まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

羽生は新手を指したのか〜将棋の哲学(?)


旧聞に属することだが、こちらこちらのブログでちょっと面白いことが書いてある。

(後日談がここにもある)

まとめると、今年四月の将棋の「朝日オープン将棋選手権」第一局で、羽生三冠(棋士の肩書きはすべて対局当時、以下同じ)が以下の局面

から▲54歩という「新手」を指した。これに対して、アマチュア強豪の野山知敬氏(など)が、実際はその手は2004年にアマチュア棋戦で渡辺憲司氏により指された手だったと指摘した。野山氏の言葉を引用すると、

帰宅後すぐは結果を知らなかったが、とりあえず朝日新聞を見ると「羽生▲5四歩の新手」として図面が載っていた。ははあ、なるほど、後ほど金でこの歩を取られても形が乱れるから指せるのか、と思っているうちにふと気付いたことがあった。

これは確か、あの将棋と思って調べたら案の上、平成16年アマ最強戦準決勝、渡辺憲司ー中村清志戦。ほら、やっぱり同一局面だった。新手ではなく、既にアマ将棋で3年前に指されていたんですね。私の記憶力もまんざらではないね(^-^)

羽生先勝 将棋雑記帳/ウェブリブログ


それに対して朝日新聞観戦記者東公平氏)が次のように反論した。

 ▲5四歩が新手。升田幸三的な派手な新手もあれば、大山康晴流の地味な妙手もある。「俗手の好手」という言葉があるが、本局の棋譜を知らない読者でも、俗手の▲5四歩をお考えになった方は多いことだろう。

 福岡から帰ったあと、「▲5四歩は羽生の新手ではない」と書いたホームページを見つけた。証拠としてアマ強豪同士の棋譜が図面入りで出ていた。棋士たちの深い研究ぶりを知らない人が書いたものだろうが、若い人たちの誤解を招くおそれもあるし、羽生さんの名誉を傷つけることにもなる。新手とはプロの公式戦に現れた手のことで、研究会、奨励会、アマ棋戦などは対象外である。

asahi.com :第25回朝日オープン将棋選手権五番勝負第1局 - 将棋

つまり東氏は、<新手はプロのみが出せる新手はプロ棋戦で指された手だけが対象なので、したがって▲54歩はそれでも羽生の新手だ>とのべたわけである。

新手とは何か

しかし、将棋において「新手」とはそもそもなんだろうか。それをこのエントリで考えてみたい。もうすこしていねいに述べると、

  1. ある局面aにおいて
  2. ある棋士bが指した
  3. ある将棋の手xが

新手である条件は何だろうか。

まず思いつくのは、xが新手であるために、歴史上その手が指されたことがないということは必要ではない。たとえば、2004年以前に、同じ局面でわたし(アマ初段よりもずっと弱い)が歴史上はじめて▲54歩を指していたとしよう。しかし、これをもって私がその新手を指したと言うことは出来ない。*1

また、新手が指される局面はすでに定跡化されていなくてはならない。たとえば、中原名人が米長八段との名人戦の以下の局面

で指した▲57銀は妙手だとされている。しかし、この手が妙手だからといって「新手」とは呼ばれない。なぜなら、この手は終盤の手だからであり、それ以前の局面が定跡の一部を構成していたわけではない(では定跡とは何か? それはパスします)。

さらに、新手は新戦法とはことなる藤井システムゴキゲン中飛車全体は新戦法であって、新手ではない。新手はまさに「手」であって、特定の一手に焦点が当たっている。

新手と「よい手」

さて、ここからがむつかしい。まず、直観的に見ると、新手は何らかの意味で「よい手」である必要がある*2。明らかに悪い手は新手ではない。たとえば、初期局面から▲76歩△34歩と進んだとき、▲68銀と指す手はどういう状況でも新手にはなりそうもない。だれがみても大悪手だからである。

しかし、ある手が新手であるためには、本当に「よい手」である必要もまたない。たとえば、これからの研究によって上の▲54歩をとがめる手順が発見されるかもしれない。しかし、もしそうした手順が発見されたとしても(つまり▲54歩はよい手ではなかったことがわかったとしても)、そのことによってこの手が新手でなくなってしまうわけではない。したがって、xが新手ならば、明らかに悪い手であってはいけないが、必ずしもよい手でなくてよい

誰にとって「よい手」なのか

次に考えられるのは、xが「よい手」と見なされればよい(実際によい手である必要はない)のではないかということである。しかしもしそうならば、では「だれにとって<よい手>と見なされればよいのか」という問題が出てくる。もし「だれ」というのを「将棋の神様」とすると、「本当に『よい手』である手」と「神様に『よい手』と見なされる手」が一致する*3ので、「よい手と見なされる」ということを持ち出す意味があまりなくなってしまう。

この「だれ」というのをcと呼ぼう。そうすると、c=bだろうか。つまりxが新手であるのは、その手を指した棋士にそれがよい手だと見なされたときだろうか。必ずしもそうではない。たとえばbがうっかり駒をおとして偶然にxを指したが、それを見ていた別の棋士dがその手の有効性を認めたとしよう*4。もしこの手がよい手だと見なされるならば、bがxを指した時点でそのことを認識していなかったとしてもxはbによって指された新手であるだろう。

