まとまり日記

私はこういうときでも自分がいじけなかったこと、力むことなくそういう風に育ったのが母への感謝なのである。これは大きかった。恥ずかしさの容量が大きいのは強いのだ。見栄を張らないで生きること、これは何よりも大きな糧である。(森信雄)

科学、科学の哲学、自然の哲学

生物学の哲学者Peter Godfrey-Smithが

Darwinian Populations and Natural Selection

Darwinian Populations and Natural Selection

の冒頭で、科学と科学哲学と自然の哲学の区別について語っている(p. 2)。

科学と科学哲学

彼によると、科学と科学の哲学は探求の対象が異なる。科学の対象は自然であり、自然がどうなっているのか(how the world works)を明らかにするものである。それに対して科学哲学の対象は科学であり、科学がどうなっているのか(how the science works)、科学が何を達成するのかを理解することが目的である。

こうした科学哲学が科学にとって役に立つのかは、科学が自分に自覚的であること(self-conscious)が役に立つ程度による。たとえばトーマス・クーンの見方では、科学が最もうまくいくのは、いわゆる通常科学に従事する科学者が自分が何をしているか、また長期的に見てどのように科学が進んでいくかについて誤った考えをもっているときである。この場合、科学哲学は科学の成功には関連がない。Godfrey-Smithはクーンの科学に対する見方そのものには必ずしも賛同するわけではない。しかし科学が自分が何をやっているかに自覚的であることが科学の生産性にいつもプラスになるわけではないことには同意している。

自然の哲学

これに対して、自然の哲学(philosophy of nature)の対象は再び自然である。しかしそれは自然そのもの(これは科学の対象である)ではなく、科学が見たところの自然である。つまり自然の哲学は、科学者が描く自然の見方を元に、それを哲学的に練り上げ、それの本当のメッセージを取り出す、という試みである。Godfrey-Smithの言葉を借りると、「我々はあるトピックについてナマの科学を題材にして、そうした研究が正確なところ何を言っているのか、哲学的に練り上げ取り出すのである」。

しかしこれには二つの疑問がつきまとう。科学に好意的な人は、我々は何で科学の成果をそのまま受け入れないのか、と問うだろう。他方科学に好意的でない人は、なんで科学者のいうことを信じなくてはならないのか、ほかにわれわれが知識を得られるリソースがあるのではないか、と問うだろう。

こうした異論に対してGodfrey-Smithは、ここでいう「自然の哲学」のプロジェクトをサポートするひとつのアイデアを提出している。科学者がどのように自然を探求していくかは、対象となる自然だけではなく科学自体によっても制限を受けている。たとえばリサーチクエスチョンは我々の手に扱えるものでなくてはならないし、用いられる概念的範疇の区分は、現象そのものだけでなく科学者の道具立てによる場合がある。また、日々の研究を進めていくためには様々な単純化を甘受しなくてはならない。

こうした、科学による世界の記述の中で科学の実践のありかたによる制限を受けている部分は、ナマの科学の文脈からより広い議論のために取り出すと、ミスリーディングになる可能性がある。こうした「広い議論」は哲学的であるとき(たとえば心の哲学倫理学)もあればそうでないときもあるが、「科学的情報は一般的にいって、こうした種類の議論に供される前に、処理を受けることが必要である」。こうした処理は多くの場合、様々な分野の議論を総合してそれが一貫した像を描くかどうか確かめる作業になる。

こうした営みを「自然の哲学」と呼ぶからといって、別にこうした仕事をできるのが哲学者だけだといいたいわけではない。多くの科学者もこうした営みに関わっている。しかしこの営みは科学そのものとは異なる、というのがGodfrey-Smithの考えである。

