まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

なぜ・何を・どうやって科学者に科学哲学を教えるのか

という論文を読んだ(リンク)。著者はスウェーデンの科学哲学者で、科学哲学が科学者及びその卵である理系学生に貢献できる理由と方法について書いてある論文だ。

なぜ教えるのか

科学者やその卵である理系の学生にに科学哲学を教えるべき理由として、著者は方法論的な理由を強調する。科学者の養成過程で、学生はその科学の方法論についても学ぶ。しかし著者の見るところ、その方法論にはきちんとした正当化を欠いたまま教えられているものがあるという。著者の挙げるのは次のような例だ。

  • 経済学では単純なモデルが尊ばれる。たとえばは著名なミクロ経済学の教科書の著者であるヴァリアンは「考えられうる限りで最も単純なモデルを書き付けて、それがなおなにかおもしろい振る舞いを見せているかチェックせよ。そしてもしそういう振る舞いを見せているなら、モデルをもっと単純にせよ」と述べる。しかし著者の見るところ、なぜ単純なモデルが優れているのか、きちんとした正当化が与えられることは少ない。
  • 仮説検定においては一般に、p値が0.05以下になると帰無仮説は棄却され、対立仮説に有利な証拠が得られたと見なされる。しかし、なぜ0.05なのかという理由が提示されることは少ない。
  • 経済学などでは、まず背景理論から予測を導き出すことを教えられて、データのみからパターンを導き出すことはデータマイニングだとして忌避される。しかし学生はなぜデータマイニングがまずいのかという理由付けを与えることはほとんどなく、実際学問間でデータマイニングに対する態度は異なる。
  • 経済学と心理学の実験デザインにおける物質的インセンティブの位置。経済学では、参加者に選択肢を与える際に適切な物質的インセンティブ(多くは金銭)を与えることは必須であり、そうしたインセンティブが与えられていない実験デザインは拒否される。一方心理学では物質的インセンティブの有無は実験結果に大きな影響を与えないと考えられている。ではこの違いは何に基づくのか? 

このような方法論的規則を著者はconventional methodologyと呼ぶ。conventionalというのは訳すのに悩ましい言葉だが、ここでは「きちんとした議論なしになんとなく受け入れられてきた」というぐらいの意味だろう。しかしこうした方法論をその基礎付けを無視したまま受け入れることは問題である。

しかし問題はそれだけではない。というのは、科学者は学校で学んだことをただ繰り返すことが求められている訳ではないからだ。学際的であることが必要であるし、イノベーションを起こす(新しい考え方を生み出すという意味で)ことも求められている。conventional methodologyを議論なくして受け入れることは、その妨げになる。なぜなら、学問間でconventional methodologyが異なると、学際的協力の妨げになるし、conventional methodologyに対する非反省的態度はイノベーションの妨げにもなるからである。

こうした点は科学の営みに哲学的な反省をもたらす。もちろん、これは哲学者の専売特許ではなく、現場の科学者も歴史的にこうしたことを行ってきた。その意味で科学者は実は(よく知られた比喩を使えば)鳥類学者と鳥とのハイブリッドであり、また科学哲学者も同様のハイブリッド(ただし科学と哲学の混合割合は異なる)なのである。

何を教えるのか

こうした観点から科学哲学教育を見直してみると現在のあり方には過剰な点と不足な点が目につく。

著者は現在出回っている主要な科学哲学入門書9冊を概観して、どの入門書がどのトピックをカバーしているかの表を作っている(p. 125)。こうした入門書には日本でも訳書が出ているオカーシャ、ローゼンバーグ、チャルマーズの本が含まれている。すべての本でカバーされているトピックは三つ(説明、帰納と確証、実在論)である。

このようなサーベイから現在行われている標準的な科学哲学のコースを推測したあと、著者は(理系学生向けのコースとしては)いくつかのトピックが不足していることを指摘する。ひとつは倫理的考察の欠如である。たとえば、狭い意味での研究倫理(捏造・盗用などの不正や実験における動物や人間の被験者への配慮の問題)の問題である。

