Evo-DevoとDST
最近何回かEvo-DevoとDSTの関係について日本語で書いてあるものを読んだので、今のところの考えをメモ。ただしこのトピックについては今のところリサーチが決定的に足らないので間違いやoversimplificationが入っている可能性が多分にあるので、その点はご注意を。
DST(Developmental Systems Theory, 発生システム理論)とEvo-Devo(Evolutionary Developmental Biology, 進化発生学)はどちらも発生に関する理論だが、両者を簡単にまとめると次のようになると思う。
DST
DSTは、生物の個体発生の過程に関する遺伝子一元論に反対する。DSTによれば、個体発生にはいろいろな原因がある。すなわち、ある個体がいまもつ表現型を持つまでには、遺伝子だけでなく様々な要因が原因となっていた。例えば、鳥のヒナが歌を学ぶのはそれが育てられる過程を通じてである。にもかかわらず、これまでは遺伝子要因のみが強調される傾向にあり、ややもすると遺伝子のみが個体発生の原因であって、ほかの要因は単なる背景要因と見なされがちであったことを指摘する。しかし、発生に関する事実から考えるなら、本当はそうではない。遺伝子は発生の特権的原因ではなく、ほかの要因も本来単なる背景要因ではない。そうした要因をすべて含んだ「発生マトリックス」から考えていくべき。ステレルニー&グリフィスはこう述べる。
発生の結果生じるものについての情報は遺伝子がもっているという考えをどのように再構成しても、そうした再構成は、発生のほかの原因にも同じようによく当てはまる。(Sex&Death)
アナロジーを使うと、こういう感じになるだろうか。例えば山火事の一般的な原因について考えているとしよう。普通そうした場合は出火元について考える。たばこやキャンプファイヤーの火の不始末といったことである。遺伝子中心主義は、こうした目を引きやすい(salient)原因にのみ注意を向けて、それ以外の要因を軽視・無視するような態度に似ている。しかし実際のところ山火事の原因はそれだけではない。例えば地元の消防団の不備(人不足、組織化の不足など)やたばこ産業の存在、さらには酸素の存在も原因の一つに考えられる*1。DSTはこうしたそれほど目につかなかった原因にも注意を向け、すべての原因を等しく扱う態度に似ている。
Evo-Devo
Evo-Devoは、一言で言うと系統発生と個体発生の関係を探る研究プログラム。ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」(recapitulation)というテーゼから考えるとわかりやすい。これは生物は個体発生の中で、それまでどういう進化的経路をたどって今の種にたどり着いたかということを形態の面から再現するという考え。例えばヒトの胎児の形態は成長が進む中で、単細胞生物→魚類→両生類→鳥類→哺乳類→人類のそれぞれの形態をたどっていくように見える。これは今では受け入れられていない考え方だが、リドリー(pdfファイル)は現在のEvo-Devoの先駆的な研究と見ている。それは、この中で系統発生と個体発生が結びつけられいているから。
現代のEvo-Devoで主役になるのは例えばHox遺伝子であるが、こうした研究からわかってくるのは多くの場合次のような形をとる。
進化的に異なった生物S, T, ...Zがこれこれの発生的要因D(e.g.,遺伝子)を共有していて、それが生物間の(形態的)類似Rをもたらしている(あるいは、これこれの違いが生物相互の(形態的)違いをもたらしている)。
両者の関係
もし両者の概要がこういう形だとすると、両者は両立不可能ではない。なぜならEvo-DevoはDSTが強調するような要因の存在を否定するわけではない(研究上の制約から発生マトリックスのすべての要因を考慮に入れられないかもしれないが------しかしこれは認識論的な論点)し、またDSTもEvo-Devoが強調するような要因の存在を否定するわけではないから。しかし、両者はスムースにつながるわけではない。というのはDSTの強調点は発生原因についての平等主義であるのに対し、Evo-Devoの強調点は系統発生と個体発生の結びつきであるから。Evo-Devoは基本的にあるタイプの発生要因に注意を向けている。したがって両者は「同じ」主張ではないし、同じ研究プロジェクトではない。Evo-Devoの支持者が同時にDSTの支持者であることもあり得る。しかしその場合、その人は二つの異なる(しかし両立可能な)主張をしているのであって、一つの主張をしているわけではない。また、Evo-Devo研究からの帰結がDSTの証拠になる場合もあるだろう。しかしそれはEvo-Devoの中心的な主張が反遺伝子一元論であることを意味しない。