しかし、だからといってcはだれでもいいわけではない。bが気付かずに指した手を(弱いアマチュアである)わたしがいい手だと考えたとしても、xが新手になるわけではない。とはいえ、cはある程度強い将棋指しである必要はあるだろう。

新手とコミュニティ

だが、強いことはcであることの十分条件ではない(つまり、ある人が将棋が強いからと言って、そしてその人がある手の有効性を認めたからと言って、その手が新手となるとは限らない)。たとえばbの指した手xの優秀性をP氏が認めたとしよう。仮にP氏が極めて強い棋士(もし具体的名前を出すのが役立つなら、渡辺竜王ぐらい強い)だとしても、もしP氏が無人島に住んでいて「xがすぐれた手である」という自分の信念を他人に伝える連絡手段を欠いているとすると、xは新手ではない。

この例はある重要なことを示していると思う。つまりbの指したxが新手であるには、ひとりの人に「よい手」と見なされるだけでは不十分であり、あるコミュニティでxがbの指した手としてよい手と見なされる(あるいは、少なくともよい手と見なされるよい見込みがある)必要があるのである。

このポイントの重要性は次の形でも示すことができる。たとえば、公式棋戦に組み込まれたアマプロ対局(たとえば朝日杯)で、あるアマチュア棋士bがこの▲54歩を指していたとしよう。もしこの手の有効性がプロの間で認められたならば、その新手はbの手であろう。したがって、もしこれが正しいなら、東氏の「新手はプロだけがさせる」というのは誤り*5である。アマチュアも新手を指すことができるのであり、それにはその手を肯定的に評価するコミュニティが必要なだけなのである。その意味で、ある手が新手かどうかというのは、それを評価するコミュニティに相対的なのである。

さらに、新手は「新しい手」でなくてはならない。新しい手というのは、bがxを指した時点でその手の善し悪しについて探求がされていない手である。

ここまでをまとめると、

時間tおよび局面aにおいて、棋士bが指した将棋の指し手xが、コミュニティcにとって新手であるのは次のとき、そしてそのときのみに限る;

  1. cがある程度強い将棋指しからなるコミュニティであり
  2. aが定跡に属し
  3. tにおいてxがcによって「よい手」と見なされ
  4. さらにt以前にcにとってxがよい手かどうかの探求がされていなかったとき。

今回の場合

もしこの仮説が正しければ、では今回の▲54歩についてはどうだろうか。

この手が羽生三冠の新手であるかどうかは、以前同じ指し手*6が指された際のコミュニティが何であったかがポイントになってくる。ここからはわたしの想像だが、おそらく羽生三冠はこの▲54歩がアマチュアの棋戦で指されていたことを知らなかっただろう。さらにプロの中でもこの手*7が指されていたことを知っていたものはほとんどいなかったのではないか。

もしこれが正しいとすると、プロ棋士というコミュニティにはこの手の優秀性は知られていなかった。そうすると、上の定義ではプロ棋士のコミュニティにとっては▲54歩は2004年時点では新手ではなかった。しかし野山氏(あるいは野山氏が属するアマチュア強豪棋士のコミュニティ)にとっては▲54歩は2004年時点ですでにその優秀性が知られた手であった。したがって、渡辺氏が2004年に指した▲54歩は、野山氏が属するコミュニティにとっては新手だったが、プロ棋士のコミュニティにとっては新手ではなかった

そして2007年に羽生三冠が同じ指し手を指すことによって、この手の優秀性がプロ棋士にも広く知られるようになった。これが野山氏と東氏の判断が分かれた理由だと思う。つまり、わたしの結論は、野山氏にも東氏にもどっちも理がある------なんだか煮え切らない結論ですが。

Dec. 18 追記

以前のバージョンの重要な誤りを直しました(注を参照)。また、少しわかりやすいように文章を追加・編集しました。

                                                                                                                                                                  • -

*1:哲学用語を使えば、ある局面で指された将棋の手はタイプだと思われるが、xが新手であるためには、bが指したトークンとしての指し手がその<指し手タイプ>のこの世界における初めてのトークンである必要はない。

*2:ここでは「よい手」を<その手を指すことによって将棋の論理を介して------たとえば、その局面を見た相手を、盤上の模様によって心理的混乱状態に陥らせることによってではなく------局面を好転させる手>と定義する。

*3:細かくいうと、外延的に一致する

*4:これは中座飛車(横歩取り8五飛戦法)について羽生三冠が語っていることでもある(『最新戦法の話 (最強将棋21)』)

*5:[Dec 18 追記]「新手はプロだけがさせる」というのは誤りですが、東氏は必ずしもそう述べているわけではありませんので、東氏が誤りというのは間違っています。東氏には謹んでお詫び申し上げます。

*6:細かくいうと、指し手タイプ

*7:同上。