また科学と科学外の世界の境界面に生じる問題もある。たとえば現代世界の中で科学者が専門家としてどのように振る舞うべきかことも問題になる。

一方、科学者の卵に教えるには比較的重要性が低いトピックも現在の一般的な科学哲学教育の中にはある。たとえば科学哲学の歴史はあまり重要ではない。カルナップが何を言ってそれに対してクーンが反論し、またそれに対してラカトシュが批判をした・・・という科学哲学歴史物語は必要ないというわけだ。

どうやって教えるのか

ではどうやって教えるのか。著者は理系学生に科学哲学を教える際に考慮すべき事柄をいくつか挙げる。

  • 人文系の勉強の経験なし
  • 科学哲学の授業を取る内在的動機付けがない
  • まだ科学に実際に取り組んだ経験はない
  • 物理系・生物学系から社会科学系にいたる様々なバックグラウンドを持っている
  • 規模の大きなクラスである

このような厳しい前提条件を考えると、たとえば科学哲学の理論の歴史を広範に行うことは得策ではないと著者は述べる。とくにこうした歴史は「ある理論を紹介→その難点を紹介→その後に出てきた理論を紹介→その難点を紹介」という「反例症」(counterexampelitis)に陥り学生の興味を引かなくなってしまう。

また理系学生の中には人文系の学問に不信を抱いていたり、ハードサイエンスを過大評価する傾向も見られる。

この傾向に対応する手段として著者が提案するのが科学の誤謬について集中的に議論すること、また境界設定問題について議論することだ。

また科学に実際に取り組んだ経験のない学生に、科学の営みを模擬体験させるものとしていくつかのシミュレーションを学生にやらせることも提案されている。たとえばHasok Changの実践として紹介されているのが、「18世紀科学者を体験する」という試みだ。この試みでは学生は18世紀科学のテキストを今の知識でもって読み、こうしたテキストに対して応答・批判を書くことになる。

もちろんこれですべてがうまくいくということは著者も言っていないが、有益な出発点になるのではとも述べている。

日本人なら必ず誤訳する英文

を読んだ。

翻訳家として活躍する著者が、翻訳学校などの講師を務める中で多くの人にとって意味をとるのが難しい英文をあつめた本。なかなかに難しい英文が並んでいて、正直に言うと一割強ぐらいの文章でわたしもまちがえた。とはいえ著者は文法に基づいてどう読んでいくのが正しいのか説明してくれるので、いたずらに特殊で難解な文章をあつめたという感じはない。

ということで色々と蒙が啓かれたのであるが、ひとつだけ気になる点があった。著者は206頁で

George Bush's victory in the 2000 presidential election was an extremely narrow one, with a controversy over who won Florida's electoral votes, among others.

という文章を

2000年の大統領選でのジョージ・ブッシュの勝利は、他の歴代大統領たちのそれと比べてはるかに僅少差のものであり、しかもフロリダの選挙人を誰が獲得したかにまつわる議論を引き起こした。

と訳している。ここでのポイントの一つは文末の"among others"がどこにかかるのかということなのだが、著者は"a very narrow one"にかけていて、"Florida's electoral voters"にかけるのは誤りとしている。しかしここでは"a controversy"にかけるというもう一つの選択肢があって、そちらの読み方も可能である――というか、むしろこちらのほうがよいのではないかと思える。つまり「色々論争を巻き起こしたけれども、フロリダの選挙人の取り扱いはその一つ」という読みだ。