自然を名付ける

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

分類学の歴史を、人間が地域民族に共通して持つ分類学的直観を進化的・系統的分類が最終的に凌駕する歴史として描く。

前半はリンネがその分類体系の構築に当たっていかに自らの分類学的直観(著者はこれを「環世界センス」とよぶ)に頼っていたかの描写から始まる。リンネがその自然誌的経験によってもっていた分類に対するセンスは先輩および同僚の分類学者を凌駕するものであり、それがリンネが分類学界で王にまで上り詰め君臨できた理由である。次の章ではダーウィン、特に彼のフジツボについての研究にスポットを当てる。フジツボの研究はダーウィン及び分類学の歴史に様々な意味をもっていた。言うまでもなくフジツボ分類学的に研究するときには分類学的経験に基づく環世界センスを使わざるを得ないし、研究の結果ダーウィン分類学者のコミュニティ(そうしたセンスを持つ者のコミュニティ)に認められるようになった。しかし、フジツボの研究と分類学的・環世界センスの蜜月はここまでである。というのは、彼はこのフジツボの研究によって自らを分類のエキスパートと学会に認めさせ、自らの進化に対する説が発表された時の信憑性を高めようとする目論見をもっていたからである。それだけではない。彼は進化論と共に「分類は進化の歴史に基づいて行うべし」というアイデアを分類に持ち込んだ。この考えはすぐに分類学者に実践のレベルで受け入れられたわけではないが、20世紀後半に分岐学の根拠の一つとして分類学を根底から変えることになる。つまりダーウィン分類学のセンスに則りながら、その中にそうした伝統的分類学を根底から覆すような種子を潜ませていたわけである。

中盤では、スコット・アトランやブレント・バーリンらの民俗分類学の成果が引用される。ここでわかったことは、狩猟採集民族がその生物環境に行っている分類体系を集めたところ、その間にはかなりの程度の共通性があること(扱う生物群の数、階層性および階層の数など)、そしてそうした特徴は20世紀前半までの(科学的)分類学にも見られるということだ。こうしたことから、それまでの「科学的」分類と民俗分類には本質的な違いはなく、どちらも人類がほとんど生得的にもっている分類能力の現れだということが示唆される。さらに次の章で脳の障害によってこうした環世界センスを失った人――こうした人は生物界の分類能力を失うことに伴い「食べられるもの」と「そうでないもの」の区別ができなくなる――を描写することで、環世界センスが我々の生き残りに欠かせない能力であることが示される。

その意味で20世紀前半までの分類学は環世界センスと相即的だった。しかし20世紀後半の分類学に起こったことは、環世界センスに基づく分類からの離陸である。

第一の波である数量分類学は、生物の間の類似性を数値で表すことで、計量的方法が分類学者の直観に置き換えられることを主張した。この方法自体にはいくつかの欠陥が指摘され大きな影響力を持たなかったが、次の分子的形質の導入は分類学のあり方を大きく変えた。これまでの分類学は生物を文字通り「目」で見てわかる形質(つまり生物のかたち)に基づいて分類することが多かった。こうした営みでは、容易に想像できるように、分類学者が子供の頃から自然に慣れ親しむ中で培われた「環世界センス」が力を発揮する。しかし分子的性質とはつまり生物が持っている肉眼では見ることのできないDNA配列のことであり、そうした配列に基づく分類では「環世界センス」の役割は大きく低下する。

そして最後に分岐学が環世界センスにもとづく分類学に決定的な一撃を与えた。分岐学は先のダーウィンによる「分類は進化の歴史に基づいて行うべし」というアイデアを発展させ、「分類は進化の歴史にのみ基づくべし」と主張する。これがなぜ決定的な一撃を与えるのか。詳細な議論は本書を見てほしいが、分岐学によると、我々が慣れ親しんだ分類群――その代表例がサカナ(魚類)だ――が正規の分類群として認められなくなるのである。こうしたおなじみの分類群は、狩猟採集民と我々が共通に自然種として認めるものであるため、分岐学はこれまでの環世界センスに基づく分類からの原理的離脱を我々に求めることになった。

しかしヨーンは最後に切り返す。確かに分岐学は「科学的分類」を打ち立て、環世界センスに基づく分類学から離脱した。しかしそれが本当によいことだったのだろうか。そのとき著者は我々(というのは都会に住む人々のことだが)の多くがかつて持っていた自然に対する直観的知識を失ったこと、そしてそれによって地球環境の危機が到来したことを指摘する。その意味で、環世界センスにはまだ居場所があるし、我々はそれを取り戻さなくてはいけないのだと結論する。

