が目につく。例えば上記の本ではプトレマイオスは自分の観測しなかったデータを報告したとすると、コーンはそれを否定している。わたしの印象では、多くの事例の記述に深みがない、つまりここだけ読んで事例の全体像がわかる記述になっていないと感じた。

研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用 (中公新書)

研究不正 - 科学者の捏造、改竄、盗用 (中公新書)

研究不正についてコンパクトにまとめた入門書。研究不正の事例を集めている点では『背信の科学者たち』と同じだが、こちらの刊行年がずっと後なのでノバルティス事件やSTAP細胞事件など最近の事件への記述が詳しい。但し本書はそれだけでなく不正行為の分類や研究不正に手を染める理由、不正監視組織についても頁が割かれている。また類書に比べて研究不正にかんする統計についても詳しく、現在における研究不正の全体像を知るのにすぐれている。

論文捏造 (中公新書ラクレ)

論文捏造 (中公新書ラクレ)

00年代におけるもっとも著名な研究不正事件の一つであるシェーン事件を描いたもの。著者は同じ事件を描いたドキュメンタリー番組の制作者なので、生き生きとシェーンの成功と凋落を描き、頁をめくる手が止まらない。しかし単にこの事件の経過を語るだけでなく、その背後にある「ネイチャー」「サイエンス」といった超一流の科学雑誌のずさんな体制、シェーンの後ろ盾となった有名研究者の無責任さ、シェーンが所属していたベル研究所の問題をもきちんと描き、事件を大きな構図から理解できるようになっている。研究不正についての著作は往々にして多数の事例を駆け足で扱うことになりがちなので、それを補うモノグラフとしておすすめできる。

研究資金の減少は、税金の無駄使いを加速している

Scientific AmericanのポッドキャストでRichard Harrisのインタビューをしていた。彼はNPRの科学リポーター(science correspondent)で、Rigor Mortis

Rigor Mortis: How Sloppy Science Creates Worthless Cures, Crushes Hope, and Wastes Billions

Rigor Mortis: How Sloppy Science Creates Worthless Cures, Crushes Hope, and Wastes Billions

という本がペーパーバックになったことを記念して行われた*1。この本でHarrisは米国のmedical scienceが置かれている状況の問題点を示している。

彼が指摘する問題点を一言で言うと「研究資金の実質的減少に伴って、研究の質が低下し、結果として税金が無駄に使われている」ということだ。

米国の生物・医学基礎研究の最大の資金提供者はNIHだ。多くの研究者はNIHからの資金提供に頼っており、またNIHの予算は2000年代までは増大していたが、2003年頃から名目の予算額は停滞している*2。すると米国ではインフレーションがあるので、実質の予算額は年々すこしずつ減少していることになる。

結果としてNIHの資金に申請する研究者の1/5しか資金を得ることができない。そして現在ではNIHの資金を得られなければ、研究者はラボを維持することがきわめて難しくなる。というのは、昔であればカリフォルニアやテキサスなどの州が大学の研究者に資金を提供してNIHからの資金なしでも研究できたが、現在ではそうしたサポートがなくなっているからである。

すると研究者間の資金獲得のための競争が激しくなる。その結果の結果の一つは、研究者が資金申請のための書類作りで忙殺され、研究自体を行う時間がなくなることである。

また、研究者が自分の研究をいかに重要なものかを宣伝するようになる。これはヨーロッパにおいて行われた研究に示されている。この研究では"extraordinary," "novel"など、自分の研究の重要性をアピールするような単語(hypewords)が論文の中に現れる頻度が2000年代では1970年代に比べて500倍になっているというのである。

もう一つの帰結はずさんな研究の増加である。これは一つには再現可能性の問題として現れる。一つの研究では、医薬品開発に役立つことを謳った53個の研究のうち6個しか再現可能性がなかったという。

