まとまり日記

業績をあげるために研究成果を発表する哲学者や歴史学者は、紙を無駄づかいしたり同僚をうんざりさせたりすること以外にはほとんど害をなさない(『動物の解放』人文書院、101頁)

研究者のためのメンタルヘルスマネジメント:7つのコツ

という記事が『ネイチャー』に載っていたので簡単に紹介。著者はスペインの臨床心理学者。書いてあることはそれほど目新しいことではないかもしれないが、現下の状況でここで確認・共有することには意義があるだろう。

  1. 期待を下げる:授業がなくなった大学に勤めている人にとっては、隔離期間は今までやれなかったことに取り組める期間になると思うかもしれない。しかしパンデミックがもたらす感情的・認知的負荷を舐めてはいけない。やる気が出なかったり、注意がそがれたりすることは普通に起こりうる。リモートワークなどの新しい仕事の体制に移るには時間がかかる。だから期待を上げすぎないことだ。
  2. ストレスに先回りして対処:ストレスが過大にならないうちに対処すること。睡眠第一。また睡眠がちゃんと取れるようにすること(寝る前にブルーライトを浴びないようにするとか)。きちんと食事をとる(でも大量のアルコール摂取には注意)。運動。
  3. 警告サインに気を配る:ストレスがたまってきたときには、心身の不調のサインが出る。例えば、集中できないとか、不安・悲しみ、イライラするとか、コロナウィルス関連の統計を見るのがやめられないとか。こうしたサインはネガティブな感情のサイクルを増幅する。こうした時は深呼吸をするなどしてそのサイクルを断ち切ろう。
  4. ルーティンは友達:仕事の時間とそうでない時間を分ける、また仕事場とそうでないところを分けるのは大事。仕事やウィルス関連ではない楽しい活動を見つけよう。きちんと休憩を取って仕事をするのは、頭がすっきりする。
  5. 自分自身と他人にやさしくする:今の時期、自分ひとりではどうにもならないことがたくさんある。でも、それをどう捉えるかで、この時期を乗り越えられるかが決まる。打ちのめされたと感じるときは、「もうできない」とか「難しすぎる」といった気持ちが出てくる。こういう困難な時期に我々はいつも最善のことができるとは限らない。助けが必要な時は助けを求めよう。
  6. つながりを大事に:どんなに内向的な人でも「他人とつながっている」という感覚は心身の健康に大事。いまはオンラインでつながれる場所が大勢できている。我々は物理的には隔離されているが、孤独だと思う必要はない。
  7. 今を生きることで不確実性を切り抜ける:一日一日を味わい自分のコントロールできることに集中しよう。マインドフルネスや瞑想はとても役に立つかもしれない。

「パンデミック時のニュートン」からの教訓

新型コロナウイルスの流行で多くの学校が閉鎖されている。しかしそうしたことの予期せざるよい面を見ようとして、ニュートンのエピソードが話題になることがある。曰く

ニュートン微積分法、光と色の新しい理論、および万有引力の理論という大きな発見をしたのは、イギリスがペストの流行に見舞われケンブリッジ大学が閉鎖されていた間である。(だから我々も大きな発見をなすかもしれない)

しかし

ニュートン (岩波新書 黄版 88)

ニュートン (岩波新書 黄版 88)

を読むと、これは正しい歴史の教訓ではないかもしれない。

このエピソードは次のニュートンの記述が元になっている。

一六六五年の初め、私ば近似級数の方法と、どの二項式のどれほど高位のものでも、このような級数にする法則を発見した。同じ年の五月に、私はグレゴリとスリューズの接線法を発見し、一一月には流率法[微分法]の直接的方法を、翌年の一月には色の理論を発見し、五月には流率法の逆に入った。同じ年、私は月の軌道にまで及ぶ重力について考え始めた。惑星の周期の二乗が軌道の中心からの距離の三乗に比例するというケプラーの法則から、ある球内を回転する天体が、その球面を押す力の算定法を発見したので、諸惑星をその軌道に保つ力は、中心からの距離の二乗に逆比例することを推論した。これによって、月を軌道に保つに要する力と、地表の重力とを比較し、それらがかなりよく一致することを発見した。これらはすべて、一六六五年と一六六六年のペストの流行した二年間のことであった。この時これらはすべて、一六六五年と一六六六年のペストの流行した二年間のことであった。この時期は年齢からいって私の発見の最盛期にあたり、それ以後のどの時期よりも数学と哲学に打込んだ。

