最近自然再生事業にかんする論文を書いた関係で、『自然再生』という本を読んだ。
- 作者: 鷲谷いづみ
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/06/01
- メディア: 新書
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目次は以下の通り。
序章 熱波に襲われたロンドンで
第1章 生物多様性の危機
第2章 生物多様性を育んだ共生と人類
第3章 征服型戦略の末路と積極的共生型戦略
第4章 健全な農業、健全な食卓をめざして
第5章 豊葦原の瑞穂の国の昔と今
第6章 英国の田園の自然再生
第7章 積極的共生型戦略の時代へ
終章 求められる悟りの科学
本書は、開発などによって失われた生態系の機能を回復させる生態学的再生(ecological restoration)あるいは自然再生(restoration of nature)について、その背景を人類史さらには地球史的な観点から見直し、同時に再生の目的を説明し、その必要性を訴える本だ。わたしはこの本がこういう本であることには異論はない。しかし、この本には、いろいろと(主に構成上の)問題がある。
題名・構成の問題
まず題名と著者が実際に論じていることがあっていない。題名に『自然再生』とあるので、わたしはこの本は自然再生事業の実際について書かれてあるものと期待した。しかしそれについては180ページほどの本の中で、最後のほんの数ページにしか書かれていない。その前までで論じられているのは、基本的に生物多様性(とその歴史的背景・環境的背景)なのである。たしかに、生物多様性の回復は自然再生事業の大きな目標なのだが、生物多様性について百ページ以上割いて再生事業には数ページのみというのは『自然再生』という名の本としてはおかしい。『生物多様性の危機と自然再生』といった名前ならまだ納得がいくのだが。
また、全体として180ページあまりと新書としても薄い本なのに、実質九章立てになっているので、ひとつひとつの章の議論の中身が薄くなり掘り下げが足らなくなってしまっている。
さらに全体の構成にもまとまりがない。2章・3章は人類が自然とどのように「共生」してきたか(してこなかったか)を歴史的に振り返っているのだが、そのあとの第4章では、現代の農業がもつ問題点が生物多様性の点から指摘される。あとの章から考えると、著者は水田を生物多様性の豊かな生態系と考えているので、つながりもわからなくもないのだが、3章までの話からすると唐突な話の持って行き方である。また、第4章はわずか10ページあまりなので、上で述べたように話に物足りなさがある。
グローバルな問題とローカルな問題の関係
また、この本ではグローバルな環境問題とローカルな環境問題を一緒に論じているのだが、二つの問題の関係が明確ではない。環境問題およびその下位問題としての生物多様性の問題には、次のようにいろいろなレベルがある(以下のリストはexhaustiveではもちろんない)。
- Global warmingのような気候変動
- 地球規模でのbiodiversityの危機
- 熱帯雨林保護を通じたbiodiversityの保全
- 日本の里山やイギリスの生け垣のようなcultivateされた生態系の保護を通じたbiodiversityの保全・回復
著者は本書で1.(および2.)と4.について論じている(1.と2.については序章と1章、4.については5章以降)。しかしなぜ1.のグローバルな環境問題の話をこの本でしないといけないのかわからない。わたしの理解では、4.のような生物多様性の保全は、第一義的にはローカルな環境問題だと考える。というのは、そこで行われる自然再生事業の規模がローカルなものだからであるし、それによってもたらされる利益もローカルなものだから(景観の保全、親しんだ生き物がかえってくる、など)。たとえば、第7章で自然再生事業の例に挙げられるアサザプロジェクトが成功したからといって、気候変動が収まるとか地球規模での生物多様性の危機が回避されるのに十分だとは誰も考えない。「自然を再生すること」という概念を「自然再生事業を行うこと」とほぼおなじことだと考えるなら、再生事業の集合体を考慮しない限り、それはローカルな問題だとおもう(だからといってそれが重要でないということはない)。この本では、その点が明確になっていないような気がした。
ひいきのひいき倒し?
