まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

Fear of Knowledge

TAをしていたコースの関係で、次の本を読んだ。

Fear of Knowledge: Against Relativism and Constructivism

Fear of Knowledge: Against Relativism and Constructivism

知識の社会構築主義相対主義に対する簡潔な反論本。

1. Introduction
2. The Social Construction of Knowledge
3. Constructing the Facts
4. Relativizing the Facts
5. Epistemic Relativism Defended
6. Epistemic Relativism Rejected
7. The Paradox Resolved
8. Epistemic Reasons and the Explanation of Belief
9. Epilogue


著者は社会構築主義(SC)を(i)事実についてのSC、(ii)正当化についてのSC、(iii)理性的説明についてのSCにわけ、それぞれについて対抗する議論を出していく。それぞれの主張については次のように整理している。

  1. 事実についてのSC:世界は、われわれや社会的文脈から独立していない。あらゆる事実は、われわれの偶然的な必要性や興味を反映する形で社会的に構築されている。
  2. 正当化についてのSC:「情報Eが信念Bを正当化する」という形の事実は、われわれや社会的文脈から独立していない。そうした種類の事実は、われわれの偶然的な必要性や興味を反映する形で社会的に構築されている。
  3. 理性的説明についてのSC:われわれが何を信じているかを、われわれがどういう関連する証拠をもっているという観点からのみで説明することはできない。われわれの偶然的な必要性や興味に訴えることが避けられない。(p. 22)*1

ではなぜ社会構築主義が問題になるのか。それは社会構築主義が、われわれがもつような自然科学は、世界を理性的に探究する多くの合理的手段の一つにすぎないという主張(著者はこれを「同等妥当性」と呼ぶ)をサポートすると思われているからである(p. 2)。しかし、科学的探究の認識論的特権性をみとめる著者や多くの哲学者にとっては、こうした見方は受け入れられるものではない。これが著者の背後にある動機である。

以下、このエントリでは、(i)と(ii)に関する議論を見る。

事実に関する社会構築主義


著者は三章と四章で(i)事実についてのSC(彼はグッドマンやパットナム、ローティを念頭に置いている)について検討する。著者は、これらの社会構築主義は、(a)事実の記述への依存および(b)記述の社会的相対性をややもすると混同しているという。(a)は、事実は、われわれが世界をどう記述するかということから独立していないという主張であり、(b)は、われわれが世界をどう記述するかということは、どういう記述が役に立つかということに依存しており、そしてどういう記述が役に立つかということは、われわれの偶然的なニーズや関心に依存しているという主張である。例えばローティは、あたかも(b)が(a)を含意するように述べるが、それは正しくない。

またグッドマンやパットナムの議論はクッキーカッター型相対主義とまとめられる。これは、単純にいうと、一つの生地から異なるクッキーカッターを使ってさまざまなかたちのクッキーができあがるように、異なる概念を用いると異なる存在者が切り出されるというものである。著者によるとこうした相対主義はうまくいかない。クッキーカッター型相対主義は、概念を用いて切り出される現実の実在を前提としているとして批判する。例えば、グッドマンはすべての事実は記述に依存しているというが、そうしたことを主張するための彼自身の枠組みがそうでないものが存在していることを前提としているという。先の比喩になぞらえれば、クッキーカッター型相対主義は生地の存在を認めているではないか、というわけである。

そのあと著者は事実についてのSCの問題点を指摘する。批判の一つは、社会構築主義は無矛盾律の否定に導くというものである(三章)。もしわれわれが事実pを社会的に構築したなら、そしてその社会的構築が偶然的な行為に依存しているなら、われわれとは別のコミュニティではpの否定が社会的に構築される可能性がある。すると、社会構築主義の元では「pかつnot-pが可能」ということになるが、これは無矛盾律に反する。

また、ローティ流の大規模な相対主義もうまくいかない(四章)。というのは、こうした相対主義では、端的に「p」という命題はなく、「理論Tによれば、p」というようなあるフレームワークにそった形の命題しかない。しかし、大域的な相対主義が正しければ、そうした命題も端的な命題ではなく、新たなフレームワークが必要になる。しかしこれには終わりがない。したがって、われわれが「p」という信念をもっていると考えているとき、実際はわれわれは無限の数のフレームワークを前提にした命題「...理論Tiによれば、...理論Tnによれば、p」ことになる。しかし、これはありそうにない。