しかしこれはニュートンが76歳の時にライプニッツに対して微積分法発見の先取権があることを強調するために書いたものであるので、額面通りに受け取れないかもしれない。

実際、上の本の著者は、最近の研究*1ではこれは必ずしも正しくないといっている。例えば重力については、このときの研究ではニュートンは満足のいく理論には達していなかったし(最終的な理論に到達するためには例えばフックとのやりとりをきっかけにした研究が必要だった)、上で「一致する」とされた二つの力もその当時の計算では一致しなかった(42頁)。また微積分法などの数学の研究についても、重要な研究はペストによる閉校が一時的に解除された1666年3月から6月に彼がケンブリッジ大学に滞在した時になされたという。さらに光が屈折性が異なる射線からなることを示した「決定的実験」も、上記滞在時になされたことは間違いないという(47頁)。

そこから考えると「休暇」が果たした役割は、「大学でおこなった発見を[休暇時の]孤独のうちに、先人の書物から離れて、じっくりと時間をかけて推敲した」(34頁)ことにあるとされている。

従ってこの事例から得られる科学史的教訓は、「大学が閉校になるのは残念だが、教員や学生が大きな発見をなすかもしれないのでそれにはいいこともある」ではなくて「休暇も大切だが、大学が開いているときには行った方がよい」ということになるだろう。

*1:ただし上の本が出版されたのは1979年なので、そのときの「最新」の研究。なのでその後の研究で覆されているかもしれないことに注意が必要。

エルンスト・ヘッケルの研究不正

エルンスト・ヘッケル(1834-1919)の研究不正の事例について科学史の授業のためにいくつか論文を読んだが、授業ではほとんど使わなかった(二枚スライドを作っただけ)ので、またこの事例は日本語で検索してもあまり記述が出てこないので、ここでメモ。

ヘッケルは19-20世紀のドイツの生物学者で、進化論の一般への紹介者として、また進化と発生を結びつけたことで知られている。後者についてもっとも有名なのは「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼである。これは生物は胚から胎児になる過程(個体発生)でその種が辿ってきた進化の歴史(系統発生)を形態の上で繰り返しているという考えで、それを示すものとしてこの図(『人類発生論』Anthropogenie、1874年より)がよく引用される。この図は、成体では形態が異なる種でも胚の時代には形態が著しく似ており、これらの種が共通祖先をもっていることを示唆している。これと同じような図は、特にアメリカでは進化の証拠として二十年ほど前までは特に教科書などで広く掲載された。

二つの問題

しかしヘッケルには主に二つの点で研究倫理上の問題点が指摘されている。一つは著書『自然の創造史』(Naturliche Schopfungsgeschichte, 1868年)でイヌ・ニワトリ・カメの胚を比較する図を載せているが、リンク先の図を見てもらえればわかるようにこの三つの図が全くの同一である(同じ木版を三回使った)ことである。*1

二つ目の問題。ヘッケルは『自然の創造史』および『人類発生論』で(最初にリンクした図のような)様々な種の胚を比較した図を載せている。しかしこうした図については、先行研究で用いられた図を元にして種間の類似性を過度に強調するように描き直した疑惑がある。*2

これはヘッケルを批判した学者(ヴィルヘルム・ヒズ)が描いた図とヘッケルの図を比較してみるとわかる。ヘッケルの図では右頁の一番左の列がブタの発生で右端の列がヒトの発生だが、両者の胚は非常に似通っている。これに対してヒズが描いた図では左がヒト、右がヒトの発生を描いているが、両者は「似ていなくもない」という程度で、ヘッケルの図からの印象とはだいぶ異なる。

