拙訳書『哲学者、女性のオーガズムの進化にいどむ』の宣伝記事が「現代ビジネス」に掲載
さてご好評いただいている拙訳書『哲学者、女性のオーガズムの進化にいどむ』(勁草書房)ですが、この本についての宣伝・紹介記事が現代ビジネスに掲載されました。
「女性のオーガズム」は何のために進化した…? この問いをめぐる議論から見えること(網谷 祐一) | 現代ビジネス | 講談社
この記事では本書の内容を簡単に紹介するとともに、科学哲学者であるわたしから見て興味深い点を記しています。もしよろしければご覧下さい。
科学哲学の最新(?)議論から女性のオーガズムの進化を読み解く
このたびわたしが翻訳した本が出版されました(タイトルなどはAIに考えてもらったものを一部修正しました)。
本書は米インディアナ大学の科学哲学者エリザベス・ロイドが女性のオーガズムの進化および進化研究のあり方について書いた本です。女性のオーガズムの進化は、進化学者が長年取り組んできたテーマの一つです。わたしも昔読んだ動物行動学者デズモンド・モリスの『裸のサル: 動物学的人間像 (角川文庫 モ 3-1)』で、女性のオーガズムの由来が取り上げられていたことを憶えています。
本書のテーマは二つあります。一つは、女性のオーガズムがどのように進化してきたかです。今述べたように女性のオーガズムの進化については、さまざまな進化学者がさまざまな説を提起してきました。ですが、そのほとんどは何らかの形で女性のオーガズムが女性の生き残りと繁殖に役立つ、つまり適応であると主張します。例えばモリスは女性のオーガズムは、男女の絆を強め、子どもの養育に資するために進化したという「〈ペアの絆〉説」を打ち出します。ところがロイドは、こうした説を逐一検討して、それらに説得力のある根拠が欠けていることを指摘します。具体的には、そうした仮説が置いている男女の性行動に対する前提は、性科学からの知見と合わないことが多いのです。
そうした適応説を退けた後、ロイドが支持するのは、2024年に亡くなった人類学者ドナルド・サイモンズが提唱した副産物説です。これは、いくつかの前提のもとで、女性のオーガズムは男性のオーガズムに対する強い自然選択の副産物として進化した、という説です。この説は女性の性行動に関して適応主義的な説では説明が困難だった点、とくに性科学研究で明らかになってきた点を鮮やかに説明します。例えば、性交で女性がオーガズムを得るのがしばしば困難なのは、性交時によくとられる体位(典型的には正常位)がそもそもクリトリスに刺激を与えるのに不向きだからです。
本書のもう一つのテーマは、女性のオーガズムの進化研究が行われ方についての批判的検討です。上で述べたように女性のオーガズムの進化研究では、圧倒的に適応主義的な説が多く、副産物説はそうした論者から軽く扱われてきました。しかし、適応的な説明はすでに性科学から得られていた証拠と合いません。特に一部の適応説の提唱者は、自らが引用した性科学の文献に自説に不利な証拠があってもそれを無視することさえあります。どうしてこのようなことになったのか――それがロイドの問いです。
ロイドの答えは、適応主義的な説の支持者は主に二つのバイアスに見舞われているというものです。それは男性中心主義的バイアスと適応主義のバイアスです。それぞれがどのようにオーガズムの進化研究を歪めてきたかについては本書を読んでもらうことになりますが、ロイドはそうしたバイアスによって不当にも副産物説の価値がないがしろにされてきたと言います。
こうした「科学とバイアス」にまつわる哲学的議論は、科学哲学で最近話題の「科学と価値判断」をめぐる問題圏や、フェミニズム科学哲学の議論とまっすぐにつながるものです。
本書の原著は2005年に出版され各所で話題になりました。『ニューヨークタイムズ』らの国際的一流紙だけでなく、「ザ・ビュー」などのアメリカの人気番組、さらに『ネイチャー』など一流学術誌でも取り上げられました。
ただ原著出版から20年たっての訳書出版なので、議論が古くなっていると考える人がいるかもしれません。そうした懸念をもつ人のために、わたしが訳者あとがきの中でここ20年あまりに出版された主な研究について簡単にサーベイしています。
