まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

授業のためにどのくらい・どういう準備をしているか

以前「年収160万円」からの脱出、還暦を機に大学教授を目指してみたという記事が話題になった。これは色々突っ込みどころがある記事だが(その続編を見ると著者はたぶんわかってやっていると思う)、一つ気になったのはこういうところだ。

近々の世界の経済史、政治史など数冊を読み込み、応募要項にそった書類を用意し、拙著(無料だ!)とともに郵送したのだ。

賢明な方々が指摘している通り、大学教員の感覚では「近々の世界の経済史、政治史など数冊を読み込」んだくらいでは、大学できちんとした科目を教えることはおぼつかない。とはいえ、実際の講義がどのくらいの準備に支えられているかを明らかにしないと、なかなか想像するのは難しいかもしれない。そこで今回はわたしが過去に行った講義について準備のためにどのくらい資料を読んだかか書いてみよう。

ここで取り上げる講義は以下のようなものである:

  • 対象は農学系の学部の一年生
  • 地域活性化についてのオムニバス授業*1の一回
  • ただしわたしは地域活性化そのものについて授業することはできないので、(学生が関心を持っていそうな)環境問題とビジネスの関わりを倫理的に振り返るという内容*2

授業の構成は以下のような感じだ:

  1. 最初の10分で自己紹介と今回の授業の概要を説明する。また今回の授業で出る課題を明らかにする(授業末尾で描写するケーススタディに自分ならどう考えるかを述べる)。
  2. 次に倫理学とはどういう学問か、そしてどういう学説があるかを述べる。具体的にはトロッコ問題を用いて功利主義とカント主義を描写する。
  3. さらにビジネス倫理学についてそのさわりだけ説明する。具体的には、企業の目的についてのストックホルダー説とステイクホルダー説を紹介して、両説が企業の環境問題への関わり方について引き出す教訓について説明する。
  4. 最後にビジネスと環境の倫理にかかわる二つの事例を描写して、もう一度課題を説明する。

それでわたしが上の各部分を準備する際にどのような資料を読んだかは次の通りだ(以下の番号が上の授業構成の番号と対応している):

  1. 最初の自己紹介や今回の授業の概要の説明については、資料は読んでいない。
  2. 倫理学の説明については、すでに勉強したことがあるのでこの授業のためには取り立てて何か読む必要はなかった。ただしこのくらい倫理学に馴染みになるためにはある程度論文などを読む必要がある。例えば留学したときには
    Moral Philosophy: Selected Readings

    Moral Philosophy: Selected Readings

    に納められた論文は半分以上読んでいるはず。
  3. この部分を作るときには結構資料を読む必要があった。まずわたしはビジネス倫理学については何も知らなかったので、その入門書、具体的には『ビジネス倫理学
    ビジネス倫理学 (公益ビジネス研究叢書)

    ビジネス倫理学 (公益ビジネス研究叢書)

    および『ビジネス倫理学 哲学的アプローチ』
    ビジネス倫理学―哲学的アプローチ (叢書 倫理学のフロンティア)

    ビジネス倫理学―哲学的アプローチ (叢書 倫理学のフロンティア)

    を読んで概要をつかんだ。それを読んで企業の目的についての話が使えそうだと思ったので、上の二説を展開したフリードマンとフリーマンの論文を読むことにした。それらは以下のビジネス倫理学のアンソロジー
    Business Ethics: Readings and Cases in Corporate Morality

    Business Ethics: Readings and Cases in Corporate Morality

    • 作者: W. Michael Hoffman,Robert E. Frederick,Mark S. Schwartz
    • 出版社/メーカー: Wiley-Blackwell
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    *3にあるので、それを読んでいる。またこの本にはビジネス倫理と環境問題を論じた論文を集めた章もあったのでそこに含まれる論文も二本読んでいる
  4. この授業では各回ごとに課題を出す必要があった。課題の形式については、ケーススタディをいくつか出してそれについて考えてもらうというアイデアがすぐに浮かんだので、余り悩まなかった。ただしケーススタディ自体を見つけるのには少し苦労した。上の中谷『ビジネス倫理学』にはケーススタディがいくつかあったが、今回の授業に援用できそうなものは一つしかなかった。わたしとしてはケーススタディを複数出したかったので、もう一つ見つける必要があった。ビジネスと環境の倫理に関するケーススタディを集めた本には
    Case Studies in Business Ethics

    Case Studies in Business Ethics

    Taking Sides: Clashing Views on Controversial Issues in Business Ethics and Society (3rd ed)

    Taking Sides: Clashing Views on Controversial Issues in Business Ethics and Society (3rd ed)

    Case Studies in Environmental Ethics

    Case Studies in Environmental Ethics

    があることがわかった。前二者については環境にかかわる部分、最後のものについてはすべてのケースを読み、適当なものを最終的に一つ選んだ*4

ということで、この授業をするために読んだのは

  • 日本語の本二冊
  • 英語の論文二本(授業で使用)、二本(不使用)
  • 英語の本三冊(二冊は部分読、もう一冊は通読)

で、強調しておきたいのは、この準備は一回の授業(90分)のためのものである。90分やって学生を退屈させないためには、このくらい準備が必要なのである。

ただしわたしはすべての授業でこのくらいの準備をしているわけではないことも付け加えておく必要がある。この授業でこれほど準備が必要なのは教える内容が定型化しておらず、いろいろなソースをパッチワーク的につなぎ合わせてストーリーを作る必要があったためである。それに対して内容が定まった授業ではこれほど準備するわけではない。例えば大学一・二年生向きの「倫理学」の授業で功利主義について教える場合は、教える内容は大体決まっている。すると、授業のストーリーを一から考える必要はなく、定番の教科書を組み合わせると流れができあがる。

*1:一つの科目を複数の教員が教える授業。

*2:なおわたしは現在はこの内容で教える授業を担当していない。

*3:但し二つの論文の邦訳は

企業倫理学〈1〉倫理的原理と企業の社会的責任

企業倫理学〈1〉倫理的原理と企業の社会的責任

にある。

*4:ただし最後の本は別の授業準備にもなっていたことを付け加える必要がある。