まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

統計学の三つの問い

ソーバー先生の本

Evidence and Evolution: The Logic Behind the Science

Evidence and Evolution: The Logic Behind the Science

の第一章は統計学の哲学入門になっているが、その第一節では統計学の哲学が主に関わる三つの問について整理している。

この章で扱っているのは、主に証拠と仮説の関係である。手元に仮説があり、その仮説を実験なり観察なりに基づいてテストするというのが問題となる状況だ。これは科学哲学で確証の問題といわれてきたものと重なる。

結核検査の例を考えてみよう。Sさんが結核の検査を受けて、陽性の反応が出たとする。ここでの仮説と証拠は

  • 仮説:Sさんは結核である。
  • 証拠:Sさんが結核の検査を受けて陽性の結果を得た。

ということになるが、両者の関係はどのようになるだろうか。

ソーバーは、これについて考える際にはRoyallの本

Statistical Evidence: A Likelihood Paradigm (Chapman & Hall/CRC Monographs on Statistics & Applied Probability)

Statistical Evidence: A Likelihood Paradigm (Chapman & Hall/CRC Monographs on Statistics & Applied Probability)

の議論にならって、三つの異なる問いを区別するのが大切だと述べる。まず一つ目は、(i)証拠は何を言っているか(それは仮説に有利な証拠か不利な証拠か)という証拠の解釈の問題がある。つぎに証拠が何を言っているかがわかったとして、それに基づいて(ii)われわれは何を信じるべきか――たとえばその仮説を受け入れるべきか捨て去るべきか――という問題がある。さらに何を信じるべきかわかったとして、その上で(iii)われわれはどう行動すべきかという問題が出てくる。これは以下のようにまとめられる。

  1. 証拠は何を言っているか
  2. われわれは何を信じるべきか
  3. それを受けてどう行動すべきか

こうした問は一応互いに独立に答えられる。たとえば、(2)ある仮説を受け入れることを決めたとしても、(3)それについてどう行動すべきかについては、その仮説が正しい場合にどういう効用をもつかに左右される場合がある。病気の例でいうと、Sさんがある病気であるという仮説の確率が高いことがわかったとしても、ではどうするべきか(Sさんが、あるいは公的な機関が)というのは別の問になる。これはたとえばその病気の種類によって健康に与える影響が異なるからである。その病気が風邪ならば公的機関の出る幕はないだろうが、結核に感染しているならば、Sさんは隔離されなくてはならないだろう。

また、(1)と(2)の問についても独立に考えることができる。統計学の哲学における、ベイズ主義という立場では、ある証拠が仮説に不利であっても、そのことがその仮説を直ちに捨てるべきということを意味しない場合がある。その仮説にはそれを支持する膨大な証拠がほかにあるので、不利な観察が一つぐらいあるだけではその仮説の地位に揺るぎがない、というのがひとつの場合だ。相対性理論ダーウィン進化論のような確立した科学理論を思い浮かべるとよいだろう。こうした場合、ある証拠がある仮説に不利かどうかということと、われわれがその仮説を棄却するべきかどうかということは別問題になる。

ソーバーは、この章で検討するいくつかの立場――彼は主に、ベイズ主義、尤度主義、頻度主義(フィッシャー、ネイマン・ピアソンおよびAIC)を検討している――は、それぞれ異なる問に関わっていると述べる。例えばいま述べたように、ベイズ主義の立場は主に(2)の問に関わるのに対し、ある証拠に対する仮説の尤度(P(e|H))を比べる尤度主義と呼ばれる立場は、(1)の証拠と仮説の関係を明らかにすることを目指しているといえる。こうした目標の違いがそれぞれの立場を理解するときに重要になってくる。