まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

なぜ同性婚だけがうまくいったのか

米国の政治で議論される問題の中には「文化戦争」(culture war)にかかわるものがある。これは、人工妊娠中絶や銃規制の是非といった、経済や外交とは直接関係ないが、有権者アイデンティティや価値判断にかかわる問題である。現在の米国政治では左右両派の分断が話題になることが多いが、世論調査を見るとこうした問題に対する態度は民主党共和党支持者ではっきり分かれていることが多く、また支持の色分けが固定あるいは悪化してきていることが多い。

しかしそうした分断を乗り越えてきた問題が一つある。それが同性婚である。ニュースでも話題になったように、米国では2015年の連邦最高裁判決によって同性婚が合法になったが、一般国民の間でも同性婚は受け入れられつつある。例えば世論調査によると、以前は同性婚の法制化への批判が強かった共和党支持者の間でも同性婚を許容する人たちが増えてきており、最近の調査では同性婚支持者が半数を超えた。これは、2008年には当時民主党の大統領候補だったオバマさえも同性婚の法制化に否定的だったことを考えると、長足の進歩と言える。

これは、価値観にかかわる他の問題において世論の変化がほとんど見られないことを考えると際だった変化である。では同性婚に関してだけどうしてこのような変化が生じたのだろうか。これを論じるのがジャーナリストであり、同性婚問題とアメリカ政治についての本を出版したサーシャ・アイゼンバーグにインタビューしたFiveThirtyEightのポッドキャストである(この本には翻訳はないが、同じ著者の別の本として『スシエコノミー』というのがある)。

こうした変化が生じた理由として、アイゼンバーグはいくつかの要因を挙げる。例えばジェネレーションギャップという要因がある。同性婚への賛成反対は、有権者の年齢とはっきりとした相関がある。年齢が上がるほど同性婚への反対が増し、若くなるほど賛成が増す。すると年代が下るほど、同性婚への賛成が増えていくことになる。

つぎに婚姻制度に特有の要因もある。例えば同性婚を認めても、有権者の多くを占める異性婚者にとって何も個人的な損害は生じない。すると同性婚への反対運動はそれほどのモチベーションを持たなくなる。これは例えば銃規制が銃の所有者にマイナスの効果を生みやすい点とは非常に異なる。また婚姻という制度は伝統的な制度であり、若い人の間で人気を失いつつあった(つまり未婚率が上昇しつつあった)。同性婚はそうした「時流から外れつつある」制度に人々を呼び戻そうというものなので、保守派にも受け入れやすい面があった。

さらに保守派が訴えて来た同性婚の弊害が実際には生じていないことが明らかになってきたことも大きい。例えば共和党の中には「同性婚の法制化によって2001年の同時多発テロと同じくらいのショックが社会に生じる」と主張した政治家もいた。しかし上の最高裁判決に先立つ2005年にマサチューセッツ州同性婚が容認されたが、保守派が危惧したようなネガティブな事態は生じなかった。すると保守派の主張はこの点では切り崩されたことになる。

しかしわたしにとって興味深かったのは次の二つの要因である。一つは、同性愛者の問題は、それに触れて理解を持つようになる者が構造的に増えやすい傾向をもっていることである。これはどういうことか。当たり前のことだが、同性愛者の両親の大多数は異性愛者である。すると(子供が家族にカミングアウトしているなら)そうした両親は同性愛者が直面する社会的問題に深い理解を持つようになる。そしてこうした人たちは、他の問題に対する政治的スタンスとはかけ離れた態度を同性婚の問題に見せる。例えばディック・チェイニー(米元副大統領)はかなりの保守派だが、娘の一人が同性愛者であり、共和党の主流派の意見とは異なり同性婚に賛成であった。また放送では子供に同性愛者のいる共和党の資金援助者が同性婚に賛成する運動を共和党の中で行っている例が言及された。こうした血縁関係や個人的な友人関係(同性愛者の友人がいる異性愛者など)を通じた党派性を超えた支援の広がりは人種問題などの他の問題ではなかなか見られない。

もう一つの要因は運動家の運動手法に関わる。アイゼンバーグによれば、同性愛者の運動に関わるアクティビストは同性愛者に関わる社会問題を一括して議論する包括的利益団体をつくるのではなく、一つ一つの社会的問題を解決する方向を選んだ。例えば政府統計に同性愛者に対するヘイトクライムという項目をつくるよう要求するといったことである。そうすることでこうしたアクティビストは政治的な圧力団体というよりも問題解決を目指す人々とみられるようになり、同性愛者の問題が政治的な対立に巻き込まれるのを軽減する役割を果たした。

もちろんアイゼンバーグが言うように、仮にこうした要因が同性婚の問題についての世論の変化の背後にあるとしても、別の社会問題に簡単に当てはめることは難しいかもしれないが、参考になれば幸いである。