二回の嫌疑

科学史の中でこうした研究不正の嫌疑は二回立てられた。一つはヘッケルが著書『自然の創造史』および『人類発生論』を出版したあとである。両方の場合でも著書が出版された後に発生生物学者から問題が指摘された。

この経緯についてはホップウッドの論文*3が詳しいが、例えばバーゼル大学の動物学・比較解剖学の教授であるルートメイヤーは『自然の創造史』の書評で、上の図のコピーの問題を指摘するとともに、同書は(一般向けとしては許されるものの)専門家が守るべき真理への義務にもとっているとヘッケルを批判した(また当時の発生学の泰斗であるビシュホッフも、ヘッケルのヒトの胚の図が観察に基づいていないと同僚に不満を漏らしていた)。

また『人類発生論』の出版後も図について同様の論争が巻き起こった。例えば上でみたヒズの図は彼が『人類発生論』の後に出版した本(Unsere Korperform und das physiologische Problem ihrer Entstehung、1875年)に掲載された。また『自然の創造史』の後とは異なり、生物学の専門家ではない人たちも論争に参加した。例えばカトリック教会の牧師はヒズなどの著作を引いてヘッケルの図が意図的な改竄だと主張し、それを用いて進化論を否定する論考を執筆した。

もう一つは1997年である。このときは発生生物学者のリチャードソンらが『人類発生論』の胚の比較図が本当に正確か検証した論文*4を出版し、それに基づいてサイエンスライターのペニーシがScience誌に一頁足らずのレポートを書いた*5。彼らの論文では実際に図で挙げられている生物の胚(尾芽期)を撮影し、ヘッケルの図と比較した*6。それによると、ヘッケルの図は胚の形態を誇張するだけでなく、実際は約10倍異なるサイズを同等に見せるように描かれていたことがわかったという。

この論文・報告の影響は特に米では大きかった。というのは上での得たようにヘッケルのこの図は進化の存在の証拠として教科書などで扱われていたからで、進化論に反対する創造説やインテリジェント・デザイン説の支持者が大きく扱った。

まだ証明されていない?→やっぱりダメそう

しかしリチャードソンらやペニーシの報告に対しては科学史家・哲学者のロバート・リチャーズが「ヘッケルの胚:詐欺はまだ証明されていない」という論文(pdf)でヘッケルの擁護論を書いている。*7

彼の論点は主に三つある。一つは、Science誌のレポートはヘッケルの図ではもともと描かれていなかった卵黄をつけた胚の図を使って、ヘッケルの図と実際の胚の形態を実際以上に乖離するように見せている。しかしコンピュータを使ってペニーシの報告の図から卵黄を取り去った図を作ると、両者の違いは目立たなくなる(論文の図5)。

二つ目は、ペニーシの報告とリチャードソンらの論文の間の乖離を指摘するものである。ペニーシの報告ではそのタイトルに見られるように、fraud(詐欺、不正)という言葉でヘッケルの行為を形容しているが、元になったリチャードソンらの論文ではそうしていないという(149頁)。

さらにリチャーズはこうした(彼によると不当な)不正の嫌疑が出てきた理由についても考察している(153頁)。彼によるとこれは『自然の創造史』での三つの胚の図をコピーの問題を重大視しすぎたためであるという。まず三種の胚の図には問題があったもののヘッケルはこれによって読者を欺すつもりはなく、問題が指摘されたあと第二版で彼は図を訂正した。しかしこれによってヘッケルの周りの人々には悪いイメージがついてしまい、それによって第二の嫌疑が出てきたと述べる。

リチャーズの擁護論の問題点

しかし、ホップウッドの論文を読むとこの擁護はうまくいっていないことがわかる。

第一の点については、上で見たようにヒズが書いたヒトと豚の胚の図を見ると両者は結構異なっている。リチャーズの比較図を見るとそれと同じくらいヘッケルの図と実際の図は異なっているように見える。

第二の点。たしかにリチャードソンらの論文では"fraud"という言葉は使われていない。しかし彼らはヘッケルの行為には倫理にもとることがあったことを示唆している。一例はカエルの胚についての彼らの指摘である。彼らによればカエルは代表的な両生類の種類の一つだが、その胚は他の脊椎動物とかなり異なっている。そのことを知っていたヘッケルはカエルの胚の図を上の比較図には採録していない(104頁)。これは自分の説の都合のよいように例をつまみ食いすることであり、問題がある。

