まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

瀧本哲史著『ミライの授業』のメンデルの記述は大幅に間違っている

以下は瀧本哲史著『ミライの授業』のメンデルの項について準備していた文章である(文章については公開に当たってかなり手を入れているが、全体の構成については七月の段階でできていた)。そこでは同書の誤りについて説明し、そうした誤りがかなり簡単に気づけるものなので、著者にも幾ばくかの責任があることを述べている。

既報の通り著者の瀧本氏は逝去された。また著者に近しい人の回想によると、著者が本書を書いたのは深刻な病気からいったん回復した後のことであったようだ。この意味で以下で述べる誤りの責任についてはある程度の情状酌量ができるかもしれない。

しかしそうであっても誤りは誤りであり、可能であれば何らかの形で誤りを訂正してもらうのが適当だろう。この文章を公にすることにしたゆえんである。

高校生に出張授業をする準備のために『ミライの授業』

ミライの授業

ミライの授業

という本を読んだ。この本は中学生に向けて「なぜ勉強するのか」「〈成功〉するにはどう生きていったらよいか」を解説したものだ。わたしは著者の著作をいくつか読んできているが、この本は他の本よりも「煽る」部分が少なくもっとも出来がよかったと思う。特に最初のフォードやナイチンゲールから森鴎外に至る部分はとても啓発的である。

しかしこの本のメンデルにかんする部分(204-210頁)は大幅に間違っている。著者はメンデルについて次の三つのことを述べている。

三つの大きな問題

一つはメンデルが有名なエンドウマメの実験をダーウィン進化論の正しさを示すために行ったとしていることだ。著者はこう述べる。

さて、留学期間が終わり、地元の修道院に戻ったメンデルは「遺伝」の研究に取りかかります。当時、すでにイギリスの自然科学者ダーウィンが『種の起源』という本を出版し、進化論を唱えていました。...

しかし、ダーウィンの進化論にはどうしても説明できない難問がありました。

たとえば、赤い花と白い花を交配させたとき、その花はピンク色になるはずだ、というのがダーウィンたちの考えでした。ところが実際にはピンク色の花なんて生まれません。赤い花が生まれたり、白い花が生まれたり、結果はまちまちです。

ここに数学的な答えを与えることができれば、進化や遺伝の謎が解けるのではないか。

そう考えたメンデルは、壮大な実験に着手します。(206頁)

しかしこれは誤りであり、しかも誤りであることは簡単に示せる。というのは、メンデルの上述の実験が始まったのは1855年(前後)であり、ダーウィンが自説をはじめて公にしたのは1858年(ロンドンのリンネ協会においてウォレスの説と同時に発表)だからである。したがってメンデルが実験を始めたときには彼はダーウィンの進化論を知らなかった。当然のことながら、知らない説の正しさを示すために実験をすることはできない。*1

もう一つは、メンデルの業績が長い間顧みられなかった理由である。よく知られている通り、メンデルは自説を論文として1866年に発表したが(口頭発表はその前年)、学会からの評価は芳しくなく、1900年にメンデルの業績が「再発見」されるまで半ば無視されていた。この理由の一つとして、『ミライの授業』ではメンデルの実験結果が彼の理論からの予測値と合いすぎていたことがあると述べる。

しかし、学会ではまったく相手にされません。あわてて今度は、遺伝の法則について書いた本[ママ]を出版するのですが、これもみごとに無視されます。

なぜだと思いますか?

[...]