ということで本書を読めば、女性のオーガズムがどう進化してきたかだけでなく、そうした研究がどのように行われてきたか、そうした研究の問題点、および最新の科学哲学の議論にストレートにつながる知見が得られます。年末年始のお供にどうぞよろしくお願いします。
最近聞いているポッドキャスト
最近はポッドキャストを聞いていることが多い。ということでわたしが聞いているポッドキャストを哲学系と非哲学系に分けて紹介する。
哲学系ポッドキャスト
- Philosophy Bites, In Our Time:このあたりは有名どころ。前者はホストのニジェル・ウォルバートンとデイヴィッド・エドモンズ(どちらも著書が翻訳されている)が様々な哲学者に15分から30分ほどインタビューして、一口サイズ(bite)だがピリッとくる(bites)哲学的議論を提供する。後者はBBCのメルヴィン・ブラックが大体三人の哲学者とトピックについて1時間ほど議論する(ただしトピックは哲学に限らず歴史・科学など学術的なもの全般)。もう千回近くやっているはずなのでアーカイブを探すと有名どころの哲学者なら一度は番組になっているはず(ただ今気づいたがダーウィン周りは少ないかもしれない)。前者で面白かったのはゴッドフリー=スミスの回。後者は蜂の寓話の回。
- The HPS podcast: 豪メルボルン大学の科学史科学哲学科によるポッドキャスト。出演者は業界で有名な人もいればそうでない人もいるが、一つのプログラムが30分くらいなので、トピックについて簡単に知りたいときによい。聞いたものの中では科学のエスノグラフィーの回やナオミ・オレスケスの無知学の回がよかった。
- How To Think About Science (CBC) :これは2010年代に作られた番組シリーズのアーカイブ。当時のHPS(科学史・科学哲学)周りの有名人へのインタビューからなる。エヴリン・フォックス・ケラーやリチャード・ルウォンティンなど今となっては故人の言葉もあり、貴重。
- The Dissenter(Youtubeチャンネルあり):リカルド・ロペス氏が哲学・科学周りの様々な人と一時間弱対談するポッドキャスト。ホストはそれほどゲストに突っ込まないので、会話が広がっていくことは少なく、なんとなくホストが事前に準備した質問を順番に聞いていく感じに聞こえる。
- Victor Gijsbers(YouTube チャンネル):ハイスバーグ氏はオランダ・ライデン大学の哲学者。この人は『純粋理性批判』についての解説ビデオを50本以上作っており、同書を読むときにはよいガイドになる。また認識論やほかのトピックについてもビデオを作っている。
- Overthink(YouTube チャンネル): ここは様々なトピックについて二人の哲学者が一時間ほど語る。話し方としては砕けた調子なので、ほかのことをしながら聞くのでもついて行ける(ほかのポッドキャストには中身が濃密で注意して聞かないとよくわからなくなるものもある)。だいたいトピックについて著名な哲学者がどういうことを述べてきたのかを紹介する。紹介される哲学者は英米系だけでなく大陸系も多い。聞いた中では直観(Intuition)の回が面白かった。脱成長の回では斎藤幸平氏の著作が紹介されていて、氏の本がどのように欧米で受容されているか垣間見られる。
- The New Books Network (Philosophy):ここは哲学分野の様々な本の著者を呼んでホストと一時間程度話をする。The dissenterのホストは話が浅いと感じることもあったが、ここはホストが大学に職を持つ哲学者なので、割と突っ込んだ話になることが多い。話題になった哲学系の本なら取り上げられていることが多いので、読む前に聞いて本の概要を知ることができる。
あと哲学系のポッドキャストを網羅的に紹介しているサイトがあるので、興味のある人は見てみるとよい。
非哲学系ポッドキャスト
- Social Science Bites:これはPhilosophy Bitesの二人が社会科学者にインタビューするもので、PBの社会科学版。2025年のノーベル経済学賞受賞者の一人であるモキイア氏に以前インタビューしたものが聞ける。