さらに、ヘッケルの図が問題になったのは三種の胚の図のコピーで注目されたためだというのも妙である。というのは上で見たように、胚の比較図に対する疑問は『人類発生論』ではじめて出たものではなくて、『自然の創造史』の図についても専門家によって陰に陽に抱かれていたからである

ということでリチャーズのヘッケル擁護論はあまり成功していない。

ヘッケルの「研究不正」

ただ、ホップウッドの記述を見ると、ヘッケルの行為を現代の研究不正と完全に同列に置くことは難しいかもしれない。というのはホップウッドはヘッケルの行為は当時の科学者の基準からしても問題だと考えているが、ヘッケルの中に読者を欺そうという意図はなかったとするからである。例えば上で述べたように最初の問題が指摘された後、ヘッケルはこれは「きわめて拙速で馬鹿げた行為」だったといって同書の第二版では当該の図を撤回し適切な図に差し替えている。これに対して現代の研究不正にはほとんどの場合読者を欺そうという意図があるだろう。

そういう意味でヘッケルを現代の枠組みに簡単にねじ込むことはできないけれども、しかしヘッケルの行為には研究倫理上の問題があるだろう*8

*1:これについてはある科学史家に教えられた。

*2:なお批判者の要点は、先行研究の図を断りなく用いた点というよりも、書き直された図が実際の形態と乖離していることにある。

*3:Hopwood, Nick: Pictures of evolution and charges of fraud: Ernst Haeckel’s embryological illustrations. Isis 97:260-301, 2006

*4:Richardson, M. K. et al.: There is no highly conserved embryonic stage in the vertebrates: implications for current theories of evolution and development. Anatomy and Embryology 196(2):91-106, 1997

*5:Pennisi, Elizabeth: Haeckel's Embryos: Fraud Rediscovered. Science 277(5331):1435, 1997

*6:下で紹介するリチャーズの論文(pdf)の図1に転載したものがある。

*7:Richards, Robert J.: Haeckel's embryos: fraud not proven. Biology & Philosophy 24(1):147-154, 2009

*8:なおこのエントリは上で引用した文献のみを参照している。HopwoodとRichardsにはそれぞれヘッケルについての著書(Haeckel's Embryos: Images, Evolution, and Fraud by Nick Hopwood(2015-05-11))および(The Tragic Sense of Life: Ernst Haeckel and the Struggle over Evolutionary Thought)があるが、それは読んでいない。またヘッケルについては日本語の本もある(ヘッケルと進化の夢 ――一元論、エコロジー、系統樹)が、それも参照していない。

科学者の歴史についての四冊

教えている「科学史」の授業で、どのようにして科学者が今のようなあり方になってきたのかについて講義した(専門用語では「科学の制度化」という)ので、その準備に使った四冊を紹介。

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

この本の第五章「科学者はいつから存在していたのだろうか?」はこのテーマに関心を持ったらまず読むべき。「学会」というものがない時代に科学研究者がどのように研究をしていたのかの解説から、アカデミーの成立、「科学者」という言葉の起源まで非常にわかりやすく書かれている。著者は周知のとおり仏王立科学アカデミーを題材に博士論文を執筆しており、信頼性の問題はない。この章がすぐれているのは単にテーマに沿って事象を並べるだけではなくて、きちんと「この時期はこういう感じ、この時期はこういう感じ」と出来事を整理して叙述している点である。

科学の社会史 (ちくま学芸文庫)

科学の社会史 (ちくま学芸文庫)

このテーマについてもう少し知りたいと思ったら是非読むべき本。この本は科学者と社会の関係に関する通史を扱っているが、その中でいくつかの章(第三章、第六~八章など)がこのテーマに充てられている。著者は化学史を専門としているので化学についての記述が多いが、テーマについて詳しく知るには問題ない。それまでの専門研究をきちんとサーベイしており信頼性に問題がないにもかかわらず歴史を明快に描くという一級の教科書の美徳をすべて兼ね備えている名著。

