プライアーの哲学論文の書き方(4)
何かオリンピックが終わったあとのほうが寒いような気がします。
さて、プライアーのガイドラインの翻訳もこれで終わりです。
3. 書き直すこと、書き直し続けること
さてあなたは、論文の完全なドラフトを書きおわった。一日か二日、そのドラフトを脇に置こう。そのあとでドラフトに戻って読み直すのだ。以下のようなことを、一つ一つの文について自分に問いかけよう。
「この文は本当に意味が通っているか?」「これはまったくわかりにくいな!」「これは大げさに聞こえるな」「これってどういう意味?」「この二つの文をつなぐのはなに?」「これってたんなる繰り返しじゃない?」などなど。
ドラフトにあるすべての文がよい仕事をするようにし、そうでない文はとりのぞくこと。もし中心的な議論にどういう貢献をするかわからない文があるなら、とりのぞくこと。その文が良さそうにみえてもだ。論文で何らかの主張をするのは、それが主要な議論に関係があり、きちっと説明できるためのスペースがある場合に限られるようにすべきだ。
もしドラフトの中に満足のいかない文があれば、なぜそうなのか自問せよ。そんな文があるのは、言いたいことがしっかりと自分でわかっていないか、あるいは言いたいことを本当には信じていないからかもしれない。
あなたの言いたいことが正確に伝わるような文章にせよ。たとえば、「人工妊娠中絶は殺人と同じだ」と書くとする。それは本当にあなたが言いたいことだろうか? すると、オズワルドがケネディを殺したとき、それはケネディを中絶することと同じだったのだろうか? あるいはあなたが言いたいのはそれとは違うことなのだろうか? おそらくあなたが言いたいのは、人工妊娠中絶は一種の殺人である、ということだろう。会話でなら、はじめの文章で何を言いたいのかわかってもらえるだろう。しかし、書くときはこれではいけない。たとえTAがあなたの言いたいことをわかったとしても、この書き方はダメである。哲学の文章では、あなたの言いたいことを正確に言うようにしなくてはいけないのだ。
またドラフトの構造にも注意を払わなくてはいけない。ドラフトを改訂するときは、ドラフトの構造と全般的な明晰さにとりくむ方が、単語やフレーズを散発的に削除するよりも、ずっと大切なのだ。あなたの主な主張、およびそれをサポートする議論について、読者がわかるようにせよ。段落のポイントを、すべての段落について読者がわかるようにせよ。あなたが各段落のポイントをわかっているだけでは十分ではない。読者にとっても------たとえば怠惰でバカで意地悪な読者にさえ------ぱっと見てわかるようでなくてはならないのだ。
できることなら、ドラフトを友人か同じクラスの他の学生に見せて、コメントとアドヴァイスをもらうべきだ。わたしはそうすることを薦める。友達はあなたの主要な主張を理解できるだろうか? ドラフトの中に、友達にとって、クリアでなくまた混乱させるようなところがあるだろうか? もし友達が理解できないようなところがあるなら、ドラフトの読者もわからないだろう。段落や議論があなたにとっては完全にクリアであっても、他の人にはまったく訳のわからないこともあるかもしれない。
ドラフトをチェックする別のよい方法は、音読することだ。これは、ドラフトが筋が通っているか見るのに役立つ。何が言いたいのか自分ではわかっていても、実際に書いたものはそれとはちがうかもしれない。論文を音読することは、自分の推論の穴や脱線部分、クリアでない文章を見つけるのに役立つ。
ドラフトは何回も書くことになると考えなくてはいけない。少なくとも三回か四回!! 以下のウェブサイトを参照せよ。これは、ドラフトを数校作ることで、短い哲学の論文をどのように改訂していくかを説明している。改訂するたびに論文がどのくらいよくなっていくか理解するように。
どのように採点されるか
採点には三つの基本的な基準がある:
- 議論の対象となる問題をどのくらい理解しているか?
- あなたの議論がどのくらいよいものであるか?
- 書き方がクリアでうまく整理されているか?
われわれは論文をその結論に同意するかどうかで判定しない。実際のところ、どういう結論がただしいのか、採点者の中でも一致しないときもある。しかし、あなたが結論をサポートするための議論をするのに成功したか否かについては、容易に一致するのである。
もっと詳しく言うと、われわれは[各論文に対して]以下のようなことを問う。
- 論文でやりたいことをはっきりと述べているか? 主なテーゼが読者にとってすぐにわかるものになっているか?