- VOX EU:これは経済学のポッドキャスト。その名の通り欧州の経済学者がワーキングペーパーなどの最近の研究成果について語る。個人的にはわたしはこれを英語学習の一環として聞いている。なまりのある英語というのはリスニングの障害になることが多いが、この番組ではゲストの多くが欧州の非英語圏出身の経済学者なので、なまりのある英語に慣れることができる。また政治のようなすでに親しんだ話題だと中身がしっかり理解できなくてもなんとなく理解したような気がすることがあるが、経済というわたしには耳慣れないことなので、それを防ぐことができる。最近聞いてよかったのは経済制裁の効果についてのもの。
- WSJ (The Journal):時事系のポッドキャストはこれをよく聞くことが多い。時事系のポッドキャストはほかにもNYTのThe Dailyなどいろいろとあるが、ほかのポッドキャストはどちらかというともうすでに報道されていることの後追いの回が多いが、このポッドキャストではほかでは聞けない話を教えてくれる点が気に入っている。前に聞いて感心したのがWalmartのstore manager(店長)についての回(なんでも何十万ドル=日本円にして数千万も給与を支払うらしいのだが、ある店長は一日二万歩ほど歩いて店員と密にコミュニケーションをとるそうなので、それを聞くとどうしてこんなに給与が高いのかある程度理解できる)。
大学の哲学科に行くと頭がよくなる
という論文を読んだ(オープンアクセス、pdf)。この論文は発表後早速話題になっているがまだわたしの周りでは紹介されていないので、簡単に紹介する。
哲学を学ぶと頭がよくなる(=試験で好成績をとれる)か?
哲学を学ぶことの効用として喧伝されることの一つが「よりよく考える人」(a better thinker)になることである。実際、欧米の大学の哲学科のウェブサイトを覗くと、学部入学志望生のためのこうした宣伝文句が書いてあることが多い(例)。またこれを表す証拠として、大学入試共通テストのような標準化された試験(standardized test; 北米ではロースクール入試で用いられるLSATや大学院受験のために使われるGREが代表例)の成績が挙げられることもある(例)。すなわち「哲学科の卒業生はほかの学科の卒業生と比べてLSATやGREの成績が高い→哲学科に行けばよりよく考えられるようになる」というわけだ。この前段のデータ自体は概ね正しいことが知られている。
しかし、たとえこうしたデータが正しいとしても、これを大学哲学科の成果とするのには注意が必要である。というのは、学科によって入学する学生の資質は異なるからだ。早い話が、哲学科の入学生は元々こうした標準化された試験に(ほかの学科の学生よりも)強いかもしれないのである。そうすると、哲学科の教育が何の影響を及ぼさなくても、哲学科の卒業生が他学科の卒業生よりも標準化試験でよい成績を取ることはあり得る。すると、哲学科の卒業生の成績はそれ自体では哲学を学ぶこと(ここでは哲学科の教育)の効用を示すとは限らないことになる。
もちろん、ランダム化比較実験をすればこの問題は回避できる。しかし大学進学を予定している人に対してランダムに「あなたは哲学科に進学しろ」「あなたはダメ」と指示するような実験には倫理的な問題があり、実際には実施できない。
この論文の著者はこの問題を乗り越えるために、米国の高等教育研究所(Higher Education Research Institute)という機関に納められているデータを利用した。このデータは、1994年から2008年にいたる65万人近くのさまざまな学科の卒業生を対象とする。その中の40万人近く(1994-2004年)については、入学時の標準化試験(SAT=日本の共通テストに対応)と卒業時の標準化試験(LSATおよびGRE)の成績データが集められている。そこで著者はこれを学科別に集めて比較することで、卒業生の標準化試験の成績そのものではなくて、その成績の伸びを学科同士で比較することができると言う。
試験で成績がよい=よりよく考えられる、か?