著者は"a narrow one"の"one"と"among others"の"others"の結びつきを強調するが、手元の文章のデータベースを検索しても"among others"となった場合は両者には特定の結びつきはないように見えるし、むしろ"among others"がかかるのは直前に来る単位(語・語句)の方が多いと思う。

p値よりも信頼区間を

とLaTrobe大学の心理学者Geoff Cummingsが以下の動画で述べている。

心理学では(もちろん心理学だけではないが)ある仮説を検証するときによくp値を用いる。これは帰無仮説が正しいとしたときに手元の標本統計量が得られる確率である。この値が0.05というマジックナンバー以下になると、帰無仮説と整合的でない統計量が得られたと見なされ棄却される。

しかしこの動画ではCummingsはp値はむしろミスリーディングな統計量であるので余り使うべきではなく、それよりも信頼区間を用いるよう提案する。その理由は、p値が母集団について述べる情報量は不十分なほど少なく、さらにその値自体が偶然による変動を受けやすく値が大きく変動することがあるからである。

たとえば上の動画では同じ母集団から何回もサンプリングをして、(母集団においては帰無仮説が成り立っていないことを前提として)各サンプリングに対してどういうp値が得られるかをシミュレーションしている。

そうすると、p値は試行ごとに大きく揺れ動き、あるときは.5近くになるが次の試行では.01ぐらいになるといったことが起こる。ただしp値は最初に推定した信頼区間の中に大多数は収まっている。

実際、実際のp値が.05の時の80%信頼区間は(.00008, .44)と非常に大きく、p値のもたらす情報量が少ないことが理解できる。

ただこれは統計学の参考書

心理統計学ワークブック―理解の確認と深化のために

心理統計学ワークブック―理解の確認と深化のために

でも書かれていることなので、Cummingsのようにこのアイデアから
Understanding The New Statistics: Effect Sizes, Confidence Intervals, and Meta-Analysis (Multivariate Applications Series)

Understanding The New Statistics: Effect Sizes, Confidence Intervals, and Meta-Analysis (Multivariate Applications Series)

という本を書いてしまうのは行き過ぎではないかという気がする。ただし中身を見ていないので、ここで書かれていることを超えたものがあるのかもしれない。

廉価版を買うかグレードアップ版を買うか

わたしが買い物をするときに頻繁に直面する意思決定問題の解決法を考えたので備忘のためにメモ。

問題の状況

ある種類のものを買いたいと思っている。それには廉価版とグレードアップ版があり、後者の方が品質・機能は勝っているが値段がそれに応じて高い。どちらを買うべきか。

もう少し説明すると問題は以下のようになる。もしグレードアップ版を買って満足するならば、廉価版を買うよりは費用は高くなる。しかしもし廉価版を買って満足するならば、費用はそれよりも安くすむのでこちらの方がよい。ところがもし廉価版を買って満足できずにグレードアップ版も買うことになると、一番費用が高くなる。では廉価版とグレードアップ版のどちらを買うとよいか。

例えば

雪道でランをしたいと思っているが、今持っているシューズでは機能不足である。したがって雪道用のランニングシューズを買いたい。調べてみた結果、候補が二つあったとする。

ゲルスノーライド

スノーターサー

今調べてみるとスノーライドは約8500円、スノーターサーは約1万2500円*1

後者は高いが、今のところの最上級グレード。ではどちらを買えばよいか*2

考えかた

廉価版の価格をx円、グレードアップ版の価格をy円とする([tex:xpとする。するとまず(i)廉価版を買った場合(ii)グレードアップ版を買った場合の出来事のツリーは右のようになる。

で、(i)の場合の期待費用は

$px+(1-p)(x+y)=x+(1-p)y$

左辺の第一項は廉価版で満足した場合、第二項は満足できずにグレードアップ版も買った場合の費用。

(ii)の場合の期待費用はy。で、まず廉価版を買って様子を見るべきなのは、「((i)の期待費用)<((ii)の期待費用)」の時。つまり[tex:$px+(1-p)(x+y)=x+(1-p)y\displaystyle\frac{x}{y}$]となる。つまり、廉価版を買って様子を見るべきなのは、廉価版で満足する確率が、廉価版の価格をグレードアップ版の価格で割ったものよりも高い時。

