まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

ジンマーの〈種〉記事をめぐって

もうすぐ日経サイエンスにでる予定のジンマーの種についての記事だが(翻訳者の三中信宏さんの日記で進行状況を確認できる)、元ネタであるScientific Americanの記事(今はまだ無料では読めないが、そのうち読めるようになると思う)*1で取材されている哲学者のJohn Wilkinsがジンマーの記事を受けてエントリを書いている。

彼は、生物学は測定の単位(units of measurement)を求めているという前提から出発する。そして、種とは何かという問い(種問題の核心である問い)は幅広い生物学の分野でその測定の単位を決めている、と指摘する。

では種とは、どんな単位だろうか? 彼は三つの選択肢を提示する。

  1. コミュニケーションのための便宜(convenience)
  2. 理論的単位
  3. 突出した現象(phenomenal salience)

一つ目は、一言で言うと唯名論である。ある生物を"Aus bus"と名付け分類したとき、われわれが行ったことは名付けの対象となる生物集団に"Aus bus"というタグを付けたのであって、「種」として同様に名付けられ認識された集団の相互の間に、共通するものは本来ないし、また上のような分類にも客観性・自然性はない。Wilkinsはそうした見方を種に対する排除主義(eliminativism)------種というカテゴリーを生物学の真正なカテゴリーの仲間から取り払って、もっと自然なカテゴリーに置き換えようという考え------と結びつけている。

二つ目の見方は、種は生物学の中で理論的な役割を果たす、という見方である。たとえば、「種は進化の単位である」と呼ばれることがあるし、また種は生物多様性の度合いを測る目盛りと見なされることもよくある。「種は遺伝子プールである」と主張する生物学的種概念(およびそれに類する種概念)もこの中に含まれる。

Wilkinsの第三の選択肢は、種はphenomenal salience------翻訳が難しいが、現象レベルで目立っているものぐらいの意味か------であるというものである。この立場によると、種は理論的役割を果たさない。種は、この選択肢によれば、われわれが定義するものではなくて、見いだすものであり、何かを説明するものではなくて、自らに対する説明を求めるものである。

この三つの選択肢は以下の問いにどう答えるかによって整理できる(以下はわたしの整理で、wilkinsの紹介ではない)。種の認識が自然界における何らかのパターンの認識に(事実として)基づいていることは、異論のないところと思われるので、それを問いの前提とする。

Q1. そのパターンは、実在するか/自然的(つまり、人間の都合によって見いだされたものではない)か? Y/N

Q2. もしそのパターンが実在する/自然的なら、そのパターンの背後には、何らかの(もしかしたら単一の)プロセスが対応し、それこそが種の本体であるか? Y/N

1.の立場はQ1にNと答え、2.の立場はどちらともYと答え、3.の立場はQ1にはY、Q2にはNと答える。

種問題について考えている人は、自分の立場がどれに当てはまるか考えてみるのがおもしろいと思う。たぶんわたしはこの中だと3.にちかいだろう。

追記(Jul. 8th)

ジンマーの元の記事が彼のサイトで読めるようになっていたようだ。

*1:したがってわたしもまだ読んでいません。[-->読みました。(Jul.8th)]