まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

論文は「古畑任三郎」のように書く

先日論文の書き方について浮かんだことがあるのでメモ。

それは、論文は『古畑任三郎』のように書くべし、というものだ。

古畑任三郎 3rd season 1 DVD

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ご存じのように『古畑任三郎』は、推理小説の中でも倒叙ものといわれるジャンルに属する。毎回はじめに古畑任三郎が登場して、犯人とその他のヒントをあらかじめ披露して物語が進んでいく。

このシーンの機能の一つは、古畑が視聴者にこれからの物語の中で何に注目して見ていけばよいか教えることだ。多くの場合、古畑のコメントで我々は誰が犯人かは簡単にわかる。だから視聴者は視聴の際、主に二つの「どうやって」、つまり「どうやって犯人が被害者を殺したか」と「どうやって古畑が決定的な証拠をつかんだか」に焦点を当てて鑑賞することになる。これは、逆の側から言うと、制作者が視聴者の注意の方向をコントロールしているということでもある。

論文を書くときも、これをマネすればよい。すなわち、論文の最初の方で自分が何をするかをマニフェストとしてハッキリ述べるのである。このマニフェストには二つの機能がある。一つは論文のトピックについてよく知らない読者に、自分がこの論文でおこなうことのだいたいのアイデアを与えること。もうひとつは、批判的にであれ肯定的にであれ、この論文について書く読者のために、自分の見解を正確にのべることだ。

たとえば、昨年「脳科学と行動科学」誌に掲載され話題になった「理性の議論説」についての論文(pdfファイル)では、著者の見解がアブストラクトで簡潔に述べられている。

推論(reasoning)についての一般的な見方によれば、それは、信念を改善しよりよい意思決定をするための手段とされる。しかし、多くの証拠によれば、推論はしばしば認識のゆがみや誤った意思決定に至ることが示されている。このことは、推論の機能について再考するようわれわれに促す。我々の仮説は、推論の機能は議論に関わるというものだ。つまり、説得を意図した議論を作り出し評価することだ。そのように考えられた場合、人間が飛び抜けてコミュニケーションに依存しかつ誤情報に対して弱いことを考えると、推論することは適応的である。この仮説に照らすと、推論と意思決定に関する幅広い心理学的な証拠を再解釈し、それによりよい説明を与えることができる。


この文は、自分たちの主張をよく知らない読者に対しても大まかなアイデアを与えている。同時にこうすると、この論文をほかのところで紹介するときに、この一文を抜き出せば彼らの主張のエッセンスを伝えることができる。つまりこの一文はこの論文が後に話題に上る頻度を上げている。もし「ミーム」という言葉がお好みならば、この文はこの論文という「ミーム」の「適応度」を上げているわけである。

もちろん、「わかりやすく」といってもどこまでわかりやすくすればよいかが問題になる。一つの目安は、たとえば本論で事例を使って議論していく場合、読者に「著者はこの事例を使って何が言いたいのかな」と疑問に思わせてはいけないということだ。あらかじめ読者に「わたしはこの事例をつかって、これこれのことがいいたいのです」ということをはじめに宣言し、読者と「土俵」というか議論の方向性を共有しなくてはいけない。

別の仕方で言うと、序論で自分のやりたいことをハッキリさせて行くと、本論のところでは読者には「犯行の手口」がバレバレになっているわけである。そしてそれでよい。そうでないと――少なくとも論文や発表の場合は――読者が行き先がわからないのでイライラしながら読み進むことになってしまうのである。