*1:すべてが社会的に重要な原因かどうかは別として
バカがいっぱい
気づいてみると、この世の中にはバカがいっぱいである。別に自分以外のすべての人がバカだというつもりはないが、今まで思っていたよりもバカはずっと多いのである。「そんなバカなことがあるか」という人もいるかもしれないが、そういう人は自分とは違う政治信条をもつ人のことを思い浮かべてみればいい。そうするとすぐに彼らがほとんど例外なくバカであることがわかる。あなたが左翼なら右の人はどうしようもないバカであるし、あなたが右なら左派は死んでも直らないようなバカである。あなたが中道なら、左翼右翼はお互いをバカと罵りあっている時点で両方ともバカである。もちろん、あなたとは違う信条をもつ人の中にもほんの少しだけバカでない人はいるが、しかしそうはいっても、結局のところ彼らもあなたと同じ立場には立たないのであって、そういう意味では彼らも------程度は低いものの------やっぱりバカだといってよい。
しかし考えてみるとこれはおかしいのではないか。政府が今の状況でなすべきことは明々白々である。なぜこれが他の人にはわからないのだろうか。それはもちろん彼らがバカだからであるが、しかし彼らだってたんなるバカではないかもしれない。そう考えると、あんなバカがこんな聞いたふうな意見を持つのはおかしい、たぶんこれは彼らがどこかから金をもらっているのかもしれない、あるいは何か巨大な陰謀があって------この世の中には陰謀をめぐらせている集団がたくさんある、新聞社、テレビ局、広告代理店、政府、政治家、官僚、財界、外国人、外国政府、なんとか教団の類だ------そうした陰謀に(彼らはバカなので)知らず知らずのうちに籠絡されているのだ。そうすると、こうしたバカが一人前に意見を吐いて、しかもあなたにとっては明白な結論にたどり着かない理由が明らかになった。つまり、彼らは二重にバカなのだ。あんなバカな奴らにたらし込まれて、あなたの立場が正しいことが見えないなんて。
あるいは単に、彼らは徒党を組んでいるだけかもしれない。バカがバカを呼び、バカがバカと集まり、バカが仲間うちのバカな誰か(つまり大バカだ)を担ぎ上げて、バカな目標を達成しようと努力をするふりをするも、根がバカなものだからとんちんかんな方向にしか行かず、そして結局のところ目標などという高級なものは自分たちにとっては本当はどうでもいいことがわからず(バカなので)、ついには一日中バカなことだけを言い合う集まりになって、つまりはじめから終わりまで何をしていたかというと、バカ同士「バカバカ」と言って馴れあっていただけなのだ。そして彼らはあなたのような人のことをバカだといっているに違いない。なんと大胆な。バカがバカと集まり、あまつさえあなたのような人のことをバカ同士でバカと呼ぶのだ。もちろんこれは彼らがバカだからできることではあるが、しかし驚いてしまう。いったいこれはバカの何乗なのだ。バカの累乗加速装置。こんなことが続いていると、いつの日かこの世はバカで埋め尽くされ、政府はバカに牛耳られ続け、しまいにはどうにもならなくなってしまうだろう。
しかしどうして最近こんなにバカが増えたのだろうか。あなたの人生がこんなに大変なときに------仕事はうまくいかないし、人間関係も大変だ。あなたの周りは(本当はバカなのに)みんなうまくやっていて、あなただけがうまくいかない。ふと、二流の人生かな、とおもう。そう考えると、こんなにたくさんバカがいてよかったのかもしれない。バカを相手にするのもいい暇つぶしだ。だってバカはバカだからあなたに議論で勝てるわけがない。百戦百勝、勝率十割だ。名監督だってこんなに勝てない。それにバカにバカと言ってもバカのバカが直るわけではない。しかもバカの数はほぼ無限だから、あなたがこんなバカばっかりの世の中を変えられるわけがない。そう、この世はバカでいっぱい。道理であなたの人生はうまくいかないのだ。もしそうなら、バカに支配された世の中を変えるなんてばかばかしい。うん、バカをバカと罵倒するのも悪くない暇つぶしだ。