まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

哲学専攻は経済的に見合う投資である

と主張する記事があったので紹介

この記事では、PayScaleというサイトの調査を元に、アメリカの大学の学部卒業生を対象にして(したがって大学院に入学した人は入っていない)、専攻によって卒業後の収入がどのくらいになるか、また高卒で社会人になった場合と比べてどのくらい収入が増えるかを調べた。その結果が以下の表である。

専攻 キャリア前半収入(ドル) キャリア中盤収入 生涯収入増加
アート 36,100 57,100 315,500
ドラマ 35,600 56,300 302,400
英文 38,700 65,200 444,700
仏文 40,900 66,700 470,900
歴史 39,700 71,000 537,800
哲学 41,700 78,300 658,900

これを見ると、「収入に結びつかない」と言われている人文系の専攻でも、高卒の人に比べると30万ドル以上の非常に大きな収入の増加に結びついていることがわかる。

記事によればもし自分の州のトップの州立大学に奨学金なしで行ったとしても費用としては8万ドル程度なのだそうで、そうするとキャリア全体を通してみると、哲学専攻は収入の面から見ると十分おつりがくる。

また、哲学専攻の収入は他の人文系の専攻と比べても良好である。人文系だけでなく理系の専攻と比較してみても、哲学専攻の収入は大学の全専攻(130)のうち58位とそれほど悪くない(資料)。

なお北米の大学の哲学科では、学生を勧誘する際にこうした現世的利益を強調することは少なくない。たとえばハーバード大学の「なぜ哲学を?」というページでは哲学科の学生がいかに就職に有利か、またGREなどの試験でよい成績を取っているかを喧伝している。

人種と知能(2)

さて引き続き人種と知能についてだが、今回はニコラス・マッキントッシュが書いた知能についての入門書である

IQ and Human Intelligence

IQ and Human Intelligence

に書かれている議論を紹介する。

マッキントッシュがいわゆる人種間に見られるIQテストの成績の差について述べているのは第13章「集団差」である。この章は主に二つの事柄をあつかっている。ひとつは人種間の成績の差の原因で、もう一つがIQテストが人種などに公平なテストであるかどうかだ。著者の結論は第一の問題については、〈決定的な結論は出せるほどの証拠はまだないが、「人種間の差がほとんど遺伝的な原因からくる」という主張は否定できる〉というものだ(344頁)。そして第二の問題については、巷間言われるような〈IQテストは黒人などのマイノリティに不利になるようなバイアスがあるので、彼らの成績が悪くなる〉という考えに否定的である。

人種間の成績の差の原因

マッキントッシュは最初にLynnなどのような強い遺伝説論者の議論を紹介する。彼らは黒人・白人のIQテストの成績の差の約80-90パーセントは遺伝的な違いに由来すると主張する。

しかしマッキントッシュは環境の変化が大きなIQテストの成績の大幅な上昇をもたらしうることを指摘する。例えば、ケニアの田舎の例を挙げ、栄養状態や教育のスタイルの変化などによって14年間で成績が15ポイント上昇した。このように環境の変化でIQテストの成績は大幅に上昇するので、単に成績の差が大きいから環境要因では説明できないと言うことはできない。

同等の環境で育った人種間の成績

ついでマッキントッシュは白人と黒人の子供が比較的同様の養育環境にさらされた場合のIQテストの成績に関する研究をまとめている。結果を一言で言うとまだら色で、環境説・遺伝説のどちらかに決定的な支持を与えるものにはなっていない。

  • 第二次大戦後のドイツでは米軍兵士と現地のドイツ人女性との間に子供が生まれる例があった。そこで父親が白人の子供と黒人の子供のIQテストの成績を比べると、同じスコアが得られた。この結果は環境説を支持するものであるが、兵士になった黒人は黒人全体のレベルを代表するものか疑念が出されている。ただし有名な知能の研究者であるフリンは、この点は結果に大きな影響を与えるものではないことを述べており、また遺伝論者であるヘルンシュタイン&マレーやジェンセンもこの結果を受け入れている。
  • ミネソタで白人の家庭に養子にもらわれた黒人の幼児についての研究。この研究では養子開始後10年後のテストでも、養子のIQテストの成績は大して上がらなかった。しかしこの研究では、両親ともに黒人の子供が養子に出された時期は遅く、さらに生物学上の親および養親はそれぞれが属する集団の平均よりも教育の程度が低かった。