ただ、「試験で好成績をとれること」と「よりよく考えられる」ことをイコールで結ぶことにためらいを感じる人も多いだろう。例えば(この論文では書かれていないが)心理学者のキース・スタノヴィッチの研究では、高度な情報処理能力をもつことと、それを適切に用いる意欲をもつことは別であることが示されている*1。また、高度な情報処理能力があっても、今の自分の見解とは別の見解を真剣に受け止め検討したり(オープンマインド)しなければ、陰謀論にはまってしまいかねない。現に、さまざまな陰謀論を宣伝している原口一博元総務相は、東京大学の出身である。
したがってよりよく考えられるためには、単なる情報処理能力だけでなく、より良く考えるための態度(thinking dispositions)も重要である*2。例えば上で述べたオープンマインドであることとか、結論を下す前に十分な証拠を集めようとする態度を身につけることも、よりよく考えられるためには重要である。
この論文ではそこにも注意を払い、上の標準化試験と同様に、さまざまな学科に渡って、上の態度が大学学部生の間にどのように変化したかを学科間で比較する。具体的には、「心の習慣」と「多元主義的な傾向」(Pluralistic Orientation)という二つの尺度に関して、それを表す描写(前者なら「自分の意見を論理的論証でサポートする」とか、後者なら「世界を他の人の観点から見る能力」)を被験者(参加者)に提示する。その上で前者なら被験者にこうした文で書かれたことをどのくらい自分で行うかを、例えば「頻繁に行う」「ときどき行う」「全然行わない」といった感じで答えてもらう(後者なら、こうした能力を自分がどのくらいもっているかを判断してもらう)。
こんなに哲学者に都合のよい結果が出てもよいのか
結果を見てみよう。まず標準化された試験では、哲学科の卒業生はほかの学科の卒業生よりも学部四年間の伸びが大きくなっている。例えばGREは言語と数学の二つの部門に分かれるが、論文の11頁にある図では哲学科の卒業生における言語部門のスコアの伸びは、他のすべての学科を上回っている。LSATでも同様に哲学科卒業者の伸びは全学科中第一位である。ただしGREの数学については哲学科卒業生の伸びは中程度でほとんど目立たない。
ということで、標準化試験では哲学科への進学は結果の伸びと結構相関していることがわかった。では思考に関わる態度についてはどうだろうか。ここでも哲学科卒業生は他学科の卒業生よりも大学在学時の伸びが大きい。例えば「心の習慣」という文を肯定する度合いの伸びは、哲学科卒業生では他のすべての学科の卒業生を上回っている。*3
なお一つの可能な反論として、学科によって大学四年時に標準化された試験を受ける層に差があるのではというものがある。単純な入学時の資質に関する学科間の違いは卒業時との比較で取り除かれるものの、もし卒業時に標準化された試験を受けるような学生層に学科間で差があるならば、上のような結果がそれだけで出てくるかもしれない。例えば、平たく言うと標準化された試験で結果を出すためにはある程度の「意欲」が必要だが、卒業時にそうした試験を受ける学生の中で「意欲のある」学生の比率が学科によって異なるならば、学科の教育に効果がなくても上で見たような違いが出る可能性がある。
著者はこの反論を予測しており、入学時のSATの点数とGREやLSATの受験経験との相関を異なる学科に渡って調べている。上の仮説が正しいならば、SATの点数とGREやLSATの受験経験との相関の強さが学科によって異なるだろうというわけである。しかし彼らの報告ではそうした相関の強さの違いは見いだされなかった。これは上の仮説が成り立っていないことを示唆する。