ここまで読んでみてわかるとおり、著者は18世紀からの分類学の発展を物語としてうまくまとめている。つまり「物語・分類学の歴史」としてはとても読ませる本になっている。また分類学者の思考様式に「直観」的分類がどのくらい組み込まれてきたかについては、わたしの関心事でもある。実際のところ、わたしは個々の分類群の分類だけでなくて、「種」というカテゴリーに対する分類学者の振るまい方にもそうした直観が働いていると考えている(このあたりはわたしの博士論文を参照のこと)。そういう意味で大筋ではわたしは著者の見方に賛同する。しかし気になるところもある。

一つは、著者は分岐学的分類では魚類が正当な分類群とされなくなったから、「魚類は実在しない」というのが科学の結論だと述べる。私見によればこの推論は誤りだ。もし「存在する」ということを「自然種である」ということだと考えるならば、単系統群だけが自然種になれるというわけではない。たとえば科学的説明に必要であるならば、非単系統群(多系統群、側系統群)も自然種と見なすことができ、実在すると考えてよいのではないか。つまり「Xが正規の分類群である」ということと「Xが実在する(自然種である)」ということは別の事柄だと考えることができるのではないか。

もう一つはエルンスト・マイヤーの扱いである。この本ではマイヤーが環世界センスに基づく分類学者であったことが強調されている。しかしマイヤーは同時に伝統的な分類学(環世界センスに大きく依存している分類学)に非常に批判的であったことも忘れてはならない。実際、マイヤーが分類学上の論的を批判するときには、相手を「類型学的」(typological)とレッテルを貼ることは珍しくなかったし、生物学的種概念も種の分類を単なるセンスの問題から解放しようとする意図があったといえる。

また、結論部で著者は、都市住民が環世界センスを失ったことを嘆き、環世界センスの復権を環境破壊をせき止めるための要因として訴える。たしかに現代の都市住民の生物についての知識は、自然に囲まれた人々・昔の人々のそれに比べるときわめて貧弱である。しかしそうした貧弱化は都市化・文明化の結果であって、つまり自然破壊と環世界センスの貧弱化はどちらも都市化の結果だろう。そこをヨーンは取り違えているように思われる。

そうした問題はあるものの、ダーウィン以降の分類学がたどった歴史を語る「分類学戦国絵巻」としては読みやすく、おもしろい本だ。翻訳についても引っかかるところは一読した限りではほとんどなく、流れに沿って読める。ただ、バークリーの言葉として「実在は知覚できる」とある(267ページ)が、これは有名な「実在するとは知覚されることである」(To be is to be perceived, あるいはesse is percipi)が引かれているのではないかと思った(ただし原書が手元にないので原文でどうなっているかはわからない)。

免許をとる時に役立ったものメモ

4月から北海道に住むようになっていきなり必要になったのがクルマの免許。わたしの住むところは都会に比べて公共交通機関が圧倒的に発達していないので、クルマがないと職場←→自宅の往復以外の人生を送ることができない。ということで4月から自動車学校に通い始めて、このたび無事免許を取ることができたので、そのときに役に立ったものを紹介。

ビデオ

まず役に立ったのがYouTubeに上がっている自動車教習所のビデオ。たとえばこの動画のシリーズは埼玉県の教習所で使っていると思われるが、よくまとまっていて助かる。

こういうのを実技教習の前後に見るとよい予習・復習になる。

以下のものは兵庫県の教習所の元指導員の方がアップロードされているビデオ。これはペーパードライバー向けの講習であり、教習所で教えられていることと違うことを言っている箇所もあるが、かえっていろいろな見方を知ることができて勉強になる。

またハンドルの回し方についてはこの動画が非常に参考になった。

あとわたしの場合は時速60キロで走ることに最初のうちはだいぶ恐怖を感じていたので、高速道路の走行をドライブレコーダーで撮影した動画をたくさん見てスピードに慣れるようにした。

