ソーバー:理性の進化
前回のエントリでは、理性(の一側面)が自然選択によって進化したというクワインの議論を紹介した。今回は、それと近い路線、つまり理性は「自然選択による進化」という説と矛盾しない、あるいは理性の進化を説明するときに自然選択に訴えることには意味があるという議論を与えるエリオット・ソーバーの論文を紹介する*1。
この論文は表題の通り理性の進化について論じている。この論文は以下のようなデルブリュックのことばから始まる。
具体的なものに関するわれわれの心の働きはたしかに適応であり、つまり科学が出現するずっとずっと以前に生存競争をせざる得なかったような生活様式への適応である。...しかし、科学においてわれわれはそうした働きを超越できる。電子工学がわれわれの感覚器官を超越するようにである。
では、心のこうしたフォーマルな働きによって、われわれはなぜずっと大きな成果を生むことができるのだろうか? ... もしそうした働きも、われわれが洞窟の中でうまくやっていけるように進化したものなのであれば、そうした働きによって宇宙論や基本粒子、分子遺伝学や数論に関する深い洞察を得るなどということがどうして可能になるのだろうか? この問いにはわたしは答えることができない。
これを「デルブリュックの懸念」と呼ぼう。この懸念は、理性の進化を論じるときの困難、――つまりヒトの高度な心の能力は、選択にかかるような用途がないように見える(例えば不完全性定理を証明するような能力は、サバンナで生き残るのに必要ない)のに、なぜ自然選択によって進化したのかという問い――を示している。こうした問いを真剣に受け止めたウォレスが、ヒトの進化は自然選択では起こらなかったと結論したのはよく知られている。
この問いを受けて、ソーバーは、「理性が進化した」という考えに対する次の三つの批判をこの論文で検討する。
- 理性は生き残りのために役立たない。
- われわれが進化したような環境では、科学的方法と非科学的方法は等価である(=同じインプット・アウトプット関係がある)。
- 科学的方法は、たくさんの非理性的な方法とグローバルに(つまりわれわれが進化したような特定の環境だけではなくて一般的な環境で)等価である。
(1)の問いに関してソーバーは、例えば多面発現のような現象に訴えて、たとえ理性が生き残りのために役立たなかったとしても、それが理性が進化した可能性をふさぐわけではないと述べる。また、上の批判は、生き残りに直接役立つような実際的な理性と科学の発展に役立つような理論的な理性は別々のメカニズムにより担われていることを前提としているが、どちらにも同時に役に立つ全方向的な認知システムが進化したのかもしれないという可能性も指摘する。
(2)(3)の問いに対してソーバーは「情報適応度」の考えを提起し、理性的方法と非理性的方法が上の意味で等価であっても、計算上の冗長さの点からさまざまな推論規則が選択にかかりうる、と主張する。例えば、帰納について次の二つの推論ルールを考えてみよう。
- (SR) :観察されたm個のAのうち、n個がBだったなら、のこりのAのうちn/mがBであると推論せよ。
- (ADD) :観察されたm個のAのうち、n個がBだったなら、最初の10^10個の整数を足せ。そしてこの合計から最初の10^10個の整数を引け。そうして出てきた数にn/mを足し、その数がのこりのAのうちBである割合であると推論せよ。
インプット・アウトプット関係から見ると、SRとADDは同じである。どちらにしたがっても「観察されたm個のAのうちn個がBだった」という観察から「のこりのAのうちn/mがBである」と推論するよう命じる。しかし計算上の冗長性から見ると、SRとADDは違う。SRがシンプルな帰納推論であるのに対して、ADDは明らかに冗長な計算をするように命じている。計算上の冗長性は他に振り向けられるエネルギーを無駄な計算に費やすという意味で、情報適応度の観点から見るとコストがかかる。したがってもし(SR)と(ADD)をコードするふたつの遺伝子があったとすると、(SR)をコードする遺伝子が有利な選択を受けたと考えられる。
したがって、理性の進化を考えるときにはインプット・アウトプット関係における等価性だけでなく、計算上の冗長性についても考慮すべきなのであり、その点から見ると「理性的」推論規則は多くの非理性的規則に対して大きなアドバンテージをもっているのである。
*1:The Evolution of Rationality, Synthese 46(1):95-120