まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

「人生の意味」になぜ悩むのか? 進化論が答える

という趣旨の論文を読んだので紹介*1。欧米では「哲学=人生の意味に悩む」というのはステレオタイプ的な哲学の見方としてある*2が、なぜわれわれが人生の意味に悩むのかということを進化論の観点から議論した論文。

著者の議論は次のようになる。ヒトはその進化の過程で小さい隔離されたグループの中で生活してきた。したがって、ヒトの心のある部分は、そうしたグループの中で生活するように適応してきた。たとえば、心理学者はわれわれが互いにグループ化して、グループの間で競争するようになるような傾向性をもっていることを明らかにしてきた。実験において、被験者がまったく偶然によってグループに分けられた場合でも、スポーツなどグループ同士が競争するような状況におかれると、ヒトは容易にそのグループに心理的に同化して団結するようになる。

こうした傾向性がグループ間の集団選択が働くときに進化的に適応的で、したがって有利な選択を受けてきたということはもっともらしい。したがって、われわれにはこうした小さな隔離されたグループの一部となりたがる生物学的・心理的傾向性が備わっている。

しかるに、現代社会の発展の中でそうしたグループは失われてきた。主に血縁者からなる小集団は、発展した国では――とくに都市では――余り見られなくなった。

また意味の全体主義によると、ある対象Xが意味を持つのはそれがおかれた大きな状況・文脈による。例えば、単語の意味はそれが置かれた文全体の意味に依存する。この弱い意味の全体主義を前提とすると、われわれは自分の人生の意味を大きな集団との関係の中で把握するといえる。

したがって、われわれが人生の意味に悩むのは、集団を求める生物学的傾向性が現代社会では満たされないことからくる。著者はこう述べる。

 われわれは自らがその一員になれるような隔離されたグループを探し求める生物学的傾向性をもつ。だからわれわれはまた、より大きなシステム――われわれの生がその一部となり、われわれの生がそれとの関係によって意味を獲得できるような――を探し求める生物学的傾向性をもっている。問題はこれがむなしい探索であることだ。今日では隔離されたグループであるような社会はない。したがって、[人生に]意味を与えてくれるようなより大きなシステム――それとの関係においてわれわれが自らの生の意味を理解できるような――はないのである。

そして著者は、歴史上見られる人生の意味を求める試みはこうした点から解釈できることを指摘する。たとえばナショナリズムが全体との同化を求める心情から発している点は容易に見られるし、恋愛も「二人だけからなる隔絶された共同体」を造りあげようとしている。

個人的な感想を言うと、この論文は「人生の意味」の文献を参照していないし、意味の全体主義と「人生の意味」を無媒介に結びつけている点は「むむむ」と思うが(「人生の意味」における意味と語の意味といったときの「意味」の意味が同じかどうかは怪しい)、進化論をこんな風に応用できるのかという驚きはある。また著者の議論の構造は、進化的制約によってわれわれはXを求める心理的傾向性があるが、しかし別の条件によってXは簡単には得られないので、われわれはXを希求するのだというもの。これは某拙論と同じ構造ということで、拙論の骨格はまちがっていないのだなとすこしほっとする。

*1:Nanay, Bence (2010) Group selection and our obsession with the grand questions of life. The Monist.

*2:友人の哲学科の院生がいった一言が思い出される。「哲学をやっているのにどうして人生の意味に悩まないのかだって? じゃあ何であなたはチーズの意味に悩まないのか?」