まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

「科学」になった国際政治学にもやっぱり「知的謙虚さ」が必要だ

以下は先日刊行になった監訳書『「科学的に正しい」とは何か (ニュートン新書)』の宣伝のためにウェブメディアに執筆しようと計画していたものです。しかし事情により計画がうまくいかなかったので、用意していた下書きをブログ用に編集したものを掲載します。

新しい国際政治学は「知的謙虚さ」を欠くか

昨年末より、国際政治学のあり方についてX(旧ツイッター、以下旧名を用いる)上で大きな論争があった。きっかけは著名な国際政治学者である故高坂正堯氏の講演録の出版を契機にした雑誌『フォーサイト』の鼎談だった。この鼎談で、軍事評論家で東京大学専任講師の小泉悠氏が、国際政治学者の多湖淳氏(早稲田大学)の著作『戦争とは何か-国際政治学の挑戦 (中公新書 2574)』に触れて「知的謙虚さを感じさせない」と発言した。また慶応大学教授の細谷雄一氏が同鼎談やそれに続くエッセイにて多湖氏らの実証主義的な研究方法に対して同様の角度から疑念を呈した。

ここでの「知的謙虚さ」がどういう意味なのかは、元々の小泉氏の発言が断片的なので確定的なことは言えない。しかし鼎談の全体の流れから見てみると、国際政治学内に複数のアプローチがあることを前提とした上で「自分のやっていること(自分の研究手法)だけが正しい」とは考えずに、別の研究手法の価値を認めることと思われる。

実際、多湖氏の上記の著作を読むと、多湖氏がその流れに棹さす新しい「科学的」な国際政治学を紹介すると同時に、それと旧来の国際政治学を比較し、後者を批判する箇所がある。多湖氏が唱道する新しい国際政治学では、例えば15世紀から現在までの長期間にわたる戦争や内戦・紛争に関するデータを集め整理して、ゲーム理論的な枠組みや回帰分析などの統計的手法を用いて、「どういう要因が戦争や内戦の発生に寄与するのか」「戦争ばかりしている国・戦争をしていない国にはどういう特徴があるか」といった問いに答えようとする。

これに対して旧来の国際政治学では、例えば戦争が起こりやすい状況についての大雑把な説明はできるが、個別の状況に合わせた細やかな分析はできなかったり、そもそも議論がいくつかの「イズム」に則ったもので証拠に基づく議論になっていなかったという批判がなされている(例えば同書19頁)。

この上で小泉氏のコメントを敷衍した批判をすると、数量的・実証主義的な「新しい」国際政治学だけが正しいというような独善的な態度ではなく、鼎談の参加者が行っているような旧来のアプローチのよさも受け入れることが重要だ、というあたりになるだろう。

「知的謙虚さ」やて、それなんぼのもんじゃい

この小泉氏・細谷氏のコメント・議論に対してツイッターで大きな批判があった。批判の論点は多岐にわたるが、その一つは多湖氏の研究を批判するのに「知的謙虚さ」なるものに訴えること自体を批判するものである。例えば、「知的謙虚さ」でツイッターを検索するとそうしたツイートがたくさん出てくる*1。批判の要点を乱暴にまとめると、研究(者)を評価するときに「知的謙虚さ」のような心構えに言及するのはある種の人格批判になりかねず、評価の手法としては筋違いであるといったところだろうか。

わたしの専門は科学哲学であり、国際政治学ではない。従ってここでは多湖氏や多湖氏のような国際政治学者が知的謙虚さを欠くかどうかは議論しない。しかし、ある研究者を批判するときに「知的謙虚さ」というような心構え・態度に訴えること自体の是非については議論できる。というのは、『ポストトゥルース』(人文書院)で知られる米ボストン大学の科学哲学者リー・マッキンタイアが新刊『「科学的に正しい」とは何か (ニュートン新書)』(拙監訳)で議論するように、ある種の心構え・態度を持つことは科学が成功してきた重要な理由の一つかもしれないからである。

科学的態度が「科学の特別さ」を説明する

これはどういうことだろうか。この本でマッキンタイアは、尊敬できる科学者は特別な種類の心構えや態度を身につけており、それが科学を科学たらしめ、科学の成功を作り出しているのだと論じる。その態度とは、自分や他の人の説を経験的証拠に照らして吟味する態度であり、さらに自分の説が証拠に反することが分かった場合はそれを投げ捨てることを厭わない態度である。マッキンタイアはそれらを一括して「科学的態度」と名づける。