- 主張に対してそれをサポートする議論を提示しているか? どういう議論を出しているか読者にとってぱっと見てわかるものになっているか?
- 論文の構造はクリアか? 例えば、どこで他人の説を説明しているか、どこで自分独自の貢献をしているかがクリアか?
- 単純で読みやすく、わかりやすい文章か?
- よい例でもって自分の主張を例証しているか? 中心的な概念を説明しているか? 自分の言いたいことを正確に述べているか?
- 他の哲学者の見解を正確にまた寛容さをもって提示しているか?
学生の哲学の論文に対してもっとも頻繁にわたしが行うコメントは以下のものである:
- 「この主張を説明せよ」あるいは「これってどういうこと?」あるいは「ここで何を言っているのかわからない」
- 「この文はクリアではない(あるいは奇妙だ、あるいは読みにくい)」とか「あまりに込み入っている」「よくわからない」「もっと単純に」
- 「なぜそう思うの?」「この点はもっとサポートが必要」「なぜこの点を信じなくてはいけないのか?」
- 「なぜこれがPを信じる理由になるのか説明せよ」「なぜ前に言ったことからこれが出てくるのか説明せよ」
- 「あまり関係ない」
- 「何か例はない?」
こういうコメントがくるかもしれないと予想して、そうした必要がないようにするように!
論文は何らかの哲学的仕事をしなくてはいけない
以下のような[哲学者への]批判を、学部生の哲学の論文ではよくみる:
哲学者XはAを仮定し、そこからBを支持する議論をする。わたしにはBは魅力的ではない。哲学者XはAを単に仮定しているだけであり、それを支持する議論を与えていない。わたしはAは真ではないと考える。だからわたしはAを拒絶してそれによりBを回避することができる。
こうした考えが正しくない理由は全くない。そして、哲学者XはAを支持する議論をもっと与えるべきだったという点で、その学生は正しいだろう。しかし、この学生は、哲学者Xの見解に、興味深い仕方で、本当に哲学的に関わっているわけではない。彼は本当のところ、大きな哲学的な仕事をおこなった訳ではない。哲学者XがAを仮定し、もしその仮定を受け入れたくなければXの結論を受け入れる必要がないのは、はじめから明らかだったことである。もし論文がこれしか言っていないのなら、あなたの論文は説得力のあるものとはならないし、うまく書けていたとしても中くらいの成績にしかならないだろう。
たとえば以下のようにすれば、くだんの学生はもっとおもしろいことが自分の論文でできただろう。例えば、そもそもBはAから本当は帰結しないと論じるとか、あるいはAが間違っていると考える理由を提示してもよかった。また、Bが真か討論しているときにAを仮定するのは正当なやり方ではないと論じてもいい。あるいはなにかこういった類のことだ。こうしたことのほうが、哲学者Xの見解に関わるやりかたとしては、もっと興味深く満足のいくものだろう。
わたしやTAからのコメントに対応する
採点の済んだ論文をもう一度書き直す機会があれば、以下の点を心にとめておくこと。
書き直すときには、われわれが示唆した個々の誤りや問題を乗り越えるようつとめること。もし優よりも低い成績をもらったなら、あなたのドラフトは、全体に読みにくく、何があなたの議論か、また論文の構造がどういうものになるのかわかりにくい、といった問題があった。こうした欠陥を直すには、論文を最初から書き直す以外ない。(ワードプロセッサーに空のウィンドウを新規作成して始めるのだ)。ドラフトとあなたがもらったコメントをつかって、アウトラインを新たに作り、そこから書いていくのだ。
以下のことを心にとめておくように。わたしやTAが書き直された論文を採点するとき、書き直さなかった部分のなかで、一回目では見逃した問題点に気づくことがある。また、そうした問題点が論文の全体的な印象に影響を及ぼしていたが、そうした点を直すよう特に薦めることがなかったことがあるかもしれない。だから、こうしたことはコメントをもらった文章だけでなく論文全体を改善するよう試みるべきもう一つの理由となる。
論文を改善しても、[良→優のように]点が一段階もあがらないことはあり得る。これはときどき起こることがある。しかし、あなた方の場合は、それよりはよくなると思う。
ふつう、採点後に論文を書きなおす機会は与えられない。だから、ドラフトを書き、それを詳細に検討し、自分の論文を提出・採点前に改訂し書き直すよう、自分に教え込む必要があるのだ。