まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

Krashenの議論

第二言語習得論の勉強を続けている関係で、Stephen Krashenの"Principles and Practice in Second Language Acquisition"(pdf)を読んでいるが、第二章で自分の仮説をサポートする仕方が雑すぎる。

Krashenはこの章で第二言語学習に関するいくつかの有名な仮説を提出している。一つは言語学習を意識的な学習(これをクラッシェンは「学習 learning」と呼ぶ)と無意識的な学習(習得 acquisition)とにわけ、言語能力の向上はほぼ後者のプロセスを通じてのみ生じると主張する。

(これはわたしにはにわかには信じられない。これは車の運転にたとえれば、ずっと運転練習をしていれば自然に運転できるようになると言っているようなものだ。)

これをサポートする仮説が、モニター仮説とインプット仮説になる。

モニター仮説では、Learningの唯一の機能は自分の第二言語によるアウトプットをモニターすることにあると主張される。たとえば外国語で文章を書いているときに、三単現のsが抜けていることを気づくことがあるが、このような時にlearningで獲得した知識が役に立つ。

インプット仮説

では言語習得における進歩はいかにして成し遂げられるのか。これを説明するのがインプット仮説で、おおざっぱに言うと自分のレベルよりも少し高いレベルのマテリアルをインプットすることによってのみ、進歩は成し遂げられると主張する。

しかしこれにはいろいろと問題があるように思われる。まずプレゼンテーションの仕方が明瞭ではない。21ページで著者は

「iの段階からi+1の段階に進むための必要条件(しかし十分条件ではない)は、言語習得者がi+1を含むインプットを理解することである。ここで「理解」というのは習得者がメッセージの形式ではなく意味に集中することである」(A)

と述べる。その後でインプット仮説を構成する部分を述べるといって次の4つの言明を与える。

  1. インプット仮説は学習ではなく習得に関わる。
  2. 現在の能力のレベルを少し超える構造を含んだ言語(i+1)を理解することによって、習得は行われる。これは文脈や言語外の情報の助けによって行われる。
  3. コミュニケーションが成功したとき、十分なインプットがありそれが理解されたとき、i+1は自動的に供給されている。
  4. アウトプットの能力は自然に生じる。それを直接教えることはできない。

しかしこれは4つ合わせても(A)の一つのポイント、つまりi+1のインプットが言語習得の必要条件であることに言及していないし、また(3)は言明(A)に含まれていない。また多くのポイントについて経験的な支持が豊富に与えられている訳ではない。

証拠

Krashenはインプット仮説(A)を支持する証拠をいくつか持ち出しているが、それにも問題がある。

  • ひとつはCaretaker speechと呼ばれるものだ。乳幼児がいる家庭では親などが子供に話すときに、文法などが簡略された言語を使うことがある。これがCaretaker speechである。クラッシェンの議論は、「Caretaker speechが乳幼児にとってi+1レベルのインプットを与える→子供の言語能力向上」というものである。

しかしこれは弱い証拠である。たとえば本当にcaretaker speechがi+1レベルのインプットになっているのかKrashenはサポートを提出していないし(仮に上の3.が正しくても、Caretaker speechで十全なコミュニケーションが成り立っているかわからない)、コントロール群との比較もない。

  • もう一つの証拠は沈黙期の存在である。子供が第二言語を発達させるときには沈黙期が生じることがある。これは第二言語にさらされた後、十分なインプットがあるにもかかわらず子供がその言語で(創造的な)発言をするまでに数ヶ月の時間がたつという現象である。

これをクラッシェンはインプット仮説を支持するものと見なす。というのは「その子供はリスニングを通じて、自分の周りの言語を理解することによって、第二言語の能力を養っている」からである。

しかしこれは(A)の証拠にはならない。というのはこれはインプットが言語能力の発達に十分だった例であっても、必要だという例ではないからである。

後に出てくる証拠には、言語教育を受けた長さと言語能力が相関していることを示した研究を引用している。しかし例が日本の英語教育であったり(日本の英語教育はあまりacquisitionにつながる活動をしていないというのが相場ではないか)、言語教育と言ってもいろいろあるわけでそれを全部Krashen流のacquisitionと考えるのには無理がある。

またこうした証拠はいずれもきわめて間接的で、直接教室を題材にした研究ではない。(A)のようなきわめて大胆な言明を述べるための証拠としては貧弱なように感じられる。1982年の本なので限界があるのは理解するが、もう少し慎重にやってほしい。