まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

プライアーの哲学論文の書き方(3)

ドラフトを書く、後半です。一回目はこちら。二回目はこちら。[追記: そして第四回(最終回)]。

なお、前に英語での書きもののためのエッセイを紹介したエントリがありますので、そちらもよければ見てください。

  • 哲学の論文とは何をするものなのか
  • 論文を書くときの三つの段階
    • 初期段階
    • ドラフトを書く[きょうはここの後半]
    • 書き直すこと、そして書き直し続けること
  • 細かい点[この翻訳では省略]
  • どのように採点されるか

他人の考えを提示して評価する


もし哲学者Xの考えを議論する予定なら、彼の議論あるいは中心的な前提を把握することからはじめること。このための助けとして哲学の論文をどうやって読むかについてのわたしのコツを参照しなさい。

そして自分自身に尋ねるのだ。「Xの議論はよいものだろうか? 彼の前提はクリアに書かれているだろうか? そうした前提には信憑性があるか? そうした前提はXの議論にとって妥当な出発点だろうか、あるいは前提を支持する独立の議論を与えるべきだっただろうか?」

あなたの批判の対象となる立場が何を言っているのか、正確に理解するようにしなさい。学生は、本当に議論すべき考えと似ているように見えるが本当は異なる考えを批判して、多くの時間を無駄に費やす。いいか、哲学は高いレベルの正確さを求めるのだ。誰かの立場や議論について、それをだいたいわかっているというだけでは足らない。まったく正確に理解していなくてはいけないのである。(この点では哲学は他の人文系の学問よりも科学に似ている)。哲学の仕事の多くは、自分の論争相手の立場をしっかりと理解することにある。

読者はバカだと仮定してよい(上を見よ)。しかし議論の対象となる哲学者や見解をバカなものだと見なしてはいけない。もしそうした哲学者や見解がバカげたものなら、われわれはそれに見向きしないだろう。もしそうした見解の利点がわからない場合、その理由は、あなたがその見解について考え議論した経験があまりなく、そのためその見解に支持者が魅力をおぼえる理由をまだ十分に理解していないからかもしれない。支持者を動機づけているものが何なのか理解するよう、もっと努力しなくてはいけない。

哲学者がとんでもないことをすることはたしかにある。しかし、もしある哲学者のものだとしたい見解が、明らかに常軌を逸したものに見えるなら、彼が本当にそういうことをいっているのか、しっかり考えなくてはいけない。想像力を使うこと。どういうまともな立場なら、その哲学者が心に抱いていた可能性があるのか、理解するよう試みること。そして、その立場にむかって自分の議論を向けること。

論文ではいつも、ある立場が何を言っているのか説明してから、それを批判しなくてはならない。もし哲学者Xの見解とあなたが考えるものを説明しないなら、読者は、Xについてのあなたの批判がよいものかどうか、あるいはあなたの批判が単にXの見解についての誤解や誤った解釈に基づいているのか、判断できない。だから読者に、Xがどういうことを言っているとあなたが考えているのか伝えなさい。

とはいえ、あなたがXの見解について知っていることをすべて読者に伝えようとしてはいけない。あなたは、自分独自の哲学的貢献も提示しなくはいけないのだ。Xの見解を要約するのは、あなたがしようとしていることに直接関係する部分についてのみでなくてはならない。

ときには、Xの見解についてのあなたの解釈をサポートする文章を引用して、あなたの解釈を支持する議論を行う必要がある。テキストの中に直接の証拠が見つけられなくても、ある哲学者がもっていたかもしれない、あるいはもっていたはずだと思われる立場について議論することは許される。とはいえ、そうする場合にははっきりとそう述べなくてはいけない。例えば、次のようにいうべきである。