社会の中の科学 (放送大学教材)

社会の中の科学 (放送大学教材)

この本は『科学の社会史』と同じテーマを扱っているが、放送大学の教科書ということで前掲著よりはライトな書き方になっている。第七章から十一章までが科学の制度化に充てられている。各章には参考文献が挙げられているので、もう少し勉強したい人にはよいガイドになるだろう。

パトロン期からアカデミーが発達した時期までの科学者について、どちらかというと彼らの科学的業績以外のところから迫った本。たくさんの科学者が取り上げられていて辞書的に使うのは便利である。ただ、著者は科学史を専門とする研究者ではなく、またほとんど参考文献が書いていないので、信頼性に不安がある。例えばガリレオがピサ大学を辞職したのはトスカナ大公のコジモ一世の庶子が設計した浚渫機(港の海底の土砂をさらう道具)を嘲笑したせいだと書かれている(85頁)が、ガリレオ―庇護者たちの網のなかで (中公新書)にはそれは疑わしいとされている(40頁)。もちろん後者が間違っている可能性はあるわけだが、後者の著者は科学史の専門教育を受けたガリレオの専門家であり、おそらくその確率は低い。

道標が大切

最近は論文のドラフトなどを読む機会が多くなっているが、そこで気になることの一つは道標(サインポスト)がないために読みにくくなっている文章が多いことだ。

サインポストというのは、これから書く文章についてのメタレベルからの説明である。例えば「この節では**について説明する」とか「ここまではX氏の議論について紹介した。以下では彼の議論を批判する」といったものだ。

例えば

安保法制は違憲の疑いが強いと専門家の多くは述べている。代表的な憲法の解説書『○○』で解説を執筆する全国の憲法学者○○人にアンケートした結果によると、○割近くの研究者が安保法制は違憲の疑いがあると述べている。この法律はアジア諸国からも批判がある。韓国外務省高官の○○氏は○○年○月の記者会見で「○○」と述べたほか、中国の○○外相は「○○」と述べて日本を牽制している。これによって日本が戦争に巻き込まれる恐れがある。...

という書き方ではなくて、

この段落では安保法制の問題を三つ述べる。第一の問題は安保法制は違憲の疑いが強いと専門家の多くが述べていることである。例えば代表的な憲法の解説書『○○』で解説を執筆する全国の憲法学者○○人にアンケートした結果によると、○割近くの研究者が安保法制は違憲の疑いがあると述べている。第二はアジア諸国から懸念の声が上がっていることである。例を挙げると、韓国外務省高官の○○氏は○○年○月の記者会見で「○○」と述べたほか、中国の○○外相は同月の記者会見で「○○」と述べて日本を牽制している。さらに、これによって日本が戦争に巻き込まれる恐れがあるという問題がある。

という風に述べた方が、サインポスト(太字の文)がこの段落が何についてのものなのか読者をガイドするとともに、この後に「三つの問題」を説明する文が来ることを読者に予期させていて読みやすい。また後続の文で「第一の問題は...」「第二の問題は...」と書いてその予期を実現することによって、読者が心の中でその文章の内容を段落全体の構造の中に位置づけることが容易になっている。

ではサインポストがないとなぜ文章が読みにくくなるのか。それは、読者は一般に「著者が何をしようとしているのか」「今読んでいる文章がプロジェクト全体の中でどういう役割を果たすのか」がわからないまま長く複雑な文章を読まされるのを苦痛に感じるからだ。例えば

という有名な本の「はじめに」にある例をとってみよう。

例えばの話である、あなたが教室の中に入ると,机の上に長さ10cmほどの竹片とカッターが置いてあり,先生がその竹片からカッターで非常に細い棒状の一片を切り出すように言ったとする。

どういうつもりなのかは良くわからないが, とにかく言われた以上そうするしかない。そしてカッターを取り上げ,何度か失敗した後ようやくそれに成功する。

すると次に先生は, それをバーナーで燃やして黒焦げの糸を作るように言う。依然としてそれが何を意味するのかわからないが,やはりそうするしかない。ところが黒焦げの糸は作ったそばからぼろぼろくずれてしまう。くずれてしまったなら,再び前の工程に戻って最初からやり直きなければならない。