こうした場合に遺伝論者はしばしば、IQテストの一部に着目し「IQテストの中でも遺伝的な能力差が強く表れるところから両者の差が由来している」と述べることもある。例えばスピアマンは、人種間の成績の差はgと呼ばれる一般知能の差から生じているという仮説を提唱した。しかしマッキントッシュはこの説には否定的である。

例えばIQテストの中でも類似性テストやレイブンマトリックスは遺伝による違いが現れやすいところだが、IQテストの成績を世界的および経年的に振り返ってみると、ここが最も成績が向上した部分である。もしこの50年でわれわれの中で遺伝的組成が大幅に変化したと主張する用意がないのであれば、この成績の向上には環境要因の影響が大きいとみなくてはならない。

こうした点からマッキントッシュは、まだはっきりとした結論は出ないとしても、黒人と白人のIQテストの成績の差が遺伝のみに由来するという見方には反対する。

IQテストにはバイアスがあるか

ここまで人種間の成績の差が遺伝的要因に大部分よるものか考えてきたが、最後にマッキントッシュは〈IQテストで黒人の成績が悪いのは、テストに黒人に不利なバイアスがあるためだ〉という議論を検討している。

著者はここではIQテストの(この意味での)バイアスを否定する方向で議論する。例えばIQテストには、顔を描いた二つの絵を見せてどちらがかわいいか尋ねる問がある。これは何となく白人独自の美的感覚に基づくバイアスのかかった問題のように思われる。ところがこの問題は黒人の子供にとっては最も易しい問題であり、他方白人の子供にとっては3番目に易しい問題に過ぎない。

また黒人の子供は白人よりもまんべんなくIQテストの成績が悪く、特にどの部門が足を引っ張っているということはない。さらにIQテストの成績と学校の成績(数学と読解)の関係についても、黒人白人とも同様の強い相関関係が存在する。

ただし著者はIQテストが文化中立的だと主張したいわけではない。文化によってはテストの意味を理解しないような場合もあるからである。例えば「牛とカラスはどこが似ているか」という問を聞いたときに、それらが属する分類学的カテゴリーについて考えるとは限らない(こちらの方がIQテストでは「正解」とされる)。そうではなくある目的のために両者をどう使うか考えてその点から両者の類似点を引き出すことも(文化によっては)多く、その場合IQテストでは成績が低くなる。

またSATの成績でコントロールされた黒人白人の大学生を集めてGREのテストを受けさせたところ、「このテストはあなたの知能を計るテストです」と告知された場合に限り黒人の成績が悪くなったという研究もあり、ステレオタイプに関わる効果があることも記されている。

人種と知能(1)

知能の勉強を細々と続けているが、この分野でいつも大きな議論になるのが、人種と知能の関係だ。このテーマはきちんとしたリサーチに基づかないことをうっかり述べてしまうと影響がきわめて大きいので、現在の研究でどういうことがわかっているのか(わかっていないのか)を簡単にまとめる目的で、サーヴェイ的論文を二篇紹介する。ひとつは

The Cambridge Handbook of Intelligence (Cambridge Handbooks in Psychology)

The Cambridge Handbook of Intelligence (Cambridge Handbooks in Psychology)

に収録されているDaleyとOnwuegbuzie(発音できない)の論文だ*1。この本は知能論の大家であるSternberg先生が編者の一人であるハンドブックなので、おそらくまったくでたらめということはないだろうと踏んでいる*2