上の例だと、廉価版のスノーライドを買うべきなのは、スノーライドに満足する確率の見積もりが$p>8500/12500=0.68$の時、つまり68%よりも高い時。

逆にグレードアップ版を買った方がいいときは二つあって、それは

  • 両者の価格差が小さいとき(xyの差が小さいとき)
  • 廉価版に満足しないことがわかりきっているとき(pの値がきわめて小さいとき)

また、両者の期待費用の差が小さいときは、どっちにしても費用の見込みは変わらないのでその点で意思決定するのは無理と言うことになる。

ただしこうした計算が実際上使えないときがあって、たとえば家を買うときのようにx+y円を払いきれない時には使えない。また商品の価格階級が三つ以上の時にも拡張できると思うが、上の計算そのままでは使えない。

もし買い物で迷うみなさまのお役に立てれば幸甚*3

*1:ただし価格は色やサイズによって違うので実際に買う場合はご注意を。

*2:ただしサイズの問題はクリアされたとする。

*3:なおわたしは廉価版の靴を買いました。いまのところ満足しております。

研究のコスト・リターン・リスク

千住淳氏の

社会脳とは何か (新潮新書)

社会脳とは何か (新潮新書)

を読んでいると、研究のポートフォリオという考え方が書かれてあって少しおもしろかったので紹介(199ff.)。

科学者であれ哲学者であれ、研究者としてのキャリアが進んでいくと、一人の研究者がいつでも複数の研究テーマを抱えていくことが珍しくない。そうなると、いつどの研究をどのくらいするという判断が研究者にとって重要になる。

千住はこれをファイナンス理論における資産運用の問題と比べながら、どのように一人の研究者が自分の研究全体をマネージしていくかに生かそうとする。たとえば資産運用では、複数の種類の資産(株式、預金、債券、不動産など)に自分の資金を配分して全体のリターンを最大化しようする(その資産構成をポートフォリオと呼ぶ)。これと類比的に、研究者は複数の研究テーマのいくつかにどれだけ自分のリソース(時間、研究費)などを投資するかを意思決定して、研究ポートフォリオ全体のリターンを最大化することを目標とする。

その中で一つの研究テーマを評価する基準として研究のコスト・リターン・リスクについて考えることが必要になる。これは金融商品のコストやリターンなどについて考えることと同様であるが、具体的にいうと次のようになるという。

  1. 研究のコスト:研究を遂行するときのいろいろな意味での「支出」。たとえば金銭的支出だと研究費。時間的支出だと研究にかけなくてはならない時間。研究に使うための道具や材料の使用。たとえば研究を行うための材料や道具が手元にそろっていて手早くその研究のための実験を行うことができれば、その研究のコストは低い。
  2. 研究のリスク:研究が成功せず、論文として発表できない確率。たとえば研究のコストが高すぎるなどで、今まで誰もやったことのない実験はリスクが低い。というのはどのような結果ができても新しい現象なので、それに基づいて論文が書ける。直観とは反する予測を行い、それを検証しようとする実験は、予測が反証されたら論文にならないのでリスクが高い。
  3. 研究のリターン:研究のインパクト。重要性(あるいは同僚からの評価)。例えば専門性が高すぎて多くの人に読まれないような研究や、また過去にあった実験を少し条件を変えて再現したような研究は、インパクトが低いので低リターンの研究。