こんなことを3回も繰り返そうものなら, もうあなたの神経は忍耐の限度を越えてしまうだろう。この場合,作業の難しきもさることながら, フラストレーションの主たる源は先生が初めに, これから作るものが初期の白熱電球のフィラメントなのだということについて,一言コメントしておいてくれなかったことにある。

ここでの対象は科学実験だが、同じことは文章にも当てはまる。我々は「何のために」を知らされないまま何かを読むのはイヤなのである。

また特に論文においてサインポストが有用な理由もある。論文の主な読者は研究者であり、研究者は研究に関する読み物は批判的に読む習慣ができている。これは「読者は著者の目的に応じて読む際の力点を変える」ということでもある。例えば同じX氏の議論の解説を読むときでも、論文の著者が自説を擁護するためにそれを解説するときは、読者は自然と「X氏の議論に問題はないか」と考えながら読むだろうし、逆に著者がX氏の議論を批判するために紹介するなら、X氏の説を「何か擁護できるところはないか」と考えながら読むことになる。しかしそうしたガイドがないと、読者はどういうことを考えながらX氏の議論の解説を読んでいってよいかわからない。これは苦痛である。

このことはアカデミックライティングで言われることがある。例えばアカデミックライティングのやり方が

  1. say what you will do,
  2. do it, and
  3. then say what you did 

と定式化されることがあるが、これも1.のところで読者に「自分がこれから何をやるか」を明確化することが大事であることを示している。

ただ、文章読本の中にはsignpostの濫用を戒めるものもあって、例えばスティーブン・ピンカー

The Sense of Style: The Thinking Person's Guide to Writing in the 21st Century

The Sense of Style: The Thinking Person's Guide to Writing in the 21st Century

  • 作者:Steven Pinker
  • 出版社/メーカー: Penguin Books
  • 発売日: 2015/09/22
  • メディア: ペーパーバック
のなかでサインポストのようなメタ語り(metadiscourse)の濫用はよくないと述べている。たしかに節ごとに「前の節では...を行った。この節では...を行う」と書かれているといい加減うるさいと感じることはあるかもしれない。しかしピンカーもサインポストの代わりに段落を問いで始めることを薦めている(これはこの段落が何についての段落であるかを示すものである)ので、「読者に最初にここで何をやるのかを示す」というサインポストの役割自体は認めているのである。

酸素の発見についての四冊

科学史」の授業のために酸素の発見史についていくつか読んだので、その感想。ただし酸素の発見史に一冊すべて充てている本は日本語ではないと思うので、以下の感想は「化学史の入門書の中で酸素の発見史の部分に関するもの」ということになる。

化学史への招待

化学史への招待

今回紹介する本の中ではこれが一番勧められる。この本は日本の化学史家が化学史のトピックについて書いたものをまとめたもので、酸素の発見史は一章を充てられている。発見史の主要登場人物(シェーレ、プリーストリ、ラヴォアジエ)には一節以上割かれており、発見史の全体像を知る上ですぐれている(ただし各節は異なる化学史家によって書かれているので内容の重複はある)。またジェンダーと化学史の関わりとしてラヴォアジエ夫人にも一節を割かれていてその点も目配りがきいている。記述のレベルは平易で、化学の知識がほとんどなくてもついていける。

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

科学の真理は永遠に不変なのだろうか (BERET SCIENCE)

  • 作者: 中根美知代,小山俊士,三村太郎,矢島道子,中澤聡,隠岐さや香,河野俊哉,有賀暢迪,大谷卓史溝口元
  • 出版社/メーカー: ベレ出版
  • 発売日: 2013/11/01
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
  • この商品を含むブログを見る