哲学者XはPとははっきりとは述べていない。しかし、いずれにせよ彼はPを仮定しているようにわたしには見える。なぜなら・・・。


引用

  • もし哲学者の見解の解釈を支持するのに、テキストのある一文が特に有用なら、その文を直接引用するのが役立つかもしれない。(その文がどこにあるのか特定するようにすること)。しかし、あまり頻繁に直接の引用を行ってはいけない。四、五文より多くの文章を引用する必要があることは滅多にない。Xから直接引用するよりも、Xのいっていることをパラフレーズする方が適当なことがしばしばある。誰かがいったことをパラフレーズする場合は、そう述べるように気をつけること。(そしてここでも、参照先のページを引用すること)。
  • 自分で説明するための代用品として引用を使ってはいけない。そして、引用をするときでも、その引用が述べていることを自分のことばで説明しなくてはならない。もし引用された文章が議論を含んでいるなら、その議論をもっと直接的ではっきりしたことばで再構成すること。もし引用した文が中心的な主張や仮定を含んでいるなら、どういう主張なのか示さなくてはいけない。[引用元の]著者の主張を例示するために、例を用いてもよい。もし必要なら、引用元の著者の主張とそれと混同される可能性のある他の主張を区別してもよいだろう。


パラフレーズ

  • 学生が哲学者の見解を説明しようとするとき、ときおり哲学者自身のことばと非常に近いことばでパラフレーズすることがある。いくつかの単語を変えたり削除したりするが、しかし全体としてみるともともとのテキストと非常に近いままなのである。例えば、ヒュームは『人性論』を次のように始めている。

人間の心に現れるすべての知覚は、二つの異なる種類に別れる。私はその一方を「印象」、もう一方を「観念」と呼ぶことにしよう。これら二つの間の相違は、それらが心に働きかけ、思考もしくは意識の内容となるときの勢いと生気との程度の違いにある。きわめて勢いよく、激しく入り込む知覚を印象と名付けてもさしつかえなかろう。そして私は、心に初めて現れるときの感覚、情念、感動のすべてをこの名称で包括することにする。また観念ということばで、思考や推論の際の勢いのないこれらの心像を示すことにする。(大槻春彦訳)

  • 以下の例は、こういう風にパラフレーズしたくないような例である。

ヒュームは、心に現れる知覚は二つの種類、つまり印象と観念に分けられると述べる。両者の違いは、それらがわれわれの思考と意識の中でどのくらいの勢いと生気をもっているかにある。勢いのある激しい知覚が印象である。これらは感覚、情念、感動である。観念はわれわれの思考と推論の勢いのない心像である。

  • この種のパラフレーズには二つの主要な問題がある。第一に、これが機械的パラフレーズであり、そのためパラフレーズを行った者がテキストを理解していることを示すわけではないこと。第二に、パラフレーズを行った人は、テキストが何を述べているか自分のことばで表現できる程には把握していないため、彼によるパラフレーズがテキストの意味を知らず知らずのうちに変えてしまっている危険があること。上の例では、ヒュームは印象は観念よりも大きな勢いと生気でもって「心に働きかける」(strike upon the mind)と述べている。わたしのパラフレーズでは、印象は「われわれの思考の中で」より大きな勢いと生気をもつ、となる。両者が同じことなのかは、明らかではない。加えて、ヒュームは観念は印象の勢いのない心像である、と述べている。一方、わたしのパラフレーズでは、観念はわれわれの思考の勢いのない心像である、となっている。これらは同じではない。だからこのパラフレーズを行った人は、もともとの文でヒュームがいっていたことを理解していなかったように見えるのである。
  • ヒュームがここで述べていることのずっとよい説明は以下のようになるだろう。

ヒュームは二つの種類の「知覚」つまり心的状態があると述べている。彼はこれを印象と観念と呼ぶ。印象とはとても「力強い」心的状態である。例えば、赤いリンゴを見ているときに持つ感覚印象のようなものである。観念とはこれよりも「力強く」ない心的状態であり、例えばリンゴについて単に考えているとき------それを見ているときではなく------にもつ心的状態である。「力強い」ということで、ヒュームがここで何を意味しているかは明らかではない。もしかしたら彼は次のことを意味しているかもしれない。・・・

反論をあらかじめ予想せよ

あなたの見解に対する批判をあらかじめ予想し、それに答えるよう試みること。例えば、もしある哲学者の見解について批判するなら、彼がすぐに負けを認めると考えてはいけない。彼の反撃がどのようなものになるかを想像せよ。そうした反撃にあなたはどのように対処するだろうか? 