また、生物多様性を擁護する文脈で、適切なサポート(証拠・議論)を欠いた言明が見受けられる。たとえば、
- 企業が生物多様性に配慮すると業績が上がるように書かれている(153ページ)。たしかに企業が生物多様性について配慮しなくてはいけないとされているのは確かだろうが、本当に「[生物多様性の尊重]に正面から取り組んで成功をおさめることができれば、地域から理解され、社員のやる気が高まり、業績の向上も見こまれるというものである」(同)などということが正しいのだろうか。
- ヒトには自然のなかの「共生現象」に本能的に惹かれる(45,49ページ)と書かれているが、本書に述べられているだけの証拠------ヒトが花を愛でたり、花に訪れる昆虫や鳥などに見入る------ではちょっと弱いように思う。
- 日本に外国からの観光客が少ないのは日本が生物多様性に配慮していないからであるような書き方がされている(119ページ------ただし著者ははっきりそう述べているわけではない)が、本当だろうか。著者にとってイギリス(生物多様性に配慮している国として描かれている)の方が日本より魅力的なのは確かだが、それを一般の人にまで当てはめていいものか。
- 持続可能な農業について。著者は農業の現状を批判して、富裕層は安全でおいしい野菜などが食べられるのに対し、貧困層にジャンクフードが押しつけられている(86ページ)と指摘する。しかし、著者は同時に自らの理想とする「持続可能な農業とは、極力農薬を使わない低投入型の、ていねいに人手をかけて行う農業」(90ページ)だという。もしそうなら、そうした農業から生まれた産物は高価格にならざるをえず、貧困層にジャンクフードがいく構造は結局のところ変わらないのではないか。
- 自然再生事業が自然に対する人類の「積極的共生戦略」として、「征服戦略」と対比させられている。しかし、環境倫理学者の中には自然再生事業は後者のカテゴリーにはいるというものもいる(E. Katzなど)。これについてはどう考えるのか。
わたしはこうした指摘が誤りであるといいたいわけではない。そうではなくて、こうした点に納得がいかない人は一定数いるはずなのに、彼らを説得するだけの材料を本書が提供していないことが問題なのである。
特に気になるのは、上のうちはじめの四つは、生物多様性の大切さを訴えるあまりにサポートがなくては受け入れにくい記述をしてしまっていることだ。これだと、著者と生物多様性について同じ考えを共有していないと、こうした点に同意することはありそうにないのではないかという危惧を起こさせる。つまり、こうした点を主張することで、かえって、自然再生事業の必要性について懐疑的だった人を説得する際の障害になる。このことは、著者が、再生事業を進める際に研究者ではない人に情報をわかりやすく伝える努力の必要性を説いている(177)だけに、特に残念である。
よいところ
もちろん、この本にもよいところはある。日本の水田やイギリスの田園(特に生け垣)における生物多様性を論じた5-6章はとくに面白かった。たとえば、かつての水田は氾濫源の湿地に似た生息場所であり、伝統的な水田は樹林や草原などと共に生物多様性の豊かな生態系のネットワークを形づくっていた(96-7ページ)。著者によると、里地・里山や雑木林、草原では、そこを自然のままに放置するのではなく、柴刈りや落ち葉かきなど、ある程度人の手が入ったときの方が多様性は高くなるという(105)。イギリスの生け垣も同じである。生け垣にはサクソン人の植民にまで遡る古い歴史があり、生け垣の中に何種の低木が生育しているか調べると、その生け垣がどのくらい古くから維持されているかわかるのだという(139ページ。ダーウィンがダウンハウスの住居につくった生け垣の写真も収録されている)。にもかかわらず、上で述べた問題点のために、こうした面白い点を掘り下げることができていない。もしかしたら著者の他の本(たとえば生態系を蘇らせる (NHKブックス))では、わたしの知りたいことが書かれているのかもしれない。