この章は「人種と知能」と題されているが、基本的には米英における白人と黒人のIQテストの成績の差について議論している。現在米英在住の白人と黒人がIQテストを受けると15ポイントほどの差が見られる。IQテストの成績では15ポイントの差が一標準偏差となるように得点をつけるので、白人黒人の差は非常に大きな差である。もう少しなじみ深い偏差値を使ってたとえると、白人の偏差値の平均が50なのに黒人の平均が40になるようなものである。このIQテストの成績の差は昔に比べると縮まってきているが、それでもまだこれだけ大きな差があり、また最近は差が縮まるペースが鈍化・あるいはストップしている。

ここまではこの論争の参加者が共通して認める事実だ。論争点はこうした差が何を意味して何に由来するかということである。Herrnstein and Murray(1994)はこのトピックにおいて大きな話題になった本だが、DaleyとOnwuegbuzieがまとめるところでの、Herrnstein and Murray(H&M)の主張は次の三点である*3

  1. IQテストで測られる能力は一般に知能と呼ばれる能力である。
  2. それはかなりのところ遺伝的である。
  3. したがって、黒人白人の成績の差の多くは両者の遺伝的な違いによるものである。

人種と知能の関係についての論争の多くは、これらの主張が正しいか、もっともな証拠があるかということに費やされている。

IQテストの成績=知能の程度?

この論文の著者はH&Mの議論に否定的である。(1)については、著者は「人種」や「知能」という概念が(社会的)構築物であることを主張する。人種については、それが人工的構築物であって実在するわけではないという一般的な議論を引用する。

「知能」に関しては、IQテストで測られる能力が本当に「知能」と言えるものを測っているのかということが問題になる。肯定的な証拠としては、IQテストの成績が学校の成績や(より少ない程度であるが)職業的成功と相関していることが挙げられる。つまりIQテストの成績は単なる数字ではなく、実際にその人の人生にとって関係のある何かの能力を表しているのだというのである。

著者はこれに対してこうした議論は「循環論法」に陥っている可能性があると批判する(296)。というのは、上で述べたような学校の成績やそれによってもたらされる職業的成功(およびそれと密接な関係にある社会経済的階級)は、子弟の教育を通じてIQスコアに影響を与える可能性があるからだ。もしこの可能性を受け入れるならば「IQテストの成績→学校の成績→職業的成功→社会経済的階級→IQテストの成績」という循環的流れができるというのである。

(ただし、わたしにとってはこの議論はあまり説得的ではない。上の議論は、IQテストと学校の成績あるいは職業的成功のあいだに因果的フィードバックループがあるので定義上別のものを測定しているのではないと主張したいのだろう。例えば定期試験や入学試験にレイブンマトリックス(IQテストでよく使われる問題形式の一つ)を使っているならば、試験の成績がIQテストの成績と相関するのは明らかであり、そうした相関は大きな意味を持たない。しかし実際はそうではない。特に職業的成功については、IQテストが測定する能力とは表面的には異なる能力に部分的にであれ基づいているように思われる(会社員は営業先でレイブンマトリックスの問題を解くわけではない)。そうすると、両者の相関は単なる定義を超えるものであることになる。)

一方否定的なサポートとしては、著者はIQテスト以外の認知能力を測るテストがない場合、本当にIQが知能を測定できているのかわからないことを指摘する。またIQテストは文化的な影響を受けているので、欧米の中産階級の白人文化以外の出身の人々には不利になっている可能性もある。例えば上のレイブンマトリックスは文化中立的であるとされることがあるが、行同士・列同士に成り立つ順序関係やマトリックスにどういう心的操作をすればよいかについての知識が問題を解くのに関わっていることが指摘されている。

知能の遺伝性

(2)に関して言うと、H&Mは、社会経済階級がIQテストの成績に影響があることに否定的であること、IQテストで測られる能力はかなりの程度遺伝的であることを主張する。
それに対して著者はいくつかの証拠を挙げて教育はIQテストの成績の向上に効果があると反論する。