本も少し買って勉強した。

わかる!解ける!普通免許一発合格問題集

わかる!解ける!普通免許一発合格問題集

これは学科試験のための勉強本で、教習所が学科試験のための問題集をくれるだろうから、人によっては必要ないかもしれない。ただ、教習所に入る前から買って眺めておくと長い時間をかけて憶えるので忘れにくい感じがするし、また複数の参考書を使うと異なった文脈で勉強できるので憶えやすくなる(ただし別にこの本である必要はない)。

決定版 女性のための運転術

決定版 女性のための運転術

プロのレーシングドライバーが特に運転が下手だとされる女性にクルマや運転の基本について解説した書。とはいえ女性だけでなく運転初心者の男性にも役に立つないようになっている。女性の初心運転者五人とドライブして彼女たちの運転の問題点を解説した箇所は、初心者が陥りやすい陥穽を説明していて役に立つ。また「雨の高速道路はできるだけ運転しない」「見るものしか信じない」など、元レースドライバーにしてこれだけ安全運転に気を遣っているのかのがわかり、これは新鮮な驚きでもある。著者は外見から想像されるようにマッチョな人であり、また「クルマ愛」が筆致から隠しきれないところもあるので、そういうのが虫酸が走るほど嫌いな人には勧められない。ただ著者と愛情を共有できなくても有益な情報はとれるように、クルマや運転に関してはバランスのとれた書き方をしている。

新米英語教師が見た本

四月から勤務先の大学で英語の授業を始めるに当たって参考にした本の紹介。

まず手っ取り早く役に立ったのが次の本だ。

高校英語授業を変える!  訳読オンリーから抜け出す3つの授業モデル (アルク選書シリーズ)

高校英語授業を変える! 訳読オンリーから抜け出す3つの授業モデル (アルク選書シリーズ)

典型的ないままでの高校の英語授業を「英語のテキストを訳読するだけの授業」と捉え、三人の著者がそれから脱出するための三つのモデル――パラグラフチャート、英語縮約版を利用した「二度読み」モデル、Two way translation活動モデル――を提案する。この本の目的は、文法訳読式の授業が与える英文への「理解」だけでなく、音読などを通じてそうした文の「定着」へ向けた活動を取り込むための新たな授業のモデルを提起することだ。そのため各モデルはその実行可能性について討論や実践によるテストを経てきている。わたしもリーディング中心の二年生向けの必修クラスではここで紹介されている「パラグラフチャート」のモデルを使っていて、それなりに好評だ。実際のところ授業をやる際にはどのように授業をデザインするかがもっとも神経を使うところのひとつなので、こうした試みは教師の負担を大きく減らすものとして歓迎できる。

ただし、この本は「どうやって定着活動を授業に取り入れるか」については書いてあるが、「なぜ定着活動を取り入れた方がよいのか」「定着活動をして本当に効果があるのか」についてはほとんど書いていないので、その点に納得できない人は他の本に当たる必要がある。そうした定着活動の重要性を示しているのが、第二言語習得論を専門とする白井の一連の著作だ。

英語教師のための第二言語習得論入門

英語教師のための第二言語習得論入門

第二言語習得論を専門とする著者がその成果を一般向けに記した本。第二言語習得論(Second Language Acquisition, SLA)とは母国語以外の言語をどのように習得するかを研究する学問である。SLAの長所はなんと言っても様々な外国語学習法にたいして証拠に基づく評価をある程度与えられるところだ。著者は他にも色々同様の本を出しているが、これは「英語教師のための」と題にあるだけに、教師にとってはもっとも取っつきやすい。

