まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

分析哲学を理解するには意外と訓練がいる

科学や不平等について書かれた某本の訳文についての議論を見た(訳本を批判するのが主題ではないので、訳書にはリンクしません)。そこでの指摘を見る限り、訳の問題には、予備校でやるような英文読解の問題もあったが、哲学のカルチャーや術語の重みがうまく理解されていないからくるものもあったようだ。

これは、哲学の専門家でない人が哲学の本を訳すときによく出てくる問題で(上の本を訳した方は心理学者のようだ)、いくつかの例が思い浮かぶ。

  • マイヤーの本で、essentialism(本質主義)が「実在論」と訳されたことがあった(マイヤーは個々の種に関しては本質主義に反対するが、種カテゴリーについては実在論者なので、このように訳すとマイヤーの主張を完全に取り違えてしまうおそれがある)し、
  • またマイヤーの別の訳書では、scientific realism(科学的実在論)が「科学的現実主義」と訳されたこともある(当該の本はこのほかにもすごい間違いがいっぱいある)。
  • ピンカーの某本でも哲学用語の翻訳におかしいものが結構あった。

もちろん、哲学者が哲学書をいつも適切に訳せるわけではないのだが、こうしたことがどうして起こるのか。原因の一つは、哲学(とくに英米の)というのが、専門分化していないように見えて、実は専門分化しているからではないかという気がする。英米の哲学は、カントやフッサールなどに比べると取っつきやすいが、ある程度の知識や訓練なしに誰でも読めて理解できるというわけではない。専門外の人がカントについて書かれた本を(カント哲学やカントの思考のスタイルについての知識なしに)適切に訳せるとは思わない。また、物理学の素養がない人が物理学の本を適切に訳せるとも思わない。しかしこのことは、実は英米の哲学についてもある程度は正しいのではないか。たとえば、「パラドックス」と「矛盾」が概念としてinterchangeableと思う(分析)哲学者はほとんどいないだろうが、専門外の人にとってはそうは見えないかもしれない。