こうした研究にはコントロールが不十分な研究の増加も含まれる。Harrisがあげる一つの研究は、アジア人と白人で遺伝子発現のありようが異なっていることを主張するものである。この研究では両者の間で25%の遺伝子で発現のありようが異なっていると主張する。ところが、その後の注意深い研究で白人とアフリカ人の間での遺伝子発現の違いの頻度はそれよりも小さいことがわかる。白人とアジア人は系統的に白人とアフリカ人よりも近いので、元々の研究の信憑性に疑問を投げかけることになる。これを元に研究者がオリジナルの研究を精査したところ、白人とアジア人で遺伝子発現のあり方を調べた曜日が異なっており、それによって両者の間の差が増幅されていることがわかった。

すなわち、研究資金の枯渇によって、研究者は自分の研究を実際よりもよいもの・役に立つものと宣伝するようなインセンティブにさらされているのである。

こうした問題の影響は個々の研究に限られない。なぜなら、米国には創造論者や地球温暖化否定論者など、「反科学」的な態度をとる論者が多数おり、そうした人たちはこうした不注意な研究やミスコンダクトに人々の注意を引くことによって、科学全体についての懐疑論をあおり立てるからである。そして科学予算を減らしたいと考えている政治家もそうした問題の存在を口実に科学予算を減らそうとするからである。

こうした問題へのHarrisの解決策の一つは、科学予算を増やすことである。なぜならこうした問題の根本には予算の減少があり、予算を減らすと上の問題はもっと深刻になるからである。また研究者を雇用するときに、単に何本の論文をどこに掲載したかだけを基準にするのではなくて、「あなたのもっともよいアイデアをどのように発展させてきたか、そして将来我々をどこに連れて行くのか」を聞くのがよいとする。また透明性を科学のプロセスに持ち込むことも推奨する(単に結果だけを報告するのではなくて、どういうプロセスでその結果を得たか、その元になるデータを明らかにすること)。

こうした解決策の中にはすでに実行されつつあるものもあり、Harrisはmedical scienceの将来には悲観していない。結局のところ、科学は時には失敗するものであるが、それを修正する力も科学には備わっているからである。

*1:この本には最近翻訳

がでた。

*2:ただしトランプ政権の予算では――もともとトランプ政権が掲げていた予想とは異なり――NIHへの予算は増加した

アブストラクト・イントロダクションの書き方

最近アブストラクトやイントロダクション*1を書くときに使っている公式があるのでメモ。これはカナダや日本で学生のエッセイをいろいろ見た経験から抽出したものなのである程度汎用性があると思う。

その公式とは、イントロは以下の(最高)五つの項目について書けばよいというものだ。その項目とは

  1. 論文のトピックは何か。
  2. 背景、トピックの解説
  3. 論文はなにをするのか(および/あるいは)論文の一番の主張
  4. それを支える根拠
  5. その主張の帰結、意義

である。この五つの要素の意味は次のようなものだ。イントロを書くときにもっとも大事な目的は何か。それはこの論文の第一の主張を呈示して、読者にそれが「正しそう」あるいは「おもしろそう」と思ってもらうことである。

しかしだからといって論文の主張だけを呈示しても読者には唐突に映ることが多い。それは、イントロを読む前に読者はこの論文についてはほとんど何も知らないからである。そのような時に著者は何を第一に伝えたらよいだろうか。それはこの論文のトピック、つまり「この論文が何についてのものか」である。これを説明するのが(1)(2)だ。これによって読者は少なくともこの論文が何について論じるか大体の方向をつかめる。

その次にいよいよ論文の一番の主張を読者に呈示する。これはできるだけ簡潔・明快に書くと迫力がでる。しかし一番の主張を書くだけでは、読者には論文を手にとってもらえないかもしれない。論文を読むような読者なら、多少なりとも文章をクリティカルに読むものだ。そうした読者が次に気になるのは、「あなたの言いたいことはわかった。だけどそれが正しいというサポートはどこにあるの?」ということや「あなたの言いたいことが正しいとして、それでどうなるの? これはどうでもよいことじゃないの?」ということだ。