この本の一番のポイントは、「理解可能なインプット」の量を現在よりも飛躍的に増やすことが学生・生徒の英語能力を向上させるのに不可欠だという点だ。つまり「だいたいわかるようなマテリアルを大量に聞かせる・読ませる」ことが大事であり、それに対して昔ながらの文法訳読形式では、与えられた英文を「正確に」「理解」することだけに時間が費やされてしまうためにインプットの量が少なくなってしまうというのである。ほかにも教師の「日本語式発音」はそれほど問題ではないとか、小学生レベルでの週一時間程度の外国語学習では母国語の能力には影響がないといった点も示唆に富む。小学生から社会人まで、およそ英語を教えることを生業にしている人なら一度は読んで損のない本だ。

また、次の本もよい。

英語授業の大技・小技

英語授業の大技・小技

これは中高・高専で教えてきた英語教師のティップス集で、授業をスムースに動かし生徒にモチベーションを与えるような授業デザイン・進行のヒントが書かれている。授業に慣れてきて学生からの反応もそれなりに良くなって「自分の授業もなかなかのものだな」とうぬぼれたときときにこの本を読むと、著者の教師としての腕のさえに自分の未熟さを思い知らされることになる。

同じ著者の次の本はもっと著者の理想とする英語授業のあり方が前面に出ている。

英語授業の心・技・体

英語授業の心・技・体

また、次の本はテストをどう作るかについて書かれている。

英語テスト作成の達人マニュアル (英語教育21世紀叢書)

英語テスト作成の達人マニュアル (英語教育21世紀叢書)

中学から大学まで英語教師としてデザインする英語テストのあり方について考えたもの。わたしにとって役だったのは、中間試験や期末試験のような授業に関係するテストのデザインだ。著者は、大学入試などの「選抜」のためのテストと異なり、授業の中のテストは生徒学生に勉強のための能力やモチベーションを高めるものだとし、「どういう形式のテストなら英語運用に関するどういう能力を高めることができるか」を詳細に記述していく。たとえば英文の和訳テストは「英語の勉強は英語を日本語の文章に直すことである」という考えを植え付けるのでダメ、それよりも英文要約や英文選択肢の選択の方がよい,といった感じだ。また小テストの形式をこれでもかとばかりに分類してそれが養う能力を分析した部分は圧巻だ。個人的にはテストをモチベータにしてコースをデザインしていくほうがやりやすいので、この本は大変参考になる。

『進化論の射程』第二刷出来

皆様にご愛顧いただいていおりますソーバー先生の

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

  • 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2009/04/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 9人 クリック: 135回
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ですが、おかげさまでこのたび第二刷になりました。第一刷の誤植や誤りも修正されている(はず)ですので、生物学の哲学に関心のある方の常備薬として、印刷所のインクが切れる的勢いでお買い上げいただけますよう、よろしくお願いします。

四月より(2)

科学研究費補助金(基盤C)にわたしの研究課題「人間理性の進化的起源についての『社会的転回』の哲学的検討」が採択されることになりました。ありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願い申し上げます。

一年生ゼミ用図書(予定)

春から一年生のためのゼミを担当することになり、そこで使えそうな本をいくつか読んでみたので、簡単にレビュー(ただしわたしの所属学科は経済・経営系なので、それを前提として読んで下さい)。


新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

拙いレポートしか書けなかった大学生のヘタ夫が哲学者の「先生」と出会い、論文やレポートの書き方を学んでいくなかで、「レポートを書くとはどういうことか」を何も知らなかった読者に教えていく本。ストーリーテラーとしての著者の才が発揮されて、全編二人の対話で進んでいくので取っつきやすい。この本の出色なところは、先生とヘタ夫の見事な掛け合い...ではなく、「トピックについてどういう種類の本を選んだらよいか」という論文を書く準備をする第一歩のところからすすめているところだ。電子辞書より紙の辞書を薦めているなど、やや賛同できないところもあるし、またそもそもヘタ夫の最初のレポートがわたしのところの学生にとっては結構レベルが高いのでは(応用倫理の授業をとるなんて結構ガッツがあると思う)という疑惑もあるが、基本的に自分で読んで・学生に勧めて損はない。


