まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

なぜ・何を・どうやって科学者に科学哲学を教えるのか

という論文を読んだ(リンク)。著者はスウェーデンの科学哲学者で、科学哲学が科学者及びその卵である理系学生に貢献できる理由と方法について書いてある論文だ。

なぜ教えるのか

科学者やその卵である理系の学生にに科学哲学を教えるべき理由として、著者は方法論的な理由を強調する。科学者の養成過程で、学生はその科学の方法論についても学ぶ。しかし著者の見るところ、その方法論にはきちんとした正当化を欠いたまま教えられているものがあるという。著者の挙げるのは次のような例だ。

  • 経済学では単純なモデルが尊ばれる。たとえばは著名なミクロ経済学の教科書の著者であるヴァリアンは「考えられうる限りで最も単純なモデルを書き付けて、それがなおなにかおもしろい振る舞いを見せているかチェックせよ。そしてもしそういう振る舞いを見せているなら、モデルをもっと単純にせよ」と述べる。しかし著者の見るところ、なぜ単純なモデルが優れているのか、きちんとした正当化が与えられることは少ない。
  • 仮説検定においては一般に、p値が0.05以下になると帰無仮説は棄却され、対立仮説に有利な証拠が得られたと見なされる。しかし、なぜ0.05なのかという理由が提示されることは少ない。
  • 経済学などでは、まず背景理論から予測を導き出すことを教えられて、データのみからパターンを導き出すことはデータマイニングだとして忌避される。しかし学生はなぜデータマイニングがまずいのかという理由付けを与えることはほとんどなく、実際学問間でデータマイニングに対する態度は異なる。
  • 経済学と心理学の実験デザインにおける物質的インセンティブの位置。経済学では、参加者に選択肢を与える際に適切な物質的インセンティブ(多くは金銭)を与えることは必須であり、そうしたインセンティブが与えられていない実験デザインは拒否される。一方心理学では物質的インセンティブの有無は実験結果に大きな影響を与えないと考えられている。ではこの違いは何に基づくのか? 

このような方法論的規則を著者はconventional methodologyと呼ぶ。conventionalというのは訳すのに悩ましい言葉だが、ここでは「きちんとした議論なしになんとなく受け入れられてきた」というぐらいの意味だろう。しかしこうした方法論をその基礎付けを無視したまま受け入れることは問題である。

しかし問題はそれだけではない。というのは、科学者は学校で学んだことをただ繰り返すことが求められている訳ではないからだ。学際的であることが必要であるし、イノベーションを起こす(新しい考え方を生み出すという意味で)ことも求められている。conventional methodologyを議論なくして受け入れることは、その妨げになる。なぜなら、学問間でconventional methodologyが異なると、学際的協力の妨げになるし、conventional methodologyに対する非反省的態度はイノベーションの妨げにもなるからである。

こうした点は科学の営みに哲学的な反省をもたらす。もちろん、これは哲学者の専売特許ではなく、現場の科学者も歴史的にこうしたことを行ってきた。その意味で科学者は実は(よく知られた比喩を使えば)鳥類学者と鳥とのハイブリッドであり、また科学哲学者も同様のハイブリッド(ただし科学と哲学の混合割合は異なる)なのである。

何を教えるのか

こうした観点から科学哲学教育を見直してみると現在のあり方には過剰な点と不足な点が目につく。

著者は現在出回っている主要な科学哲学入門書9冊を概観して、どの入門書がどのトピックをカバーしているかの表を作っている(p. 125)。こうした入門書には日本でも訳書が出ているオカーシャ、ローゼンバーグ、チャルマーズの本が含まれている。すべての本でカバーされているトピックは三つ(説明、帰納と確証、実在論)である。

このようなサーベイから現在行われている標準的な科学哲学のコースを推測したあと、著者は(理系学生向けのコースとしては)いくつかのトピックが不足していることを指摘する。ひとつは倫理的考察の欠如である。たとえば、狭い意味での研究倫理(捏造・盗用などの不正や実験における動物や人間の被験者への配慮の問題)の問題である。

また科学と科学外の世界の境界面に生じる問題もある。たとえば現代世界の中で科学者が専門家としてどのように振る舞うべきかことも問題になる。

一方、科学者の卵に教えるには比較的重要性が低いトピックも現在の一般的な科学哲学教育の中にはある。たとえば科学哲学の歴史はあまり重要ではない。カルナップが何を言ってそれに対してクーンが反論し、またそれに対してラカトシュが批判をした・・・という科学哲学歴史物語は必要ないというわけだ。

どうやって教えるのか

ではどうやって教えるのか。著者は理系学生に科学哲学を教える際に考慮すべき事柄をいくつか挙げる。

  • 人文系の勉強の経験なし
  • 科学哲学の授業を取る内在的動機付けがない
  • まだ科学に実際に取り組んだ経験はない
  • 物理系・生物学系から社会科学系にいたる様々なバックグラウンドを持っている
  • 規模の大きなクラスである

このような厳しい前提条件を考えると、たとえば科学哲学の理論の歴史を広範に行うことは得策ではないと著者は述べる。とくにこうした歴史は「ある理論を紹介→その難点を紹介→その後に出てきた理論を紹介→その難点を紹介」という「反例症」(counterexampelitis)に陥り学生の興味を引かなくなってしまう。

また理系学生の中には人文系の学問に不信を抱いていたり、ハードサイエンスを過大評価する傾向も見られる。

この傾向に対応する手段として著者が提案するのが科学の誤謬について集中的に議論すること、また境界設定問題について議論することだ。

また科学に実際に取り組んだ経験のない学生に、科学の営みを模擬体験させるものとしていくつかのシミュレーションを学生にやらせることも提案されている。たとえばHasok Changの実践として紹介されているのが、「18世紀科学者を体験する」という試みだ。この試みでは学生は18世紀科学のテキストを今の知識でもって読み、こうしたテキストに対して応答・批判を書くことになる。

もちろんこれですべてがうまくいくということは著者も言っていないが、有益な出発点になるのではとも述べている。