これに対比して哲学における研究のコスト・リスク・リターンを考えるとこのような感じになるだろうか。

  1. コスト。金銭的支出、道具・材料のコストは哲学研究の場合余りたいしたことはない(多くの研究については。ただし、いわゆる実験哲学や個別科学の哲学のように経験的研究に基づく哲学研究もある)。むしろ哲学研究では時間的コストがきつい制約になるかもしれない。例えば文献探究にかけられる時間。長い歴史を持つテーマ(たとえば科学的説明や自由意思)は文献の蓄積が多いので、問題に精通するまでにたくさんの論文を読む必要が出てくる。また個別科学の哲学では、対象となる個別科学について知識を得る必要があるので、コストがかかる。
  2. リスク。科学の研究と同様に、既存の学説を批判しようする研究はリスクが高い(批判がうまくいかないとプロジェクト全体が失敗に終わることになる)。また長い歴史を持つテーマでは、新しい説を提唱するのも(すでに可能な概念的空間が既存の説で占められている可能性が高いので)その可能性が少なくなっているのでリスクが高い。しかし新しいテーマでは、それと逆の状況が成り立っているので、リスクが低い(どんな説を唱えてもそこそこの評価を得られる)。
  3. 研究のリターン。これは科学研究と同じ。重要性。同僚からの評価。たとえば、新しいテーマや非常に狭いテーマの論文は、それを理解できる人が少ないと、インパクトをもちにくくなる。

科学、科学の哲学、自然の哲学

生物学の哲学者Peter Godfrey-Smithが

Darwinian Populations and Natural Selection

Darwinian Populations and Natural Selection

の冒頭で、科学と科学哲学と自然の哲学の区別について語っている(p. 2)。

科学と科学哲学

彼によると、科学と科学の哲学は探求の対象が異なる。科学の対象は自然であり、自然がどうなっているのか(how the world works)を明らかにするものである。それに対して科学哲学の対象は科学であり、科学がどうなっているのか(how the science works)、科学が何を達成するのかを理解することが目的である。

こうした科学哲学が科学にとって役に立つのかは、科学が自分に自覚的であること(self-conscious)が役に立つ程度による。たとえばトーマス・クーンの見方では、科学が最もうまくいくのは、いわゆる通常科学に従事する科学者が自分が何をしているか、また長期的に見てどのように科学が進んでいくかについて誤った考えをもっているときである。この場合、科学哲学は科学の成功には関連がない。Godfrey-Smithはクーンの科学に対する見方そのものには必ずしも賛同するわけではない。しかし科学が自分が何をやっているかに自覚的であることが科学の生産性にいつもプラスになるわけではないことには同意している。

自然の哲学

これに対して、自然の哲学(philosophy of nature)の対象は再び自然である。しかしそれは自然そのもの(これは科学の対象である)ではなく、科学が見たところの自然である。つまり自然の哲学は、科学者が描く自然の見方を元に、それを哲学的に練り上げ、それの本当のメッセージを取り出す、という試みである。Godfrey-Smithの言葉を借りると、「我々はあるトピックについてナマの科学を題材にして、そうした研究が正確なところ何を言っているのか、哲学的に練り上げ取り出すのである」。

しかしこれには二つの疑問がつきまとう。科学に好意的な人は、我々は何で科学の成果をそのまま受け入れないのか、と問うだろう。他方科学に好意的でない人は、なんで科学者のいうことを信じなくてはならないのか、ほかにわれわれが知識を得られるリソースがあるのではないか、と問うだろう。

こうした異論に対してGodfrey-Smithは、ここでいう「自然の哲学」のプロジェクトをサポートするひとつのアイデアを提出している。科学者がどのように自然を探求していくかは、対象となる自然だけではなく科学自体によっても制限を受けている。たとえばリサーチクエスチョンは我々の手に扱えるものでなくてはならないし、用いられる概念的範疇の区分は、現象そのものだけでなく科学者の道具立てによる場合がある。また、日々の研究を進めていくためには様々な単純化を甘受しなくてはならない。

こうした、科学による世界の記述の中で科学の実践のありかたによる制限を受けている部分は、ナマの科学の文脈からより広い議論のために取り出すと、ミスリーディングになる可能性がある。こうした「広い議論」は哲学的であるとき(たとえば心の哲学倫理学)もあればそうでないときもあるが、「科学的情報は一般的にいって、こうした種類の議論に供される前に、処理を受けることが必要である」。こうした処理は多くの場合、様々な分野の議論を総合してそれが一貫した像を描くかどうか確かめる作業になる。