これがなぜ重要なのだろうか。マッキンタイアによると、「科学的態度」を試金石にすることで、これまで科学哲学者が成功してこなかった「科学」と「科学のまがい物」を分けるという課題が解けるというのである。「科学のまがい物」とは、創造論*2のような疑似科学陰謀論、人為的気候変動の否定論のように、「自分の意見は科学的に正しい」と主張するが実際は証拠に基づいた議論になっていないものである。科学哲学では「科学」と「科学のまがい物」を区別できる基準を長年探してきた。これは「線引き問題」(境界設定問題)と呼ばれるが、これまでの議論により両者を分ける境界線は簡単には見つからないことが分かっている。

これに対してマッキンタイアは、そうしたものを支持する人たちが総じて上の「科学的態度」に欠けていることを指摘する。例えば陰謀論者は自らの説と反する証拠を突きつけられても、「それは政府によるでっち上げだ」と証拠をあまりにも簡単に退けてしまいがちだ。こうした対比が成り立つのなら、この科学的態度の有無から「科学」と「科学のまがい物」をうまく区別することができるようになる。

それだけではない。マッキンタイアによると、この科学的態度を持っていたことが、科学が多大な技術的成功に結びついた大きな要因でもある。マッキンタイアはこれを医学の発展史から示そうと試みる。医学という分野は今でこそ人々の健康に大きく寄与するとされているが、19世紀半ばまでは非常に悲惨な状態で、瀉血に代表される医師が行う施術の多くは実際は患者に悪影響を及ぼすものだった。しかしマッキンタイアは19世紀後半から20世紀前半の米国を例にして、科学的態度を尊重できる体制が医学界の中で整うことで医学がいかに変わってきたかを描写し、こうした態度を科学者集団が身につけることがその分野が成功するために必要であることを示そうとする。

したがって、マッキンタイアが正しければ、きちんとした「心構え・態度」を持つことは科学や科学者にとって大切だということになる。

国際政治学に必要な「知的謙虚さ」

こうした観点から見てみると、ある研究分野における研究者の態度や心構えを云々することには立派な意義があり得ることが分かってくる。もちろん、マッキンタイア自身が議論するのは「科学的態度」だけで「知的謙虚さ」は扱わないので、彼の議論が国際政治学の状況にストレートに当てはまるか考える必要はある。しかし、上でいうような知的謙虚さが国際政治学にとって大事であることを見るのはそれほど難しくない。

というのは、国際政治は多数の要因が複雑に絡み合っている領域であり、また国際政治学はその研究で得られた学術的な知見を現実世界に応用することを一つの目的としているからだ。実際多湖氏の著書でも現在日本への政策提言が試みられている。すると従来の研究からの知見が全く的外れであることが示されない限り、従来型の研究を一刀両断的に退け外部からの声に耳をふさぐことは、有益な考え方や証拠のリソースの活用の道をふさぐに等しい。その意味で、国際政治学が「科学」として歩みを進めるためにも知的謙虚さが重要になる場面はあるだろう。

「無知」と「無知の知」の間で

ここまで「態度」や「心構え」が「科学」になろうとする国際政治学にとっても重要であることを述べてきた。しかし「態度」に訴えることを批判する研究者の考えにも一理ある。というのは、こうした「態度」をある人が持っているかどうかの判定は本質的に曖昧なものにならざるを得ないからである。するとこうした態度の有無で研究者個人や分野全体を裁断すると、結局のところある種の水掛け論になってしまうという危惧が生じるからだ。

マッキンタイアも認めるとおり、ある人が特定の態度をもっているかをきちんと判定するのは時に難しい。それでも創造論者や陰謀論者については多くの人が「科学的態度をもっていない」と言いたくなるのだから、この概念を使ったからといって、自分の思うがままに他人を裁ける訳ではない。

また、「知的謙虚さ」に訴えること、そして自らの知的謙虚さを誇ることが従来型の国際政治学に対する完全な免罪符になるわけではないことも述べておく必要があるだろう。本稿で問題にしてきた「知的謙虚さ」はある種の「無知の知」とも解釈できるだろうが、しかし研究者として、学問の徒として、無知に安住していても前進はないからだ。その意味で「無知」と「無知の知」の間を我々は歩んでいかなくてはならないのである。

*1:例えば、これ(同じ著者のこれも参照)、これこれ(同じ著者のこれも参照、これなど。

*2:生物の究極的な由来を神のような存在者による創造にあるとし、進化論を否定する議論。