例えばH&Mが自説の根拠としてあげるのに幼児教育の効果がある。ここで挙げられているのはおそらくペリープリスクールプログラムのような幼児に特別な教育を施すプログラムのことであろうが、少なくともIQテストの成績の点から見ると、その効果は長続きしないことがわかっている(プログラムが終わるとその効果も見られなくなる;Nisbett 2009)。しかし著者は別の研究を引用して、言語・推論能力向上へのサポートはプログラム終了2年後でも見られることがわかっているとする。

また貧困家庭のIQの遺伝率は、より裕福な家庭の遺伝率よりもずっと低く、一卵性双生児でも一緒に暮らした者の間のIQの相関係数はそうでないものよりも高くなっている。さらにマイノリティに関していうと学習によってIQスコアへの大きな正の影響を与えるできることがわかっている。そうしたことから著者は、知能はH&Mが示唆するほどには遺伝的ではないと結論する。

*1:Daley CE, Onwuegbuzie AJ: Race and intelligence. In: The Cambridge Handbook of Intelligence. Cambridge University Press, 2011, pp. 293-306.

*2:ちなみにSternberg先生は中学生の時に科学の教科のプロジェクトでIQテストを自作し、好きなクラスメイトにお近づきになるためにその子に受けさせたという経歴をもっている。ソース

*3:なおわたしはHerrnstein and Murrayの本を読んでいません。

Krashenの議論

第二言語習得論の勉強を続けている関係で、Stephen Krashenの"Principles and Practice in Second Language Acquisition"(pdf)を読んでいるが、第二章で自分の仮説をサポートする仕方が雑すぎる。

Krashenはこの章で第二言語学習に関するいくつかの有名な仮説を提出している。一つは言語学習を意識的な学習(これをクラッシェンは「学習 learning」と呼ぶ)と無意識的な学習(習得 acquisition)とにわけ、言語能力の向上はほぼ後者のプロセスを通じてのみ生じると主張する。

(これはわたしにはにわかには信じられない。これは車の運転にたとえれば、ずっと運転練習をしていれば自然に運転できるようになると言っているようなものだ。)

これをサポートする仮説が、モニター仮説とインプット仮説になる。

モニター仮説では、Learningの唯一の機能は自分の第二言語によるアウトプットをモニターすることにあると主張される。たとえば外国語で文章を書いているときに、三単現のsが抜けていることを気づくことがあるが、このような時にlearningで獲得した知識が役に立つ。

インプット仮説

では言語習得における進歩はいかにして成し遂げられるのか。これを説明するのがインプット仮説で、おおざっぱに言うと自分のレベルよりも少し高いレベルのマテリアルをインプットすることによってのみ、進歩は成し遂げられると主張する。

しかしこれにはいろいろと問題があるように思われる。まずプレゼンテーションの仕方が明瞭ではない。21ページで著者は

「iの段階からi+1の段階に進むための必要条件(しかし十分条件ではない)は、言語習得者がi+1を含むインプットを理解することである。ここで「理解」というのは習得者がメッセージの形式ではなく意味に集中することである」(A)

と述べる。その後でインプット仮説を構成する部分を述べるといって次の4つの言明を与える。

  1. インプット仮説は学習ではなく習得に関わる。
  2. 現在の能力のレベルを少し超える構造を含んだ言語(i+1)を理解することによって、習得は行われる。これは文脈や言語外の情報の助けによって行われる。
  3. コミュニケーションが成功したとき、十分なインプットがありそれが理解されたとき、i+1は自動的に供給されている。
  4. アウトプットの能力は自然に生じる。それを直接教えることはできない。

しかしこれは4つ合わせても(A)の一つのポイント、つまりi+1のインプットが言語習得の必要条件であることに言及していないし、また(3)は言明(A)に含まれていない。また多くのポイントについて経験的な支持が豊富に与えられている訳ではない。

証拠

Krashenはインプット仮説(A)を支持する証拠をいくつか持ち出しているが、それにも問題がある。

  • ひとつはCaretaker speechと呼ばれるものだ。乳幼児がいる家庭では親などが子供に話すときに、文法などが簡略された言語を使うことがある。これがCaretaker speechである。クラッシェンの議論は、「Caretaker speechが乳幼児にとってi+1レベルのインプットを与える→子供の言語能力向上」というものである。