こうした営みを「自然の哲学」と呼ぶからといって、別にこうした仕事をできるのが哲学者だけだといいたいわけではない。多くの科学者もこうした営みに関わっている。しかしこの営みは科学そのものとは異なる、というのがGodfrey-Smithの考えである。

自然を名付ける

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

分類学の歴史を、人間が地域民族に共通して持つ分類学的直観を進化的・系統的分類が最終的に凌駕する歴史として描く。

前半はリンネがその分類体系の構築に当たっていかに自らの分類学的直観(著者はこれを「環世界センス」とよぶ)に頼っていたかの描写から始まる。リンネがその自然誌的経験によってもっていた分類に対するセンスは先輩および同僚の分類学者を凌駕するものであり、それがリンネが分類学界で王にまで上り詰め君臨できた理由である。次の章ではダーウィン、特に彼のフジツボについての研究にスポットを当てる。フジツボの研究はダーウィン及び分類学の歴史に様々な意味をもっていた。言うまでもなくフジツボ分類学的に研究するときには分類学的経験に基づく環世界センスを使わざるを得ないし、研究の結果ダーウィン分類学者のコミュニティ(そうしたセンスを持つ者のコミュニティ)に認められるようになった。しかし、フジツボの研究と分類学的・環世界センスの蜜月はここまでである。というのは、彼はこのフジツボの研究によって自らを分類のエキスパートと学会に認めさせ、自らの進化に対する説が発表された時の信憑性を高めようとする目論見をもっていたからである。それだけではない。彼は進化論と共に「分類は進化の歴史に基づいて行うべし」というアイデアを分類に持ち込んだ。この考えはすぐに分類学者に実践のレベルで受け入れられたわけではないが、20世紀後半に分岐学の根拠の一つとして分類学を根底から変えることになる。つまりダーウィン分類学のセンスに則りながら、その中にそうした伝統的分類学を根底から覆すような種子を潜ませていたわけである。

中盤では、スコット・アトランやブレント・バーリンらの民俗分類学の成果が引用される。ここでわかったことは、狩猟採集民族がその生物環境に行っている分類体系を集めたところ、その間にはかなりの程度の共通性があること(扱う生物群の数、階層性および階層の数など)、そしてそうした特徴は20世紀前半までの(科学的)分類学にも見られるということだ。こうしたことから、それまでの「科学的」分類と民俗分類には本質的な違いはなく、どちらも人類がほとんど生得的にもっている分類能力の現れだということが示唆される。さらに次の章で脳の障害によってこうした環世界センスを失った人――こうした人は生物界の分類能力を失うことに伴い「食べられるもの」と「そうでないもの」の区別ができなくなる――を描写することで、環世界センスが我々の生き残りに欠かせない能力であることが示される。

その意味で20世紀前半までの分類学は環世界センスと相即的だった。しかし20世紀後半の分類学に起こったことは、環世界センスに基づく分類からの離陸である。

第一の波である数量分類学は、生物の間の類似性を数値で表すことで、計量的方法が分類学者の直観に置き換えられることを主張した。この方法自体にはいくつかの欠陥が指摘され大きな影響力を持たなかったが、次の分子的形質の導入は分類学のあり方を大きく変えた。これまでの分類学は生物を文字通り「目」で見てわかる形質(つまり生物のかたち)に基づいて分類することが多かった。こうした営みでは、容易に想像できるように、分類学者が子供の頃から自然に慣れ親しむ中で培われた「環世界センス」が力を発揮する。しかし分子的性質とはつまり生物が持っている肉眼では見ることのできないDNA配列のことであり、そうした配列に基づく分類では「環世界センス」の役割は大きく低下する。