それを与えるのが(4)(5)である。これを書くことで「この論文の一番の主張にはちゃんと根拠がある」「この主張はどうでもよいような主張ではないよ」ということを伝えて、読者にこの論文を読む理由を与えるのである。

すぐれたイントロには大体この五つの要素が入っている。たとえば前にも取り上げた「理性の議論説」の論文アブストラクトはこうなっている(拙訳)。

推論(reasoning)についての一般的な見方によれば、それは、信念を改善しよりよい意思決定をするための手段とされる。しかし、多くの証拠によれば、推論はしばしば認識のゆがみや誤った意思決定に至ることが示されている。このことは、推論の機能について再考するようわれわれに促す。我々の仮説は、推論の機能は議論に関わるというものだ。つまり、説得を意図した議論を作り出し評価することだ。そのように考えられた場合、人間が飛び抜けてコミュニケーションに依存しかつ誤情報に対して弱いことを考えると、推論することは適応的である。この仮説に照らすと、推論と意思決定に関する幅広い心理学的な証拠を再解釈し、それによりよい説明を与えることができる。

これを分解すると、次のようになる。

(1)(2)推論(reasoning)についての一般的な見方によれば、それは、信念を改善しよりよい意思決定をするための手段とされる。しかし、多くの証拠によれば、推論はしばしば認識のゆがみや誤った意思決定に至ることが示されている。このことは、推論の機能について再考するようわれわれに促す。

第一文で著者は論文のトピック(推論)を示し、その後半ではトピックの内容を説明する。そして第二文では、そのトピックがどのようにこの論文に関係するのか、関連するトピックの背景を説明する。こうして「この論文が何についてのものか」を明らかにして、書き手と読み手の間に共通の土俵を作っている。その上で、著者は次のようにこの論文の中心的な主張を書いている。著者はこれを非常に明快に書いていることにも注意して欲しい。これによって著者の意図が読者にまっすぐに伝わるのである。

(3)我々の仮説は、推論の機能は議論に関わるというものだ。つまり、説得を意図した議論を作り出し評価することだ。

このようにして論文の中心的な主張を知った後、著者は(4)その主張の根拠および(5)その主張の意義や帰結を書いている。

(5)そのように考えられた場合、人間が飛び抜けてコミュニケーションに依存しかつ誤情報に対して弱いことを考えると、推論することは適応的である。(4)この仮説に照らすと、推論と意思決定に関する幅広い心理学的な証拠を再解釈し、それによりよい説明を与えることができる。

このようにこのアブストラクトは論文の方向性を短時間で多くの人々に理解してもらうことに成功している。

(追記)最近ツイッター経由でネイチャーの公式サイトが投稿案内(和訳)で論文要旨の書き方を説明している(11ページ)ことを知ったが、見てみると、おおわたしの考えとだいたい同じじゃないか。

*1:以下、イントロに統一。

米保守派の研究費たたき

最近あった保守派からの科研費批判だが、米国でも保守派の政治家が科学者の研究費を批判することはよく見られる。

たとえばジョン・マケイン共和党予備選挙の運動でYouTubeに出た時にはモンタナのクマのDNAの研究を批判している(1分50秒ぐらいから)。


youtu.be


また(時代は大幅に遡るが)レーガンが(1976年の)大統領選挙に出る前に著名なレイトショーに出たときも、幸福についての研究を腐している(5分55秒ぐらいから)。

youtu.be


ただこれは基本的に「こんなしようもない研究に税金を費やしている」という類いの批判で、愛国心に訴えた批判ではない。

もちろん、共和党は科学と相性が悪いので*1他にもいろいろ科学に圧力をかけるのだが、大統領選挙に出るような著名な政治家もこうした批判をしているを知るのは参考になる。

*1:それについては

The Republican War on Science

The Republican War on Science

という本があることを先日の学会で教えてもらった。

外的世界の証明(抄)