この本は若手の科学史家が科学史の様々な時点のトピックについて書いたもの。第6章「酸素はラヴォワジエによって『発見』されたのだろうか?」が酸素の発見に充てられている。上の本とは異なり一章で酸素の発見史についてまとめていることもあり、ラヴォアジエに焦点を当てている。記述は平易で読みやすい。ただ、題名からも示唆されるようにこの本は偶像破壊を目的にしているところがあり、それが少しいきすぎているように見受けられるところがあった。例えば結論部で「『酸素』は、ラヴォワジエによって『発見』されたのではなく、むしろ『新化学体系』の象徴として『発明』された言葉だと言えるのです」(152頁)とあるが、ここでは「酸素」という言葉が言葉自身とその指示対象の二重の意味を持って使われていて、初学者に向けて書くにはミスリーディングと思う。

科学史・科学論 ―科学技術の本質を考える―

科学史・科学論 ―科学技術の本質を考える―

この本は上の二冊と異なり一人の著者の単著である。各登場人物の実験や理論について上の二冊より詳しく書かれている。その分レベルは高く、初学者向けの授業でそのまま使うことはできない。また分量が多いので、全体の流れはやや見通しにくくなっている。ただし授業準備をするときにわからないところを確認するのには役に立った。

物質理論の探求―ニュートンからドールトンまで (岩波新書 青版 970)

物質理論の探求―ニュートンからドールトンまで (岩波新書 青版 970)

これは1970年代の著作で、上で取り上げた著者よりはだいぶ世代が上にあたる。全体としてはまとまりのない記述で、授業の準備に必要な「だれが酸素にかかわるどういう知見をいつ手に入れたのか」というわたしの知りたいことを理解するにはたいして役に立たなかった。(ただし後にニュートン錬金術のところを読むとそこはまとまった記述になっていたので、すべてがまとまりのない記述になっている訳ではない)。

研究費の配分をクジで決める

研究費の配分を(一部)くじで決めているという『ネイチャー』誌の記事を読んだ。これを行っているのはニュージーランドの健康科学評議会(Health Research Council of New Zealand)という政府の組織で、2015年にくじを導入した。

くじで研究費の配分を決めると言っても、すべての申請を一律に箱に入れてくじを引くわけではない。第一段階では申請書をスクリーニングして一定のクオリティに達しているものだけを残す。そして一次審査を通過したものから研究助成金の配分先をくじで選ぶ。

この方式をとる一つの理由は、非常に優れた研究計画と非常に劣った研究計画を見分けるのは審査委員にとって容易だが、多数ある中くらいのクオリティの研究計画に逐一順位をつけるのは難しいことがある。しかし配分先をすべて人為的に決める場合はそうした申請の間に差異を見いだして無理矢理にでも順位を決めなくてはいけず、それには多大な労力が審査員にかかる。またそうした審査の末落とされた申請者にも(実際のところたいした違いがないところで無理矢理違いを指摘されて落とされたものだから)不満が残る。

これに対してくじに委ねるやり方ではそうしたhair-splittingな(些細な)違いを見分ける必要は審査員に生じないので、彼らの労力を節約することができる。また「落とされた」申請者のほうも、自分の計画がある程度の水準に達していたことがわかり不満は出ていないという。

またくじを導入するもう一つのメリットは助成金配分におけるバイアスが軽減されることだ。いろいろな研究で明らかになっているとおり、科学者の人生の様々な局面でマイノリティに属する人たちは不利を強いられる。助成金の審査も例外ではない。しかしくじの導入で、少なくとも第一次選考を突破すれば採択されるかどうかは平等になる。

また審査員による選考ではどうしても着実で「堅い」研究計画に評価が偏りがちで、ハイリスク・ハイリターンな研究には不利になる。これもランダム性を導入することで、そうした研究が採択される可能性は高くなる。

記事によるとくじによる選考はニュージーランドだけでなくスイスや独の公的・私的助成金でも用いられているという。

記事の最後にはくじを導入するメリットとして採択された研究者にhumility(謙虚さ)をもたらすことが挙げられている。誰しも経験があることだが、自分の研究計画が採択されると研究者は「我は世界の王なり」といった気分になる。しかし採択にあからさまに偶然がかかわっていることがわかるとそうした傲慢さを持つことは少なくなる。「それがまさに科学に必要なものなのです」とこのアイデアの支持者である経済学者のMargit Osterloh氏は述べている。