自分の主な主張に対する反論に言及するのをおそれてはいけない。読者が反論を思いつかなければいいなと思うよりも、自分でそれを持ち出す方がよい。どうやったらこうした反論に対抗あるいは乗り越えられると思うか、説明せよ。もちろん、思いつかれる限りの反論のすべてには対処することができないこともしばしばである。だから、もっとも強いあるいは緊急を要する反論に集中せよ。

原稿に行き詰まったとき、何が起きているのか

論文においては、つねにある問題に対するはっきりとした解決を提供しなくてはいけないわけではないし、またある問いに対してイエスかノーかのストレートな答えを与えなくてはいけないわけでもない。多くのすばらしい哲学の論文も、イエスかノーかのストレートな答えを与えているわけではない。すばらしい論文の中には、当の問いをもっと明確なものにするべきだと論じたり、さらなる問いを立てる必要があると論じるものもある。また、問いの特定の前提は批判されるべきだと論じるものもある。さらに、その問いに対するある答えが安易すぎる、つまりうまくいかないと論じるものもある。したがって、もしこうした論文が正しいなら、この問いは今まで思っていたよりも答えるのが難しいものなのである。こうしたことはすべて重要で哲学的に価値のある結果である。

だから、論文の中で問いを立てたり問題を提起することは------たとえすべてに満足のいく答えを与えることができなくても------かまわない。いくつかの問いを論文の最後で答えのないまま残しておいてもよい。しかし、意図的にそうした問いを答えのないままにしておくのだということは、読者に明らかにしておかなくてはいけない。そして、その問いがどうやったら答えられる可能性があるか、また、そうした問いがなぜおもしろいもので目下の問題に関係があるのか、ある程度は述べておかなくてはならない。

もしあなたが検討している[哲学者の]見解の中に何か不明瞭なものがあるなら、それをごまかしてはいけない。その不明瞭さに注意を向けよ。その見解をどうやったら理解できるか、いくつかのやり方を示唆せよ。こうした解釈の内どれが正しいのかがどうして明らかでないのか説明せよ。

二つの立場について考えて、注意深く検討したあと、どちらの立場がよいか、わからないことがあるが、これはかまわない。二つの立場の長所と短所はだいたい拮抗しているようだと言うことは、まったくかまわない。ただこれも、説明と筋道だった擁護を必要とする主張であって、それは他の主張と変わらないことに注意せよ。この主張をサポートする理由------二つの立場は拮抗しているとは考えていなかった人にも説得的に思えるかもしれないような理由------を与えるようつとめなくてはならないのである。

論文を書いていると時々、自分の議論がはじめに思っていたほどよくないことがわかることがある。自分の見解に対する反論を思いついて、そしてその反論によい返答がない場合があるかもしれない。落ち着いて。もしあなたの議論に問題があり、それを直すことができないのなら、どうしてそれを直すことができないのか把握するよう試みること。自分のテーゼを擁護できるものに変えるのはかまわない。例えば、見解Pに対するまったく強固な擁護を与える論文を書くかわりに、戦術を変え以下のような論文を書くこともできる。

ある哲学的見解はPと述べる。これは信憑性のある見解であるが、その理由は・・・。

しかし、Pかどうかを疑う理由がいくつかある。そうした理由の一つはXである。XはPという見解に問題を提起する。というのは・・・

Pの擁護者がどのようにしてこの反論を乗り越えたらいいか、明らかではない。


あるいは以下のような論文を書くこともできる。

Pを支持する議論は「連言論法」である。これは以下のようなものである。・・・

一見するとこれは非常に魅力的な論法である。しかしこの論法には問題がある。それは以下のような理由である・・・

この論法を、以下のようにして修正しようと試みる人もあるかもしれない。・・・

しかしこうした修正はうまくいかない。というのは・・・

わたしの結論は、連言論法は実際のところPを打ち立てるのに成功していない、というものである。

このような類の論文を書くことは、反論に対してあなたが「降参した」ことを意味するわけではない。結局のところ、どちらの論文においても、あなたはnot-Pという見解にコミットしているわけではない。こうした論文はPを支持する決定的な議論を見つけることの難しさについての正直な説明となっているだけで、そうはいってもPは真であるかもしれないのである。