しかしこれは弱い証拠である。たとえば本当にcaretaker speechがi+1レベルのインプットになっているのかKrashenはサポートを提出していないし(仮に上の3.が正しくても、Caretaker speechで十全なコミュニケーションが成り立っているかわからない)、コントロール群との比較もない。

  • もう一つの証拠は沈黙期の存在である。子供が第二言語を発達させるときには沈黙期が生じることがある。これは第二言語にさらされた後、十分なインプットがあるにもかかわらず子供がその言語で(創造的な)発言をするまでに数ヶ月の時間がたつという現象である。

これをクラッシェンはインプット仮説を支持するものと見なす。というのは「その子供はリスニングを通じて、自分の周りの言語を理解することによって、第二言語の能力を養っている」からである。

しかしこれは(A)の証拠にはならない。というのはこれはインプットが言語能力の発達に十分だった例であっても、必要だという例ではないからである。

後に出てくる証拠には、言語教育を受けた長さと言語能力が相関していることを示した研究を引用している。しかし例が日本の英語教育であったり(日本の英語教育はあまりacquisitionにつながる活動をしていないというのが相場ではないか)、言語教育と言ってもいろいろあるわけでそれを全部Krashen流のacquisitionと考えるのには無理がある。

またこうした証拠はいずれもきわめて間接的で、直接教室を題材にした研究ではない。(A)のようなきわめて大胆な言明を述べるための証拠としては貧弱なように感じられる。1982年の本なので限界があるのは理解するが、もう少し慎重にやってほしい。

どういうときに創造的なアイデアが浮かぶか

ということをコンピュータ科学を例にしてThagardと共著者がここで書いている。

この論文ではCrossroadsというACM (Association for Computing Machinery、コンピュータ科学分野の国際学会)が発行している学生のためのオンライン雑誌に掲載されたコンピュータ科学者のインタビューを元に考察している。

著者によると、さまざまなインタビューから創造的な仕事が生まれるときには二つのモードがあるという。それは集中モード(intense mode)とリラックスモード(casual mode)である。

集中モードは、解決したい問題に注意を向けて集中的に取り組んでいるモードである。こうしたときには紙と鉛筆を用いて考えをまとめることが大事である。なおおもしろいことに、多くのコンピュータ科学者は、こうしたときにコンピュータのスクリーンで作業をするのではうまくいかないといっている。紙と鉛筆の方がうまくいくというのだ。またこうしたモードにあるときは、ソーシャルな関係が創造力を増幅させるのに重要である。つまりアイデアを他人に話すことが役に立つ。

これに対してリラックスモードでは、多くの人が、仕事から離れている時にインスピレーションが湧くと答えている。例えばジョギング、ハイキング、ワークアウトなどであり、また車の運転やシャワーもこうしたことが起こりやすいときである。

こうしたリラックスモードでインスピレーションが生じるときの状況には共通の特徴がある。著者の言葉を借りると、

  • 問題領域への没入
  • 問題に集中しなくてはというプレッシャーがとりあえずはないこと
  • 注意をそらすものがない、精神的にリラックスしていること
  • ぼんやりとした時間
  • 孤独

といったことが共通の特徴である。

しかしリラックスモードにおいてインスピレーションが舞い降りるには事前に集中的に仕事に取りかかっておくことが必要条件になる。問題に取り組んでいないのにただリラックスしているだけでは、よいインスピレーションが生じることはないのである。著者はパスツールのことばを引いて「偶然は準備の整った人に微笑む」(chance favors the prepared mind)と述べている。

創造性を伸ばすためによいこととしてインタビュイーが挙げている(と著者が述べている)のは、他の創造的な作品に触れることである。これは自分の専門(彼らにとってはコンピュータ科学及びその周辺領域)には限られない。たとえば他の科学分野における創造的な仕事、あるいは映画や美術展なども挙げられている。そうしたものに積極的に触れることで創造性のアンテナが反応することがあるというのである。