授業で使うためにムーアの有名な論文「外的世界の証明」(pdfファイル)のキモとなるところの翻訳を作ったのでご笑覧ください。

例えば、わたしは今、二本の人間の手があることを証明できる。どうやってか。それは二つの手を上げて、右手でジェスチャーをしながら「ここに一本、手がある」と言い、そして左手でジェスチャーをしながら「ここにもう一つある」と付け足すことによってである。そしてもし、こうすること、まさにこのことによって外界の事物の存在を証明したのならば、わたしが同じことを数々の別の仕方によって行うことができることをみなさんは理解するだろう。ゆえに例をこれ以上増やす必要はない。
しかしわたしはたったいま人間の手がそのとき存在したことを証明したのだろうか。わたしはそうだと言いたい。そしてわたしが与えた証明は完全に厳密なものだと。そして何についてもこれよりも優れたそしてより厳密な証明を与えることはおそらく不可能だということも言いたい。もちろん、[以下の]三つの条件が満たされなければ、それは証明ではない。すなわち、(1)結論を証明するために持ち出した前提が、証明しようとする結論と異なること、(2)わたしが持ち出した前提が、わたしが事実だと知っていたことであり、単にわたしが信じていたが決して確実ではない事柄だったとか、また実際真だったがそれをわたしが知らなかったような事柄ではないこと、(3)結論が本当に前提から導き出せること、である。しかしわたしの証明はこうした三つの条件をすべて満たしている。(1) 証明の中でわたしが持ち出した前提は結論とは異なることは全く確実である。というのは、結論は単に「二本の人間の手がこのとき存在する」と言うことであるが、前提はこれはよりももっと細かなこと、つまりわたしが皆さんにわたしの手を見せてジェスチャーをして「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」と言うことで表したかったことだからである。この二つのことが異なるのは全く明らかなことである。というのは、前提が偽であったとしても結論が真であった可能性があることは全く明らかであるからである。前提が真であることを主張しているとき、わたしは結論が真だと主張しているときよりももっと多くのことを主張しているのである。(2) わたしはあるジェスチャーをしながら「一本の手がありここにもう一つの手がある」と言うことで表したことをそのとき確かに知っていた。わたしは、最初に「ここに」と言いつつジェスチャーをすることで示した場所に一本の手があること、そして二回目に「ここに」と言いつつジェスチャーをすることで示した、前とは異なる場所にもう一本の手があることを知っていた。わたしがそのことを知らなくて単に信じていただけだとか、上で言ったことが事実でないというなんて、どれほどばかげているだろうか! あなたは、わたしが今立って話していることを知らない(結局のところもしかしたらわたしは立っていないかも知れないのである)とか、わたしが立っていて話していることは全く確実ではないと言うのであろうか! そして(3) 結論が前提から導き出されることは全く確実である。それが確実であるのは、いまここに一本手がありここにもう一本あるなら、いま二つの手が存在していることと同じくらい確実である。

[…]

しかしわたしは以下のことに完全に気づいている。すなわち、わたしが述べたことすべてに反して、多くの哲学者が問題となる事柄についてわたしが満足のいく証明を与えていないとなおも感じているだろうということである。最後に短く、わたしの証明についてのこの不満がどうして感じられるのかという理由について述べたい。