正当化についての社会構築主義


正当化についての社会構築主義については五章から七章までを使って論じている。五章では、正当化についての社会構築主義を支持する議論を以下のようにまとめている。

  1. 何が何を正当化するのかについての客観的な事実があるならば、それについて正当化された信念に到達することができる。
  2. 何が何を正当化するのかについての客観的な事実について、正当化された信念に到達することはできない。
  3. 正当化について、客観的な事実はない。
  4. もし正当化について、客観的な事実がないなら、認識論的相対主義が正しい。
  5. したがって、認識論的相対主義が正しい。

ポイントは二つ目の前提だ。相対主義者は、証拠Eが信念Bを正当化するというとき、その正当化はあくまである認識体系の内部でおこるとする。しかし、そうした認識体系自体を(循環論法によらずして)正当化することはできない。たとえば、地動説に関する論争で、聖書の権威に訴えるBellarmineに対して、ガリレオは近代科学的が採用するような認識体系に訴えて自らの信念を正当化する。しかし、近代科学的な認識体系そのものを、何か他のものに訴えて正当化することはできない。したがって、結局のところ「EがBを正当化する」という信念を根底から正当化することはできない。

SCの問題点(六章)

しかし六章で著者は、上の議論とは別に、こうしたSCの問題点を指摘する。相対主義者によれば、(c)「望遠鏡からの証拠E0ガリレオの地動説的信念B0を正当化している」という命題は、「ある認識体系Cによると、E0はB0を正当化している」と読まれるべきで、(c)のような命題は端的には偽だという。しかし、こうした読みを許容するためには、正当化は認識体系の受容を前提しなくてはならない。

ところで、個々の認識体系は、認識的原理をもっている。例えば、近代科学においては、観察や帰納法や最善の説明への推論といったものが、知識を得るために必要な原理とされ、科学者はこうした原理を受け入れていると考えられる。観察については「観察言明pについて、もししかるべき条件の下でSにとってpのように見えるならば、Sはpという信念をもってよい(正当化されている)」(d)という具合で、こうした原理に基づいて、科学者は個々の信念が正当化されていると判断するのである。すると、相対主義者の描像によると、科学者は特定の認識体系を受け入れているわけだから、彼らは(c)を拒絶すると同時に(d)を受け入れていることになる。

しかし、(d)のような命題は(c)を一般化したものであることに注意する必要がある。そうなると、相対主義者によると、科学者はじつはある命題を拒否すると同時に、当の命題を一般化したものを受け入れていることになる。しかし、それは整合的ではなく、相対主義は受け入れられない、というのが著者の結論である。

対立の解消(七章)

六章の議論は、認識論的相対主義を批判した。しかし、その批判は、相対主義者のもともとの議論を直接攻撃するものにはなっていない。従って、七章で著者は、上の議論を再考し、どこが成り立たないか明らかにする。五章における相対主義者の議論は、根本的に異なる認識体系が遭遇するときには、双方が共有できる正当化の基盤はなく、各認識体系の正当化は循環的なものにならざるを得ず、よって正当化について正当化された信念に至ることはできない、というものだった。著者はこうした遭遇について相対主義者がもつ懸念を以下のように定式化する。

われわれの認識体系C1に対抗する、一貫性があり実際に存在する本物の代替的認識体系C2に遭遇し、その実績がわれわれのC1の正しさに対する信頼を揺るがす程印象的であるばあい、われわれはC1をC2よりも正当化することは、われわれの目から見てさえもできない。(101、ここは文字通りの翻訳)

しかし、これが導くのは、「われわれの認識原理の正しさに対して正当な疑問が出てきたときに、そうした原理の正しさについて正当化された信念にたどり着くことはできない」ということであって、先の前提(2)「何が何を正当化するのかについて、正当化された信念に到達することはできない」ではない。つまり、われわれの認識原理について正当な疑問が出てこない限りは、われわれはそうした原理の正しさについて正当化された信念に達することができるのである。

まとめ

こうして見てきたように、この本はいろいろなタイプの社会構築主義に対して一つ一つ反論していくという本なので、全体像がややとらえにくい。また、著者の議論は、社会構築主義内部の論理に寄り添いそれを丹念に追っていくいわば「カウンセリング」的な議論ではなく、別の原理をもちだしてそれとの齟齬を指摘するというたとえるなら「外科的」な批判である。しかし、議論自体は説得的にみえるので、社会構築主義に興味のある人なら読んで損はないと思う。

追記(参考リンク)

※ただしイケメンに...、いやちがった、ただし上の書評のほとんどをわたしは読んでいません。

*1:これは正確な翻訳を意図していません。