ということで、これは哲学者にとって夢のような結果である。もちろん、この手の研究では一つの結果でこうした大きな問いに対する決定的な結論が出ることは少ないので、もう少し研究者間のやりとりを見る必要がある。例えばここで対象となっているのは米国の大学生だが、他の国にこの結果が当てはまるかはわからない。また態度に関するデータは学生の自己申告に基づいているので、正確さにはどうしても限界がある。さらにここでは紹介していないデータ収集・統計的分析などに問題がある可能性もある。それでも、哲学者にとってはencouragingな話である。
監訳書『「科学的に正しい」とは何か』の反響まとめ
監訳書『「科学的に正しい」とは何か』
が今年四月に出版されましたが、その反響を簡単にメモ。- 心理学者の小塩真司氏による書評→【書籍】「科学的に正しい」とは何か|Atsushi Oshio
- ロボット研究者の梶田秀司氏による評
リー・マッキンタイア著
— Shuuji Kajita (@s_kajita) August 14, 2024
「『科学的に正しい』とは何か」読了。
良著だった。
科学的であるための必要条件は、「根拠を大切にする姿勢と、根拠を基準に理論を変える意思」。
疑似科学や陰謀論はこれによって除外できる。なぜならこれらは結論ありきで、恣意的に情報を取捨選択するから。 pic.twitter.com/xVTATFzkBY
- 社会学者の松村一志氏による書評が『世界』12月号に掲載(『Science Fictions』と併せた評)

これらを拝見すると、科学哲学者の思考が現場の(広い意味での)サイエンティストにも刺激になっているようで、ありがたい限り。
【追記(2026年1月21日)】
ベンジャミン・クリッツァー氏の評がBlueskyにあるのを見つけました→
bsky.app『 「科学的に正しい」とは何か』 リー・マッキンタイア www.newtonpress.co.jp/book/shinsho... 土曜日に読み始め、火曜日の朝に読み終わり。 原題のThe Scientific Attitudesが示す通り、「科学的方法」とはこれだなんて示すことは不可能だと科学哲学では分かってきたから科学とそうでないものとの線引きを「方法」に基づいて行うことは諦めたうえで、どんな営みが科学であるかはそれを実践する人(および集団や制度の)「態度」から判別することができる、という議論を行っている本。 この主張にも穴や甘さはあるだろうなと思いつつ、なかなか説得させられました
— ベンジャミン・クリッツァー (@benjaminkrtizer.bsky.social) 2025-10-06T23:54:46.543Z
Live Science誌の種問題についての記事に拙コメントが掲載
先日Natureなどに寄稿経験のある科学ジャーナリストであるAmanda Heidt氏から、種問題についてのインタビューを受けました。
Heidt氏は他の生物学者などにも取材して、種問題の現状についての記事を一般向けオンライン科学雑誌であるLive Scienceに寄稿しましたが、その中でわたしのコメントも紹介されています。
よろしければご笑覧ください。
「科学」になった国際政治学にもやっぱり「知的謙虚さ」が必要だ
以下は先日刊行になった監訳書『「科学的に正しい」とは何か (ニュートン新書)』の宣伝のためにウェブメディアに執筆しようと計画していたものです。しかし事情により計画がうまくいかなかったので、用意していた下書きをブログ用に編集したものを掲載します。
新しい国際政治学は「知的謙虚さ」を欠くか
昨年末より、国際政治学のあり方についてX(旧ツイッター、以下旧名を用いる)上で大きな論争があった。きっかけは著名な国際政治学者である故高坂正堯氏の講演録の出版を契機にした雑誌『フォーサイト』の鼎談だった。この鼎談で、軍事評論家で東京大学専任講師の小泉悠氏が、国際政治学者の多湖淳氏(早稲田大学)の著作『戦争とは何か-国際政治学の挑戦 (中公新書 2574)』に触れて「知的謙虚さを感じさせない」と発言した。また慶応大学教授の細谷雄一氏が同鼎談やそれに続くエッセイにて多湖氏らの実証主義的な研究方法に対して同様の角度から疑念を呈した。