拙著記念オンラインイベントのアーカイブ販売

拙著『種を語ること、定義すること: 種問題の科学哲学』について以前岡西政典さん・三中信宏さんと行った本屋B&Bでのオンラインイベント
の画像と音声のアーカイブ販売が行われています(8月末まで)。bookandbeer.com
写真はB&Bさんでの販売棚です。f:id:yuiami:20210325184914j:plainご興味のある方は是非お申し込みください。

大学は今もレジャーランドか

よく今の大学はかつてのようなレジャーランドではないといわれる*1ツイッターでは大学教員から、現在の大学は学生に対して面倒見がよくなり、よく勉強させるといわれる(ソース)。これはわたしの体感にも合致しているが、しかしきちんとしたデータを引いているところはあまり見たことがない。

これについて簡単に検索すると、大学生協連合会の調査のデータが見つかった。これによると、2012-17年で大学生の勉強時間は一日290分→302分に増えている。これは文系・理系・医歯薬系に関係ない。

しかしこれだと5年間の推移しかわからない。わたしの記憶によると、「大学=レジャーランド」論が出ていたのは80-90年代(ここに紹介のある竹内洋氏の言葉とも符合する)なので、そこからの推移が欲しい。

これに応じるのが社会生活基本調査の統計である。これは五年ごとの調査で国民がどのような活動に時間を費やしているかが調べられている。この中に小学生から大学院生までの学生が学業にどのくらい時間を使っているかを調べる統計がある。

それをつかって大学生・大学院生の学業に使っている時間を調べると以下のようになる。

86年 91年 96年 01年 06年 11年 16年
220 209 177 179 210 217 238

これをグラフにするとこのようになる。

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大学生・大学院生が学業に費やす時間(一日当たり、分)の変化


見てわかるように、大学生・大学院生の学業に使っている時間は96-01年を底として高まっている。また意外なことに「レジャーランド時代」まっただ中の86年の大学生は学業に結構時間を使っている。

しかしここで重要なのは、80年代よりも現在の方が大学に進学する層が大きく広がっていることである。例えば

  • 80年代と現在では大学進学率が異なっている(80年代後半は20%台半ば、現在は50%台半ば)
  • また大学生の数も80年代半ばと比べて100万人弱増えている(リンク

常識的に考えると、こうした大衆化が進むと、以前の世代では大学進学に適さなかった生徒が大学に入ってくるので、大学生の平均的なクオリティは低下しがちになると予測できる。にもかかわらず大学生・大学院生の学業時間が伸びているのは、ここ二十年来の「大学改革」がこの点についてはうまくいっているを示していると言えるかもしれない*2

ではなぜ今になっても「大学=レジャーランド」論が出るかということになるが、これについては濱中淳子先生が大学で勉強しなかった人ほど大学は役に立たないと述べる傾向にあることを明らかにしているので参照して欲しい*3

*1:またアメリカの大学生が日本の大学生より勉強するとは一概には言えないともいわれる(ソース

*2:もちろん、仮にこの結論が正しいとしても、この賛辞は監督官庁や大学執行部だけでなく現場の教員・職員にも向けられるべきである。

*3:ただし「大学=レジャーランド」論を述べる識者の代表格である冨山和彦さんは在学中に司法試験に合格しているそうなので、これには当てはまらない。

拙著刊行記念オンラインイベントのお知らせ

拙著種を語ること、定義すること: 種問題の科学哲学
出版を記念してオンライントークイベントが行われます。わたしの他の出席者は岡西政典さん

三中信宏さんです。有料イベントですが、どうぞよろしくお願いいたします。(なお"book and beer"と書いてありますが、わたしがオフィスから配信する場合はしらふでの参加になります)。

本が出ます

師走になりましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さてこのたび単著を出版することになりました。

この本のテーマは種問題です。分類の基本単位である「種」についてたくさんの定義が提起されて、そのうちでどの定義がよいか生物学者の間で普遍的な合意がないことはみなさんもご存じのことと思います。これをみると種問題は、生物学全体にかかる重しのように感じるかもしれません。しかし同時に生物学者は種や種分化について様々なことを明らかにしてきました。

本書はこの「種問題について悩むと同時に悩まない生物学者」を取り上げて、この対立がどのように生まれているのかを、歴史や哲学、また認知心理学の成果から検討したものです。

この本を読んでいただけると、種問題には今まで論じられてきたものとは違う側面があり、そこに着目すると「種」という概念に潜む対立をいわば「止揚」できることがわかります。

12月というとギフトのシーズンですが、みなさんの家族や友人にも種問題が気になっている人が一人はいると思います。そうした人にぴったりなギフトとしてこの本を送ってみてはいかがでしょうか。