まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

輸入学問の功罪

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

を読んだ。

この本は、カントやマルクスといったドイツ系の哲学書の翻訳が一般読者にまったく理解できないものになっていることを告発しつつ、その背景を、市場から乖離した教養主義に求めたもの。

著者は第一章で、哲学書の翻訳が一般読者にきわめて読みにくいものになっていることを、『資本論』の翻訳を例にして示す。著者は、1924年に刊行された高畠素之の翻訳とそれより二十年遅れて出版された向坂逸郎の翻訳(岩波文庫)を比較し、向坂訳が一般読者にとってきわめて読みにくいものになっているのにたいし、それより二十年前に出された高畠訳のほうが読みやすさという点では上回っていることを例示する。この可読性の低さの原因としては、向坂の訳文が以下のような考え方に従っているからである(以下の三点はわたしによるまとめ)。

  • 逐語訳主義:原著の一単語と訳書の一単語が対応していなくてはならない。また訳書には、原著にあるすべての単語に対応する訳語がなくてはならない。
  • 同品詞対応:上と関連するが、たとえば原著で形容詞で表されているものは、訳書でも形容詞で表されなくてはならない。
  • 文対応主義:原書の一文は、訳書においても一文で表されなくてはならない。

訳者がこうしたポリシーに従っていると、訳書の一文が十行以上ある、「正確」「忠実」ではあるがほとんど誰にも読めない翻訳ができあがる。しかし、これは向坂のドイツ語読解力が低いからではない。むしろドイツへの留学経験がある向坂のほうが、高畠よりもドイツ語の理解については上だったという。つまりこうした翻訳はいわば向坂の「確信犯」なのである。しかも、河上肇三木清といった哲学者は、読みやすい高畠訳を些末とも言えるポイントから攻撃した。この過程を描く第一章はとてもおもしろい。

著者は、哲学書の翻訳でこうした誰にも読めない訳文が横行しているのは、訳者(ほとんどが大学に職を持つ職業哲学者)が、一般読者のことを念頭に置いておらず、市場からの淘汰を経ていないからであるとする。つまり、訳者が同業者の目ばかり気にしており、哲学の翻訳は知的教養エリート(原文の読める人)だけを相手にしていればよいという態度をとっているのが、こうした著しく読みにくい翻訳が出回る原因である。

第二章以下では、翻訳者のこうした一般読者からの別離を、近代における知識人の成立過程に求める。ドイツおよび日本の知識人はその成立過程において、市民階級から遊離し、国家エリート選抜のための教育の中に囲い込まれた。結果として知識人は、翻訳書を作るときに一般の読者がそれを理解するかと言うことには気を配らなくなったというのである。著者のこうした説明は十分に説得力のあるもので、とても興味深い。

しかし、わたしからしてよくわからなかった点もあった。二つだけ気になった点をあげる。

(1) 哲学書の翻訳に対する著者の説明の本筋は、上で述べたように、哲学者の一般読者からの乖離を、知識人・教養人の成り立ちの点から説明していくというものだ。しかし、最終章で著者はもう一つの、より心理的な説明を持ち出す。それは、翻訳者が何らかの不安を感じていたために、逐語訳主義を採用したというものだ。著者は、不安を感じたときは乱数を作り出すことが難しくなるという心理学実験(乱数発生課題)を引用し、人間は不安を感じたときは、ランダムなものに直面することができなくなり、存在しないところに秩序を見いだしがちになると主張する。その上で、逐語訳に見られる形式主義は、------文の構造だけに注意を注ぎ、原語の一語に日本語の訳語を一語ずつあてていくことによって------翻訳に本来つきまとう偶然性を排除するための形式であり、翻訳者が感じていた不安の帰結なのだと述べる。

わたしにはこうした説明が十分説得的だとは思えなかった。第一に、著者の問題設定の中で心理的な説明を持ち出すことが果たして適当だろうか。著者も認めるとおり、哲学書の翻訳で逐語訳主義がとられてきたのは、語学力の不足と言うよりも翻訳に対する一つの態度としてそれが採用されてきたからである。つまりこれは「制度」の問題であって、それを心理から直接的に説明するにはもう少し周到な準備が必要とされる。例えば、向坂はどのような不安を感じていたので、あのような翻訳をしたのだろうか。著者はエリートの選抜競争を知識人が感じていた不安にあげるが、それが向坂にも当てはまるのだろうか。また、不安が逐語訳を生む実例として大学生の誤訳があげられているが、それと「制度」としての逐語訳主義をどう結びつけるか、十分な議論がない。第二に、もし「不安」が逐語訳主義の原因だとすると、著者の勧めるとおり「市場」に翻訳者が晒されるようになったとしても、何らかの形で逐語訳主義は続いていくことになる。というのも、「市場」に晒されることで翻訳者が不安にとらわれることがなくなるわけではないからである*1

(2) 著者の議論は、哲学書の訳者が、「市場」つまり一般読者の世界から切り離されたところで訳文を紡いできたということである。しかし、この説は、訳者が「一般読者が理解できるような訳文を作る」こととは異なるインセンティブや規範の下にあったことは説明するが、どうして訳者たちが上のような特徴を持つ訳文を作ったのかということは説明しない。

つまり、哲学書の訳者がどうして逐語訳主義に従ってきたのか、という問いは少なくとも二段階の説明を必要とする:

  1. 哲学書の訳者は、どうして一般読者からの要求に会うような、理解できる訳文を作らなかったのか。
  2. (上の疑問に答えられたとして)哲学書の訳者は、一般読者には理解できないような訳文を作る無数の仕方の中から、上のような形式主義を選んだのか。言い換えると、学者の集まりの中で、どうしてほかでもない上のような形式主義に従うことが規範として受容されたのか。

著者の「訳者別世界説」では、1.の疑問には答えられるが、2.の問いには説明を与えない。もちろん、著者は2.の問いへの答えをいくつかの箇所でほのめかしている。例えば、151や220頁では逐語訳主義とエリート選抜の試験との共通性に言及しているし、外界から切り離され、内面における純粋さ・真理を求める一高的な教養主義とのつながりも示唆している。しかし、少なくないスペースを------必ずしもこの本の中心的なポイントではない------カント哲学の解説に割いていることを思えば、より重要に思えるこちらの説明を充実させた方がよかったと思う。例えば、逐語訳主義の背後にはある種の「正確さ・忠実さ」を過度に評価する傾向があると思うが、それと教養の自己目的化の関連について論じることができれば、この点でおもしろい議論ができたのではないだろうか。

*1:これはここの方にに教えられた論点。