まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

エルンスト・ヘッケルの研究不正

エルンスト・ヘッケル(1834-1919)の研究不正の事例について科学史の授業のためにいくつか論文を読んだが、授業ではほとんど使わなかった(二枚スライドを作っただけ)ので、またこの事例は日本語で検索してもあまり記述が出てこないので、ここでメモ。

ヘッケルは19-20世紀のドイツの生物学者で、進化論の一般への紹介者として、また進化と発生を結びつけたことで知られている。後者についてもっとも有名なのは「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼである。これは生物は胚から胎児になる過程(個体発生)でその種が辿ってきた進化の歴史(系統発生)を形態の上で繰り返しているという考えで、それを示すものとしてこの図(『人類発生論』Anthropogenie、1874年より)がよく引用される。この図は、成体では形態が異なる種でも胚の時代には形態が著しく似ており、これらの種が共通祖先をもっていることを示唆している。これと同じような図は、特にアメリカでは進化の証拠として二十年ほど前までは特に教科書などで広く掲載された。

二つの問題

しかしヘッケルには主に二つの点で研究倫理上の問題点が指摘されている。一つは著書『自然の創造史』(Naturliche Schopfungsgeschichte, 1868年)でイヌ・ニワトリ・カメの胚を比較する図を載せているが、リンク先の図を見てもらえればわかるようにこの三つの図が全くの同一である(同じ木版を三回使った)ことである。*1

二つ目の問題。ヘッケルは『自然の創造史』および『人類発生論』で(最初にリンクした図のような)様々な種の胚を比較した図を載せている。しかしこうした図については、先行研究で用いられた図を元にして種間の類似性を過度に強調するように描き直した疑惑がある。*2

これはヘッケルを批判した学者(ヴィルヘルム・ヒズ)が描いた図とヘッケルの図を比較してみるとわかる。ヘッケルの図では右頁の一番左の列がブタの発生で右端の列がヒトの発生だが、両者の胚は非常に似通っている。これに対してヒズが描いた図では左がヒト、右がヒトの発生を描いているが、両者は「似ていなくもない」という程度で、ヘッケルの図からの印象とはだいぶ異なる。

二回の嫌疑

科学史の中でこうした研究不正の嫌疑は二回立てられた。一つはヘッケルが著書『自然の創造史』および『人類発生論』を出版したあとである。両方の場合でも著書が出版された後に発生生物学者から問題が指摘された。

この経緯についてはホップウッドの論文*3が詳しいが、例えばバーゼル大学の動物学・比較解剖学の教授であるルートメイヤーは『自然の創造史』の書評で、上の図のコピーの問題を指摘するとともに、同書は(一般向けとしては許されるものの)専門家が守るべき真理への義務にもとっているとヘッケルを批判した(また当時の発生学の泰斗であるビシュホッフも、ヘッケルのヒトの胚の図が観察に基づいていないと同僚に不満を漏らしていた)。

また『人類発生論』の出版後も図について同様の論争が巻き起こった。例えば上でみたヒズの図は彼が『人類発生論』の後に出版した本(Unsere Korperform und das physiologische Problem ihrer Entstehung、1875年)に掲載された。また『自然の創造史』の後とは異なり、生物学の専門家ではない人たちも論争に参加した。例えばカトリック教会の牧師はヒズなどの著作を引いてヘッケルの図が意図的な改竄だと主張し、それを用いて進化論を否定する論考を執筆した。

もう一つは1997年である。このときは発生生物学者のリチャードソンらが『人類発生論』の胚の比較図が本当に正確か検証した論文*4を出版し、それに基づいてサイエンスライターのペニーシがScience誌に一頁足らずのレポートを書いた*5。彼らの論文では実際に図で挙げられている生物の胚(尾芽期)を撮影し、ヘッケルの図と比較した*6。それによると、ヘッケルの図は胚の形態を誇張するだけでなく、実際は約10倍異なるサイズを同等に見せるように描かれていたことがわかったという。

この論文・報告の影響は特に米では大きかった。というのは上での得たようにヘッケルのこの図は進化の存在の証拠として教科書などで扱われていたからで、進化論に反対する創造説やインテリジェント・デザイン説の支持者が大きく扱った。

まだ証明されていない?→やっぱりダメそう

しかしリチャードソンらやペニーシの報告に対しては科学史家・哲学者のロバート・リチャーズが「ヘッケルの胚:詐欺はまだ証明されていない」という論文(pdf)でヘッケルの擁護論を書いている。*7