一つの理由はこれだ。「外的世界の証明」ということで、人によってはわたしが証明しようとしなかったこと、また証明しなかったことの証明を含むものだと解するのである。そうした人が何を証明して欲しいと思っているのか――それについての証明が得られなければ外界の事物の存在の証明を持っているといわないようなものは何なのか――を言うのは簡単ではない。しかし、以下のように言うことで、彼らが求めているものが何かを説明することに近づくことができる。つまり、わたしが二つの証明で前提として用いた命題をすでに証明していたならば、もしかしたら彼らはわたしが外界の事物の存在を証明したことを認めてくれていたかもしれない。しかしそうした証明(もちろんそれをわたしは与えなかったし、与えようともしなかった)がなければ、外界の事物の存在の証明で彼らが意味することをわたしは与えなかったと言うだろう。言い換えると、わたしが自分の手を上げて「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」というまさにそのときにわたしが主張している事柄の証明を求めているのである。もちろん、彼らが本当に求めているのは単にこれら二つの命題の証明だけではなくて、この種の命題すべてがどのようにして証明されるかについての一般的な言明のようなものである。こうしたものは、もちろんわたしは与えなかった。そしてこうしたものが与えられるとはわたしは思わない。もし外界の事物の存在の証明が意味することがこのことならば、外界の事物の存在についていかなる証明も不可能であると思う。もちろん、こうした命題に外見上似た命題の証明と呼べるようなものが得られる場合もあるだろう。もしあなた方の一人がわたしの手の一つが義肢ではないかと疑うなら、こちらに来て、疑わしい手を近くで調べて――ことによっては手に触ったり押したりして――それが本当に人間の手であることを確かめることで、「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」という命題の証明を手に入れると言われるかもしれない。しかしわたしはほとんどすべての事例においていかなる証明も可能だとは思わない。ではどうやって「ここに一本の手があり、ここにもう一つある」ということを証明するのか。そうしたことが可能とはわたしは思わない。そうするためには、例えばデカルトが指摘したように、わたしがいま夢見ていないことを証明する必要がある。しかしわたしが今夢を見ていないということをどうやったら証明できるのか。疑いなくわたしは「わたしは今夢を見ていない」と主張するための決定的な理由を持っている。わたしは「わたしが目覚めている」ことの決定的な証拠を持っている。しかしそのことはそれについて証明できるということからは非常に異なった事柄なのである。わたしが持っている証拠のすべてがどんなものかわたしはあなたに伝えることはできない。そしてあなたに証明を与えるためには、少なくともそうしたことができなくてはならないのである。

しかし、わたしが思うに、わたしの証明に不満足な人々がいるもう一つの理由は、単に彼らがわたしが与えなかったようなものの証明を求めていることだけにあるのではない。そうではなくて、もしわたしがそうした追加の証明を与えられないなら、わたしが与えた証明は決定的なものでは全くないのだと彼らが考えているからである。わたしの考えによればこれは明らかに間違っている。彼らは次のように言うだろう――「もしあなたがあなたの前提である『ここに一本の手があり、ここにもう一つある』ということを証明できないのなら、あなたはそのことを知らないのである。しかしあなた自身が、もしそれを知らなかったのなら、自分の証明は決定的なものではなかったことを認めてきた。従ってあなたの証明は、あなたの言うところに反して、決定的な証明ではなかったのです」。わたしの見解では、この見方、つまりこうした事柄をわたしが証明できないのなら、わたしはそうしたことを知らないという見方は、この講義の冒頭にわたしが引用した文章でカントが表明していた見方である。このときカントは、我々が外界の事物の存在についての証明を持たない限り、そうした事物の存在は、単に信念(faith)によって受け入れられなくてはならないことを示唆している。わたしの考えでは、彼が言いたいことは、もしわたしがここに手があることを証明することができなかったら、わたしはそれを単に信念の問題として受け入れなくてはならない――つまりわたしはそれを知っているわけではない、ということである。こうした見方は哲学者の間では非常に一般的なものである。しかしわたしはこの見方が誤りであることを示せると思う――ただしそれは、(もし外界の事物の存在を我々が知らないならば)真だとは知られていないような前提を用いることによってであるが。わたしは証明できない事柄を知ることができる。そしてわたしが――たとえ証明することができなくとも(そしてわたしは証明できないと思っているのだが)――確かに知っている事柄の中には、わたしの二つの証明の前提が含まれているのである。したがってわたしは、わたしがこうした証明の前提を知らないと言うただそれだけの理由でこうした証明に不満足な人は(もしそうした人がいるならば)、その不満にはまともな理由がないと言わなくてはならない。