ここでの「知的謙虚さ」がどういう意味なのかは、元々の小泉氏の発言が断片的なので確定的なことは言えない。しかし鼎談の全体の流れから見てみると、国際政治学内に複数のアプローチがあることを前提とした上で「自分のやっていること(自分の研究手法)だけが正しい」とは考えずに、別の研究手法の価値を認めることと思われる。
実際、多湖氏の上記の著作を読むと、多湖氏がその流れに棹さす新しい「科学的」な国際政治学を紹介すると同時に、それと旧来の国際政治学を比較し、後者を批判する箇所がある。多湖氏が唱道する新しい国際政治学では、例えば15世紀から現在までの長期間にわたる戦争や内戦・紛争に関するデータを集め整理して、ゲーム理論的な枠組みや回帰分析などの統計的手法を用いて、「どういう要因が戦争や内戦の発生に寄与するのか」「戦争ばかりしている国・戦争をしていない国にはどういう特徴があるか」といった問いに答えようとする。
これに対して旧来の国際政治学では、例えば戦争が起こりやすい状況についての大雑把な説明はできるが、個別の状況に合わせた細やかな分析はできなかったり、そもそも議論がいくつかの「イズム」に則ったもので証拠に基づく議論になっていなかったという批判がなされている(例えば同書19頁)。
この上で小泉氏のコメントを敷衍した批判をすると、数量的・実証主義的な「新しい」国際政治学だけが正しいというような独善的な態度ではなく、鼎談の参加者が行っているような旧来のアプローチのよさも受け入れることが重要だ、というあたりになるだろう。
「知的謙虚さ」やて、それなんぼのもんじゃい
この小泉氏・細谷氏のコメント・議論に対してツイッターで大きな批判があった。批判の論点は多岐にわたるが、その一つは多湖氏の研究を批判するのに「知的謙虚さ」なるものに訴えること自体を批判するものである。例えば、「知的謙虚さ」でツイッターを検索するとそうしたツイートがたくさん出てくる*1。批判の要点を乱暴にまとめると、研究(者)を評価するときに「知的謙虚さ」のような心構えに言及するのはある種の人格批判になりかねず、評価の手法としては筋違いであるといったところだろうか。
わたしの専門は科学哲学であり、国際政治学ではない。従ってここでは多湖氏や多湖氏のような国際政治学者が知的謙虚さを欠くかどうかは議論しない。しかし、ある研究者を批判するときに「知的謙虚さ」というような心構え・態度に訴えること自体の是非については議論できる。というのは、『ポストトゥルース』(人文書院)で知られる米ボストン大学の科学哲学者リー・マッキンタイアが新刊『「科学的に正しい」とは何か (ニュートン新書)』(拙監訳)で議論するように、ある種の心構え・態度を持つことは科学が成功してきた重要な理由の一つかもしれないからである。
科学的態度が「科学の特別さ」を説明する
これはどういうことだろうか。この本でマッキンタイアは、尊敬できる科学者は特別な種類の心構えや態度を身につけており、それが科学を科学たらしめ、科学の成功を作り出しているのだと論じる。その態度とは、自分や他の人の説を経験的証拠に照らして吟味する態度であり、さらに自分の説が証拠に反することが分かった場合はそれを投げ捨てることを厭わない態度である。マッキンタイアはそれらを一括して「科学的態度」と名づける。
これがなぜ重要なのだろうか。マッキンタイアによると、「科学的態度」を試金石にすることで、これまで科学哲学者が成功してこなかった「科学」と「科学のまがい物」を分けるという課題が解けるというのである。「科学のまがい物」とは、創造論*2のような疑似科学や陰謀論、人為的気候変動の否定論のように、「自分の意見は科学的に正しい」と主張するが実際は証拠に基づいた議論になっていないものである。科学哲学では「科学」と「科学のまがい物」を区別できる基準を長年探してきた。これは「線引き問題」(境界設定問題)と呼ばれるが、これまでの議論により両者を分ける境界線は簡単には見つからないことが分かっている。