そしてもうひとつの理由は、メンデルが提出したデータが、あまりにも「できすぎ」なものだったこと。つまり、メンデルの「分離の法則」に従うと、4000個のエンドウ豆のうち背の高い3000個と、背の低い1000個が生まれることになります。

でも、「背の高い苗はぴったり3000個でした」と発表されたら、逆にあやしく感じますよね?...ところがメンデルが提出したデータは、「ほぼぴったり」の数字で、自分の法則を裏付けるものでした。(207-209頁)

しかし、これも全くの誤りである。たしかに、メンデルの実験結果が彼の理論からの予測値と合いすぎているという指摘はあった。しかしこの点に触れたのはW・F・R・ウェルドンが1901年にカール・ピアソンへの手紙で言及したのが最初とされている。*2。したがってメンデルの実験が1900年までに無視された理由にはなり得ない。*3

第三の主張は、エンドウ豆の実験に対する学会の反応を受けたメンデルの対応、およびメンデルの実験が学会で無視され続けた理由についてである。よく知られている通り、メンデルはエンドウ豆の実験について1865年にブルーノ自然科学会で発表し、その上でその成果を1866年に論文にしたが、学会の反応は芳しくなかった。例えばメンデルは当時の植物学の権威であるネーゲリに論文を送り、さらにエンドウ豆の実験の追試を行うことを依頼したが、ネーゲリはそれを実際には行わなかったらしい。『ミライの授業』では、メンデルの説がその後も受け入れられなかったのは、自説の正しさにひとりで満足し、それに閉じこもったメンデルの態度にあったとしている(209-210頁)。

一方、優秀であるがゆえに周囲の協力を求められない人がいます。

自分は絶対に正しいのだし、正しいことをやっていれば、かならずいつかは認められる・仲間なんて必要ない、と考えてしまう人です。

その代表例ともいえる人物を紹介しましょう。「メンデルの法則」で有名な植物・遺伝学
者、グレゴール・メンデル[...]です。(205頁)


彼はシャイな性格で、あまり人との交流を好みませんでした。数学的な正しささえ証明すれば、いつか認められるはずだと考えていました。パートナーを求めず、「仲間」をつくろうとせず、孤独に研究を続けていたのです。(209頁)

しかし、これにも問題がある可能性が高い。というのは、手元にある日本語で読める生物学史の本(中村禎里『生物学の歴史』、矢杉龍一『生物学の歴史(上)(下)』、ボウラー『進化思想の歴史(上)(下)』、木村陽二郞『原典からの生命科学入門』、メンデル『雑種植物の研究』訳者解説)を見ても、メンデルが自説に自己満足し、仲間を求めなかったことが学会に広まらなかった原因だといったことはまったく書かれていないからである。

誤りの責をどこまで著者に向けるべきか

このように『ミライの授業』のメンデルの記述には大きな問題がある。ただしこれには情状酌量の余地もある。著者は科学史家ではないので、既存の文献をもとにメンデルについて記述している。実際、メンデルの項目に関する参考文献として

神が愛した天才科学者たち (角川ソフィア文庫)

神が愛した天才科学者たち (角川ソフィア文庫)

を挙げているが、この本もメンデルの実験の意図として同じことが書かれている(161頁)。しかもこの本の紹介によると、この本の著者である山田大隆氏は「科学史学会の北海道支部長」を勤めており、肩書きだけから見ると信頼できそうである。その意味で科学史の専門家でない瀧本氏がこれを信じてしまうのはやむを得ない面もある。

しかしだからといって氏が全面的に免罪になるわけではない。第一に、上の誤りは「通説では○○と書かれていたが、最近の研究ではそうではないことが明らかになった」というような誤りではない。例えば(ちょっと古いかもしれないが)進化論史や生物学史の通史として有名で、日本語で書かれている本

生物学の歴史 (上) (NHKブックス (468))

生物学の歴史 (上) (NHKブックス (468))

には上で述べたようなことは書かれていない。

第二に、確かに参考にした本が信頼できなかったのは不運だったが、上で書いた誤りは別のルート(そして上で挙げた通史よりももっとアクセスしやすい資料)をチェックするとすぐにおかしいと気づく類の誤りだからだ。

例えば日本語のウィキペディアメンデルの項を見ても、ダーウィン進化論を証明しようとメンデルが実験をしたということはまったく書かれていない。またメンデルの観察値が理論値に近すぎるように見えるので(再発見されるまで)顧みられることがなかったといったことも書かれていない(さらにこの点については英語版のウィキペディアをみるとフィッシャーの論文に言及されている)。

