まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

これはアートか? そしてなぜこの問いが間違っているのかについて

わたしがこんなことを言っていいのかどうかわからないが、モノの定義に関する論争にはニセの論争に陥る危険がいつもある。そうした危険についてのエントリを訳してみました。

これはアートか? そしてなぜこの問いが間違っているのかについて
Julia Galef

美術館を訪れる人の期待を裏切ろうとすることが芸術家に求められて、白紙のカンバスから死んだ鮫にいたるまで何でもかんでも展示するようになってから、「これはアートだ」「そうじゃないよ」という熱い論争がたくさん見られるようになった。みなさんもこうした議論を聞いたり、関わったりしたことがあるだろう。例えば、こんな感じだ。

A: こんなのアートじゃないよ! アーティストは何にもしていない。ただ便器を見つけて自分の名前を書いただけだよ。
B: 違うよ。これはアートだよ。だって主張があるじゃない。

あるいはこんな感じだ。

C: これはアートじゃないよ。ただの広告じゃない。ものを人に売りつけることだけが目的なのよ。
D: 違うよ。これはアートだよ。視覚的に目立つし、感情を喚起するじゃない。

ここで最初に気がつくべきことは、ある対象が「アートである」かどうかについて人々の意見が異なるとき、その対象がどういう特性をもっているかについて彼らの間で意見が異なることはほとんどない、ということだ。わたしの最初の例では、A氏とB氏はアーティストが便器を見つけてそれに自分の名前を書いたこと、またそうすることがそのアーティストがなにか主張をしていることについては意見が同じである。彼らの意見が異なるのは、こうした事実がその対象を「アート」と呼ぶのに十分かということである。第二の例では、C氏とD氏は当の対象が視覚的に目立ち、感情を喚起する力があること、そしてその対象がなにかを売ろうという目的のみで作られたことについては意見を同じくしている。彼らが同意しないのは、こうした性質がその対象を「アート」と呼ぶのに十分かという点だけである。

だから、双方が本当に意見を異にする事柄は------それをはっきり理解しているかどうかは別として------「アート」ということばの定義である。しかし、あることばの定義に反対するとは、訳のわからないことではないだろうか。ある意味では、ことばの定義というのは経験的な問いである。つまりそのことばを使うとき、多くの人がどういうことを意味しているのか聞けばよいのである。しかし、こうした問いには、辞書を調べたり調査をすることできわめて簡単に答えられる。

他方では、あなたがことばを定義することができる。それによって、相手が理解するかぎりにおいて、そのことばに好きな意味を与えることができる。もしA氏が「アート」を「作るのに技能が必要な、美しいもの」という意味で使い、B氏が「アート」ということばを「ある主張を行うために意図的に作られたもの」という意味で使っているなら、便器が「アート」かどうかについての彼らの論争は、双方が「アート」ということばで意味するところを明らかにすれば、たちまち解消するはずのように見える。

すると、もし「アートとは何か」という問いが単にことばの意味に関わる問いなら、なぜこの論争がいまなお人々を熱くさせるのだろうか。なぜ意見の不一致がことばの定義にとどまらないように思えるのだろうか。

それは実際にそうだからである。「これはアートか」という問いは、Eliezer Yudkowskyが「偽装された問い」と呼ぶもののとてもよい例だとわたしは思う。...対象がどのカテゴリーにはいるかを議論するときには、「なぜそれが問題なのか」を問うことで話がきわめてはっきりする。例えば...、16才は大人だろうか? それは・・・そうした問いを発する理由による。その問いとは、16才の人が子供をもうけてよいかという問題かもしれない。あるいは、16才の人に人生を変えるような決断をさせてよいかという問題かもしれない。いずれにせよ、16才を大人に数えてよいかという議論は、そうした問いを発する理由を理解すると、ポイントをはずしたものになる。...

だから、「これはアートか」と尋ねるとき、われわれは「[そして]なぜそのことが問題なのか」と続けることで、[元の問いが本当に尋ねたかった]偽装された問いに至ることができる。わたしが見るかぎり、この[アートに関する]ケースの偽装された問いはふつう「これは真剣に受け取るに値するものか?」というものであり、この問いは事実上「これはギャラリーに展示される価値のあるようなものか?」というものに翻訳できる。そして、これはたしかにことばの意味にとどまらない、本物の論争になる。しかし、そうした論争には、「アート」というラベルを対象に当てはめるべきかどうか決める必要はない。じっさい、「アート」ということばをまったく取り去ってしまった方がこの論争は遙かにクリアになると思う。

アートをどう定義するかについて議論する理由が、どのようなものに対してわれわれの注意やお金やギャラリーのスペースを割くべきか決めたいということであるならば、そうした問題だけに直接取り組むべきだ。...こうした問題[を解決するには、それに]について集団として意志決定をする方法を定める必要もある。しかし、われわれが現在行っていることは以下のようなことだ------「美術館はアートを収容すべきである」という言明に皆同意しつつ、各人が「アート」を「美術館での展示に値するのに十分だと考える性質を持っている対象」と定義する。このやりかたはちょっとでも[問題の解決の]助けになるだろうか。