レポート・論文の書き方入門

レポート・論文の書き方入門

哲学者の著者によるレポートの書き方の入門書。本書の特色は「テキスト批評」と題して、人文社会系の研究ではほぼ必須の「ある本の内容をまとめてそれについて有意義な何事かを語る」ための技法を解説している点だ。本文は100頁強で短いのに、後半は引用のやり方などやや形式的な点にスペースを割いていて、運転免許講習でいう「第一段階」にある一年生にとってはあまり有用ではないかもしれないと感じた。


武器としての決断思考 (星海社新書)

武器としての決断思考 (星海社新書)

著者の競技ディベートでの経験を生かし、ディベートでどのように自説を擁護し相手に反論していくかを説明することを通して、よりよい意思決定の方法を伝えようとする本。「いまは時代が劇的に変わったので大学生のキミたちは〈自分の頭で考える〉ことが生き残るために必要なのだ」という冒頭のアジテーションは陳腐すぎて鼻白むが(それは著者もわかっていると思う)、紹介された考え方の方法自体は定石にかなったものでオーソドックス。ただ競技ディベートの方法がベースになっている以上、読者がなにがしかの(社会)問題に興味を持っていてそれを解こうという意欲を持っていることが前提となっているので、そうした意欲の醸成から始めなくてはいけない場合にはちょっとハードルが高いかも。


こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書)

こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書)

前に紹介した大竹先生の本と同じく、身近な現象を因果とインセンティブの点から分析することによって経済学の広がり・考え方を読者に感じてもらうための本。大阪大学につながりのある著者たちが様々な社会現象について論じることで、経済学の懐の広さを示している。解雇規制の逆説や耐震偽装が生じるメカニズムの解明など、インセンティブを無視して「道徳」から社会を評論し設計することがいかに一面的であるかを説得的に論じる。またこの本の優れたところは、個人の美貌と賃金の関係や東大卒業の出世への影響を論じた章に典型的に見られるように、経済学の研究対象の広さだけでなく、経済学の方法についても示唆されている点である。週刊経済誌の連載を元にしたもので全体的にわかりやすいので、上の大竹先生の本と共にゼミでの輪読に使ってみてもよいかもしれない。


思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント (朝日新書)

思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント (朝日新書)

〈いかにも社会で役立つような講義よりも、浮き世離れした学問の方が、応用の利く思考の「型」を与えるという意味で幅広く役に立ち大学で教えるにふさわしい〉という信念を背景に、経済学の基本的な概念を日常生活の文脈でどう応用するかを解説した本。経済学の入門書を読んだ人にはおなじみの話題が並ぶところもあるが、「好み(選好)の異なる人を見つけたときがビジネスのチャンス」など、新しいアイデアのヒントになるところもある。ただ各概念の解説も駆け足気味かつやや天下り感ありで、類書の『経済学的思考のセンス』の方が取っつきやすい。

また双曲割引の解説(158ff.)は部分的にわかりにくい。著者は159ページでは「『今日・明日』というごく近い感覚の比較では将来を大きく割り引き、『年』といったそれなりに先の、ある程度長い期間の比較では辛抱強く、計画的になる傾向がある」と述べている。これは実現が迫った事柄(例:今ケーキをたべる)と実現が遠い将来の事柄(例:2年後に実現するダイエットの成就)を比較するときは後者の効用の大きさを大きく割り引くが、1年後に実現する事柄(例:一年後の今日ケーキを食べる)の比較では、2年後に実現する事柄の効用をそれほど割り引かないということだ。

ところが著者はこの後で「期日が近いほど割引率が大きくなるという現象は双曲割引といわれます」(160)と説明している。これは「期日が近い事柄」(今ケーキを食べる)の割引率が大きくなるように聞こえ、ミスリーディングである。さらに同じ頁にあるグラフでは、X軸に「期日への遠さ」(遠いほど原点から離れる)、Y軸に「割引率の大きさ」がとられているので、上の誤解を増幅させるような書き方になってしまっている(右図)。正しくはwikipediaのように、享受する瞬間の効用を1としたときのある時点での効用の大きさをY軸にとるととよいのだと思う。