もちろん、(すべての大学教員が強調するように)ウィキペディアは学術的には必ずしも信頼できないので、これらのエントリを読んだだけでは上の誤りがきちんと証拠立てられたとは言えない。しかしこうしたエントリを読んで「何かおかしい」と気づくことを求めるのは過大な要求ではない。

(これは山田氏については瀧本氏よりももっと罪が重いということを意味する。率直に言って、学会でそこそこの地位に就いている人が上のような初歩的な誤りを書くことは信じられないし、山田氏の専門家としてのクレディビリティを揺るがすものである)

また第二の点については、著者が参考文献欄にあげているもう一つのメンデルに関する本、つまり

に書かれている。しかしこの本ではこの疑惑がメンデルの研究が忘れ去られた原因だとは書かれていない。ただしこの疑惑についてこの本は(すこしだけ)ややこしい書き方をしている。というのはこの本の疑惑のついての記述の前後の流れはこのようになっているからだ。

  • なぜダーウィンではなくメンデルが遺伝の法則を見つけられたのか(55-58頁)
  • メンデルの疑惑(59頁第一段落)
  • 1865年の学会発表における聴衆の(芳しくない)反応(59頁2段落目以降)

このような並びになっていると、斜め読みしかしなかった読者はメンデルの疑惑とメンデルの研究の受容に関係があると思うかもしれない。

しかしこの点からの情状酌量の程度は限られている。というのはゴールドスミスの本は(書影から推察されるように)子供向きの本としてかなりわかりやすく書かれており、すこし丁寧に読めば上のような誤解はしないはずだからだ。子供向けにわかりやすく書かれている本の論旨を正確に理解するのは、著者に課するには決して高いハードルではないだろう。

第3の点については、著者に責をどのくらい求めればよいのかわからない。というのは、著者の記述が何に基づいているのかわからなかったからだ。本書の参考文献欄にあげられている本の中でメンデルの記述がありそうな本は上で取り上げた二冊だが、それらにはこのことは書かれていない。日本語で比較的手軽に読める生物学史・進化論史の本に上述の点が書かれていないことはすでに述べた。

したがって、この点についての著者の責は、もしかしたらまったくない可能性もある(わたしが間違っている)し、きわめて軽い可能性もある(例:記述を信じても仕方がないような本に書かれていたことを参考にしている)し、きわめて重い可能性もある(例:資料に基づかない全くの想像で書かれている)。

まとめ

これまで『ミライの授業』のメンデルの項における誤りについて述べてきた。また、(専門家に見える人の本に誤りがあったという不運もあったが)日本語の文献やウィキペディアを読むだけで、少なくとも「何かおかしい」ということに気づく機会があったことも述べた。そういった意味で、この誤りの責任は著者にもあると思う。

*1:また最近のメンデル研究では、メンデルは自らが遺伝の研究をしているつもりはなく、当時盛んだった雑種の研究の中に自らの研究を位置づけていたという。これについては松永俊男: メンデルは遺伝学の祖か. 生物学史研究 94:1-17,2016を参照。

*2:その後R・A・フィッシャーが1911年の講演でこの点を追求し、1936年に論文の形で公表した。

*3:この点については

Ending the Mendel-Fisher Controversy

Ending the Mendel-Fisher Controversy

  • 作者: Allan Franklin,A. W. F. Edwards,Daniel J. Fairbanks,Daniel L. Hartl,Teddy Seidenfeld
  • 出版社/メーカー: Univ of Pittsburgh Pr
  • 発売日: 2008/03/28
  • メディア: ペーパーバック
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を参照(16-18頁)。この本はインターネットで見られる。なおこの本によれば、メンデルはこの点において不正を犯したわけではないということだが(p. x)、わたしはこの本を詳細に読んでいないので、これ以上コメントしない。