これに対してマッキンタイアは、そうしたものを支持する人たちが総じて上の「科学的態度」に欠けていることを指摘する。例えば陰謀論者は自らの説と反する証拠を突きつけられても、「それは政府によるでっち上げだ」と証拠をあまりにも簡単に退けてしまいがちだ。こうした対比が成り立つのなら、この科学的態度の有無から「科学」と「科学のまがい物」をうまく区別することができるようになる。
それだけではない。マッキンタイアによると、この科学的態度を持っていたことが、科学が多大な技術的成功に結びついた大きな要因でもある。マッキンタイアはこれを医学の発展史から示そうと試みる。医学という分野は今でこそ人々の健康に大きく寄与するとされているが、19世紀半ばまでは非常に悲惨な状態で、瀉血に代表される医師が行う施術の多くは実際は患者に悪影響を及ぼすものだった。しかしマッキンタイアは19世紀後半から20世紀前半の米国を例にして、科学的態度を尊重できる体制が医学界の中で整うことで医学がいかに変わってきたかを描写し、こうした態度を科学者集団が身につけることがその分野が成功するために必要であることを示そうとする。
したがって、マッキンタイアが正しければ、きちんとした「心構え・態度」を持つことは科学や科学者にとって大切だということになる。
国際政治学に必要な「知的謙虚さ」
こうした観点から見てみると、ある研究分野における研究者の態度や心構えを云々することには立派な意義があり得ることが分かってくる。もちろん、マッキンタイア自身が議論するのは「科学的態度」だけで「知的謙虚さ」は扱わないので、彼の議論が国際政治学の状況にストレートに当てはまるか考える必要はある。しかし、上でいうような知的謙虚さが国際政治学にとって大事であることを見るのはそれほど難しくない。
というのは、国際政治は多数の要因が複雑に絡み合っている領域であり、また国際政治学はその研究で得られた学術的な知見を現実世界に応用することを一つの目的としているからだ。実際多湖氏の著書でも現在日本への政策提言が試みられている。すると従来の研究からの知見が全く的外れであることが示されない限り、従来型の研究を一刀両断的に退け外部からの声に耳をふさぐことは、有益な考え方や証拠のリソースの活用の道をふさぐに等しい。その意味で、国際政治学が「科学」として歩みを進めるためにも知的謙虚さが重要になる場面はあるだろう。
「無知」と「無知の知」の間で
ここまで「態度」や「心構え」が「科学」になろうとする国際政治学にとっても重要であることを述べてきた。しかし「態度」に訴えることを批判する研究者の考えにも一理ある。というのは、こうした「態度」をある人が持っているかどうかの判定は本質的に曖昧なものにならざるを得ないからである。するとこうした態度の有無で研究者個人や分野全体を裁断すると、結局のところある種の水掛け論になってしまうという危惧が生じるからだ。
マッキンタイアも認めるとおり、ある人が特定の態度をもっているかをきちんと判定するのは時に難しい。それでも創造論者や陰謀論者については多くの人が「科学的態度をもっていない」と言いたくなるのだから、この概念を使ったからといって、自分の思うがままに他人を裁ける訳ではない。
また、「知的謙虚さ」に訴えること、そして自らの知的謙虚さを誇ることが従来型の国際政治学に対する完全な免罪符になるわけではないことも述べておく必要があるだろう。本稿で問題にしてきた「知的謙虚さ」はある種の「無知の知」とも解釈できるだろうが、しかし研究者として、学問の徒として、無知に安住していても前進はないからだ。その意味で「無知」と「無知の知」の間を我々は歩んでいかなくてはならないのである。