彼の論点は主に三つある。一つは、Science誌のレポートはヘッケルの図ではもともと描かれていなかった卵黄をつけた胚の図を使って、ヘッケルの図と実際の胚の形態を実際以上に乖離するように見せている。しかしコンピュータを使ってペニーシの報告の図から卵黄を取り去った図を作ると、両者の違いは目立たなくなる(論文の図5)。

二つ目は、ペニーシの報告とリチャードソンらの論文の間の乖離を指摘するものである。ペニーシの報告ではそのタイトルに見られるように、fraud(詐欺、不正)という言葉でヘッケルの行為を形容しているが、元になったリチャードソンらの論文ではそうしていないという(149頁)。

さらにリチャーズはこうした(彼によると不当な)不正の嫌疑が出てきた理由についても考察している(153頁)。彼によるとこれは『自然の創造史』での三つの胚の図をコピーの問題を重大視しすぎたためであるという。まず三種の胚の図には問題があったもののヘッケルはこれによって読者を欺すつもりはなく、問題が指摘されたあと第二版で彼は図を訂正した。しかしこれによってヘッケルの周りの人々には悪いイメージがついてしまい、それによって第二の嫌疑が出てきたと述べる。

リチャーズの擁護論の問題点

しかし、ホップウッドの論文を読むとこの擁護はうまくいっていないことがわかる。

第一の点については、上で見たようにヒズが書いたヒトと豚の胚の図を見ると両者は結構異なっている。リチャーズの比較図を見るとそれと同じくらいヘッケルの図と実際の図は異なっているように見える。

第二の点。たしかにリチャードソンらの論文では"fraud"という言葉は使われていない。しかし彼らはヘッケルの行為には倫理にもとることがあったことを示唆している。一例はカエルの胚についての彼らの指摘である。彼らによればカエルは代表的な両生類の種類の一つだが、その胚は他の脊椎動物とかなり異なっている。そのことを知っていたヘッケルはカエルの胚の図を上の比較図には採録していない(104頁)。これは自分の説の都合のよいように例をつまみ食いすることであり、問題がある。

さらに、ヘッケルの図が問題になったのは三種の胚の図のコピーで注目されたためだというのも妙である。というのは上で見たように、胚の比較図に対する疑問は『人類発生論』ではじめて出たものではなくて、『自然の創造史』の図についても専門家によって陰に陽に抱かれていたからである

ということでリチャーズのヘッケル擁護論はあまり成功していない。

ヘッケルの「研究不正」

ただ、ホップウッドの記述を見ると、ヘッケルの行為を現代の研究不正と完全に同列に置くことは難しいかもしれない。というのはホップウッドはヘッケルの行為は当時の科学者の基準からしても問題だと考えているが、ヘッケルの中に読者を欺そうという意図はなかったとするからである。例えば上で述べたように最初の問題が指摘された後、ヘッケルはこれは「きわめて拙速で馬鹿げた行為」だったといって同書の第二版では当該の図を撤回し適切な図に差し替えている。これに対して現代の研究不正にはほとんどの場合読者を欺そうという意図があるだろう。

そういう意味でヘッケルを現代の枠組みに簡単にねじ込むことはできないけれども、しかしヘッケルの行為には研究倫理上の問題があるだろう*8

*1:これについてはある科学史家に教えられた。

*2:なお批判者の要点は、先行研究の図を断りなく用いた点というよりも、書き直された図が実際の形態と乖離していることにある。

*3:Hopwood, Nick: Pictures of evolution and charges of fraud: Ernst Haeckel’s embryological illustrations. Isis 97:260-301, 2006

*4:Richardson, M. K. et al.: There is no highly conserved embryonic stage in the vertebrates: implications for current theories of evolution and development. Anatomy and Embryology 196(2):91-106, 1997

*5:Pennisi, Elizabeth: Haeckel's Embryos: Fraud Rediscovered. Science 277(5331):1435, 1997

*6:下で紹介するリチャーズの論文(pdf)の図1に転載したものがある。

*7:Richards, Robert J.: Haeckel's embryos: fraud not proven. Biology & Philosophy 24(1):147-154, 2009

*8:なおこのエントリは上で引用した文献のみを参照している。HopwoodとRichardsにはそれぞれヘッケルについての著書(Haeckel's Embryos: Images, Evolution, and Fraud by Nick Hopwood(2015-05-11))および(The Tragic Sense of Life: Ernst Haeckel and the Struggle over Evolutionary Thought)があるが、それは読んでいない。またヘッケルについては日本語の本もある(ヘッケルと進化の夢 ――一元論、エコロジー、系統樹)が、それも参照していない。