そして最後に分岐学が環世界センスにもとづく分類学に決定的な一撃を与えた。分岐学は先のダーウィンによる「分類は進化の歴史に基づいて行うべし」というアイデアを発展させ、「分類は進化の歴史にのみ基づくべし」と主張する。これがなぜ決定的な一撃を与えるのか。詳細な議論は本書を見てほしいが、分岐学によると、我々が慣れ親しんだ分類群――その代表例がサカナ(魚類)だ――が正規の分類群として認められなくなるのである。こうしたおなじみの分類群は、狩猟採集民と我々が共通に自然種として認めるものであるため、分岐学はこれまでの環世界センスに基づく分類からの原理的離脱を我々に求めることになった。

しかしヨーンは最後に切り返す。確かに分岐学は「科学的分類」を打ち立て、環世界センスに基づく分類学から離脱した。しかしそれが本当によいことだったのだろうか。そのとき著者は我々(というのは都会に住む人々のことだが)の多くがかつて持っていた自然に対する直観的知識を失ったこと、そしてそれによって地球環境の危機が到来したことを指摘する。その意味で、環世界センスにはまだ居場所があるし、我々はそれを取り戻さなくてはいけないのだと結論する。

ここまで読んでみてわかるとおり、著者は18世紀からの分類学の発展を物語としてうまくまとめている。つまり「物語・分類学の歴史」としてはとても読ませる本になっている。また分類学者の思考様式に「直観」的分類がどのくらい組み込まれてきたかについては、わたしの関心事でもある。実際のところ、わたしは個々の分類群の分類だけでなくて、「種」というカテゴリーに対する分類学者の振るまい方にもそうした直観が働いていると考えている(このあたりはわたしの博士論文を参照のこと)。そういう意味で大筋ではわたしは著者の見方に賛同する。しかし気になるところもある。

一つは、著者は分岐学的分類では魚類が正当な分類群とされなくなったから、「魚類は実在しない」というのが科学の結論だと述べる。私見によればこの推論は誤りだ。もし「存在する」ということを「自然種である」ということだと考えるならば、単系統群だけが自然種になれるというわけではない。たとえば科学的説明に必要であるならば、非単系統群(多系統群、側系統群)も自然種と見なすことができ、実在すると考えてよいのではないか。つまり「Xが正規の分類群である」ということと「Xが実在する(自然種である)」ということは別の事柄だと考えることができるのではないか。

もう一つはエルンスト・マイヤーの扱いである。この本ではマイヤーが環世界センスに基づく分類学者であったことが強調されている。しかしマイヤーは同時に伝統的な分類学(環世界センスに大きく依存している分類学)に非常に批判的であったことも忘れてはならない。実際、マイヤーが分類学上の論的を批判するときには、相手を「類型学的」(typological)とレッテルを貼ることは珍しくなかったし、生物学的種概念も種の分類を単なるセンスの問題から解放しようとする意図があったといえる。

また、結論部で著者は、都市住民が環世界センスを失ったことを嘆き、環世界センスの復権を環境破壊をせき止めるための要因として訴える。たしかに現代の都市住民の生物についての知識は、自然に囲まれた人々・昔の人々のそれに比べるときわめて貧弱である。しかしそうした貧弱化は都市化・文明化の結果であって、つまり自然破壊と環世界センスの貧弱化はどちらも都市化の結果だろう。そこをヨーンは取り違えているように思われる。

そうした問題はあるものの、ダーウィン以降の分類学がたどった歴史を語る「分類学戦国絵巻」としては読みやすく、おもしろい本だ。翻訳についても引っかかるところは一読した限りではほとんどなく、流れに沿って読める。ただ、バークリーの言葉として「実在は知覚できる」とある(267ページ)が、これは有名な「実在するとは知覚されることである」(To be is to be perceived, あるいはesse is percipi)が引かれているのではないかと思った(ただし原書が手元にないので原文でどうなっているかはわからない)。